2016年4月20日水曜日

石原莞爾 松蔭室




石原莞爾 戦争史大観(自筆)


 養生会の第106回「松蔭祭(吉田松陰先生記念会)」が弘前市元長町の松蔭室(養生幼稚園隣)で開催されたので、お邪魔した。以前から松蔭室に興味があって、訪ねたいと思っていたので、こうした機会はありがたかった。

 寛永五年三月(1852)、若き日の吉田松陰と熊本出身の宮部鼎蔵は、雪の矢立峠を越え、弘前に入り、儒学者の伊東梅軒(廣之進)を訪ねる。そして国事や異国船への弘前藩の対応などを語り合った。その場所を、当時そのままに保存したのが、この松蔭室である。医師である伊東重は、藩医の家系で、家が伊東梅軒の隣にあったことから(親類関係ではない)、この家を購入し、養生幼稚園を創立した。さらに吉田松陰の来弘し、懇談した部屋を記念すべく、そのまま保存した。そして明治44年からは吉田松陰の来弘を記念して、来訪日の3月1日、新暦では419日に松蔭祭を行うことにして、今日に至っている。戦前、戦後、一度もかかさず、今回で106回目の開催となる。

 地元ではこの松蔭室は隣に幼稚園があったことから“幼稚園”と呼ばれ、養生会のメンバーや若者が集まり、いろいろな講演を聞いた。こうしたことから若者に地元の名士の遺品を直に見てもらおうと、多くの方から寄贈品があり、それを陳列した棚を“偉人棚”とした。展示品は以下のものである(松陰室パンフレットより)。

西郷隆盛手製の烏賊釣り具
勝海舟の檜皮篭
福澤諭吉の「民間経済録」坂木(版木の間違いか?)
丁汝昌の菓子入(自殺の枕元にあったもの) 清の北洋艦隊提督、日清戦争
乃木大将愛用の碁石(旅順包囲中に使用したもの)
山県元帥の軍服
児玉大将の状箱
本多庸一の説教原稿
伊東梅軒の書
陸羯南の書
東郷元帥の書
後藤新平の書
一戸大将の書
中村大将の書

 これらの品は、珍田捨巳、一戸兵衛などから寄贈されたもので、由緒ははっきりしている。さらに昭和天皇の傅育官、弥富破摩雄(旧制弘前高校教授)から寄贈の昭和天皇幼年時の学習院制服や、石原莞爾中将の「戦争史大観」の直筆原稿などがある。今回の松蔭祭では札幌在住の方より発禁処分となって、50部しかない北一輝(輝次郎)「国体論及び純正社会主義」が寄贈された。

 私自身、最も興味があったのは石原莞爾の「戦争史大観」の原稿である。戦争史を通観することで、将来の戦争を考察したもので、もともとは講話を本としてまとめたものとされているが、予備役となった昭和167月に中央公論社から出版された。偉人棚にある「戦争史大観」の表紙では昭和162月となっており、出版原稿であろう。一ページおきの文章となっており、表紙の裏には“呈上 伊東六十次郎先生 昭和十九年二月二十九日 石原莞爾”となっている。伊東六十次郎については私のブログ(2011.11.28)を参照してほしいが、石原莞爾と伊東は友人、先生、弟子関係であり、互いに認め合う存在であった。そのため、戦争末期、東条英機に睨まれ、生命の危険性もあった石原は自分の原稿を最も信頼できる伊東に託したのであろう。弘前は戦火にも合わず、松蔭室で大事に保管されてきたため、こうした形で残されることとなった。

 内容については、くわしく検証していないが、青空文庫にある“戦争史大観”と比べると一部は違うが、ほぼ一致する。例えば、第二篇 戦争史大観の序説のところでは“ドイツ流の直訳”、“モルトケ直訳”は、原稿ではそれぞれ“ドイツ流の丸呑”、“モルトケ丸呑”となり、“ヒットラー流?”は“ヒットラー?”となっている。校正時の修正箇所であろう。ほとんど修正、書き込みもなく、淡々と記述しており、字体も特に変わった特徴もなく、天才肌で変わり者とされる石原にしては極めて普通でてらいもない。おそらく印刷屋への持ち込みの清書原稿であろう。近年、石原莞爾の評価は高く、一方では、陸軍の下克上体質を作った人物であったが、もし東条英機ではなく石原莞爾がトップであったら、日本はどうなったかと思わせる、不思議な人物である。


4 件のコメント:

三上直樹 さんのコメント...

三上 直樹です。先日は私も初参加でしたが、あいさつしそびれて失礼しました。
石原完爾の直筆原稿、私も昨年拝見させていただきました。伊東六十次郎先生とのご縁の深さをうかがい知る貴重な資料だと思います。

広瀬寿秀 さんのコメント...

こうした資料はまだほとんど研究されていません。ひとつには日本の大学では、こうした資料の研究は御法度という傾向があるように思えます。ただ今後は、戦前の軍国主義はすべてダメという風潮から、もうひとつ客観的な立場からの評価がなされると思います。そうした時代になれば、石原莞爾の原稿ももっと評価されるべき資料になるでしょう。

匿名 さんのコメント...

戦前の軍国主義といいますか、その時代を全て否定することには私は賛同できないでいます。アジアが欧米諸国の植民地になっていくときに日本は軍備を増強し対抗していくことは生き残りをかける上で当然のことと思います。言い換えれば必死な時代だったと思います。不幸にも原爆を落とされたり、空襲を受けたり悲惨なことがあったために全て悪かったように言われますがもう少し世界の中での日本の立場を研究してみてはどうかと思います。松陰祭には一度参加してみたいと思います。

広瀬寿秀 さんのコメント...

戦後70年。これは日露戦争から70年前と言えば、天保年間、徳川家斉の時代になります。通常の歴史観からすれば、もはや同時代人がいない、文献学的な世界と言えます。それ故、戦後の史観を越えた新たな見地からの検討が必要でしょう。