2025年6月15日日曜日

歯科矯正診断の難しさ

 



全ての病気を治すためには、まず検査をして診断をすることが必要である。例えば膝が痛いと整形外科に行くと、まず症状を聞き、視診、触診、X線検査、超音波検査、さらにはMRIなどの検査をして、診断し、その診断に沿った治療を行う。

 

歯科矯正においても、まず患者さんが来ると、詳しい履歴を聞き、まず顔をよく見て、上下の顎のバランス、唇の突出感などを見てから、口に中を見ていく。実際に治療をするとなると、口腔内写真、顔面写真、模型、レントゲン写真、場合によっては顎の運動を測定する。とりわけ診断に大事なのは、模型とレントゲン写真である。レントゲン写真では、口全体をみるパントモ写真と、顔を横から撮った側方頭部X線規格写真、正面から撮った正貌X線規格写真、場合によっては顎関節写真などを追加する。そして頭部X線規格写真(セファロ)については角度や長さを測り(セフォロ分析)、顎や歯の問題などを診断していき、パントモ、模型診断などと合わせて治療計画を作る。

 

1.セファロ撮影装置がない

セファロ写真を撮るためには、一般歯科医院に通常あるパントモ撮影機にセファロを撮る設備を加える必要がある。これはかなり費用がかかるので、インビザラインをしている先生の中にはセファロなしで治療をする先生がいる。昔、兵庫県のクレーム担当理事が言っていたが、セファロ分析なしで矯正治療をして、クレームがくれば、ほぼ裁判で負けるので示談を勧めていた。インビザラインで多いクレームの一つに治療後、口元の突出感が改善していないというのがある。セファロ分析では上下の前歯の理想的な角度というものが決まっており、この数字よりかなり大きいと、非抜歯では治療できない。セファロ分析なし、非抜歯で治療をすれば、これは診断ミスで、裁判ではまず負ける。

2.セファロ分析できない

セファロは立体的な像を二次元で表し、その中の仮想点を見つける作業がある。これにはコンピュータ画面上で点を入力する方法と、一旦、プリントアウトして、その写真をトレースして分析する方法がある。最近では画面上で直接入力する人が多いが、専門医試験では全て手書きのトレースの提出を求められるので、あまりひどい先生はこの時点で、不合格となる。実際にセファロ写真をトレースできるようになるまで、新人が矯正科に入局して半年くらいはかかる。さらにこのトレースを用いて角度、線分析を行うが、これを正確に解釈するにはさらに二年くらいかかる。矯正治療の難しさは、このセファロのトレース、分析を学ぶのに二年くらいかかる点であろう。

3.診断できない

セファロ分析により正確に診断されたとしても、治療法が限定されると間違った治療になることがある。矯正歯科専門医でも外科的矯正をしない先生がいる。上下の顎のずれが大きい、明らかな骨格性不正咬合の場合は、最初から外科的矯正と診断され、大学病院などの紹介することができる。ただいわゆるボーダラインケースでは、どうしても外科的矯正をしない先生は歯だけで治療する。専門医試験でもこうした症例が提出されることがあり、先生に聞くと、多くは患者が手術を拒否したので、仕方なく歯だけで治療したと答える。これは嘘であり、経験上、手術の話はしていない場合が多い。近年、上下の顎のずれ、これは前後、正面とも、がある場合は、外科的矯正を選択することが多い。以前、30年前までは外科矯正と言えば、骨格性反対咬合に限局していたが、近年は、上顎前突、顔面非対称のケースも外科的矯正で治療されることが多くなった。実感としては2倍くらいになった。なぜなら外科的矯正の方が、患者の満足度が高い上に、理想的な咬合を達成できるからである。

 

矯正歯科専門医試験官として何百症例を評価した結論としては、診断はほぼ収束する、つまり同じような診断になる。卒業して大学や習ったテクニックは違うので、多少は考えが違うものの、診断、治療法が大幅に違うことことは少ない。ただこれは二十年以上矯正専門医でやってきた先生の場合であり、逆に一般歯科の先生では、まずセファロがない、あるいはトレース、分析ができないことから、まず正確な診断、治療法が立たないと思う。インビザラインの一番の問題点は、その治療法ではなく、診断法で、このスタートの段階でミスをすると、患者にも大きな迷惑をかける。インビザラインを受けたいと思う人は、まず歯科医院で検査をして説明を受けたら、先生にセカンドオピニオンを受けたいと言って資料を要求して欲しい。セカンドオピニオンはリスボン宣言で患者に認められた権利で、これを断ることができない。それをもって矯正専門医を訪ねてほしい。多分5千円、1万円くらいの費用がかかるが、必要なことと思う。私のところに相談に来てもらっても良い。ただ実際セファロも撮っていない歯科医院では、矯正歯科専門医に診てもらうというと拒否する可能性が高く、その場合はそこでの治療はやめた方が良い。失敗する可能性がかなり高いからである。


2025年6月9日月曜日

趣味の終活 絵の場合

 

20号くらいが家で飾る限界か


先日、青森県立美術館に「描く人 安彦良和」をみてきた。さすがに原画は水彩であるが、油彩画のようにみごとの色彩表現ができていて、タイトル通りの内容となっていた。一般開催では、青森市の画家、はりやまたず子展が開催されていた。青森のお祭りを扱った郷愁豊かな作品が多く並び、楽しい雰囲気の展覧会であった。ネットで検索すると洋画家の奈良岡正夫さんの弟子のようで、数多くの展覧会で賞をとっている。ただ基本的には絵を売って生活しているプロの画家ではなく、セミアマの画家と考えて良い。

 

先日まで家の引っ越しで大変で、ようやく落ち着いてきたが、一番苦労したのは、絵の処分であった。母親も張山さんと同じで、セミアマの画家で、銀座で何度の個展をしたが、あくまでも趣味として絵を描いていた。展覧会に出すためにはどうしても30号以上、50号、100号の作品となる。大きな美術館会場である程度の存在感を示すためにはこれくらの大きさでないとだめであるからだ。ただこうした大型の絵は普通の家には絶対にかけられない。よほど大きな家でも30号(910727cm)くらいが限界で、それも洋画となるとそれに見合った額に入れるために重量も重い。

 

もちろん、こうしたアマチュアの画家だと県立あるいは市立美術館に寄贈を申し出ても断られ、買取り専門業者は買い取らない。さらに個人にあげようと思ってもまずサイズ的には無理ということになり、勢い、仮に寄贈するとなっても公共施設、病院、銀行などかなり限られてくる。こうしたこともあり、母親も30号を超える作品は元気なうちに顔がきく、徳島県の美馬市脇町の図書館、市役所などに寄贈してきたが、少し小さなものは兄、姉の家が狭いのですべて私のところに送ってきた。これを今回、処分することにした。全部で50点以上ある。一番、簡単なのはごみとして捨てることだが、兄弟が反対するので、まず全作品を写真にとりカタログ化して親類、知人、親戚に送り、欲しい絵を教えてもらう。その後、包装、これも大変だし、費用もかかるが、送っていく。それでも大型の絵は残っていき、さらに範囲を広げて商売をしているところなどをあたり、最終的には無理やりもらってもらったケースもある。知人の母親も同じようにアマチュアの画家で、そのまま捨てるのは気がひけるために、遺作展を開催し、希望者には持ち帰ってもらうように企画したが、それでも半分、とくに大型の絵は捌けずに、最終的には遺棄したようだ。

 

今回の母親の絵の処分でよかったのは、母親の絵は日本画に属するもので、額を外すと、くるくると巻けて、円柱の箱にたくさん収納できる点であった。嵩むのは額の方で、本体はかなりコンパクトにできる。そして額は近所のカルチャーセンターに持って行ったら、生徒さんの作品展示に使われ、喜ばれた。ただ洋画の場合はキャンパスになっているために額を外しても小さくならない。今回の「はりやまたず子」展をみて、そんなことを考えた。入り口の花には青森みちのく銀行頭取の名もあったので、早めに100号の絵は関係者に寄贈した方がよかろう。家族に任せるには途方もなく大変で、場合によってはゴミとして処分される覚悟が必要であろう。

 

その点、掛け軸は巻物なので、小さく、処分はたやすい。ただこれも一部の有名画家以外は、美術館はもちろん、買取業者も引き取ってくれず、最終的にはゴミとして処分される可能性が高い。和室、床間があった時代はまだ掛け軸も売れたが、いまは掛け軸の人気はほとんどなく、日本中から多くの優れた掛け軸が処分されている。今回、私の明治、大正、昭和の掛け軸のコレクションのほとんどがアメリカのシンシナティー美術館に寄贈されたが、これは友人がここのキュレイターでいるという偶然によるもので、多分、古道具屋にきてもらい査定してもらうと30点で1万円くらいであろう。

 

趣味で絵を描くひとは多いが、できたら50号を超える絵は処分が大変なので、描かないあるいは自分で処分することを勧める。日本、海外の美術館で100号を超える大きな絵を、お金を出して買ってくれる作家は、奈良美智などほんのわずかな画家だけであり、寄贈して受け取ってもらえるだけでもすごいことである。もともとプロの作家でも大きな作品は展覧会用で、売る絵はもっと小さい作品である。とくにお金持ちの多い、東京など大都市ではマンションにすむ人が多く、さすがに日本のマンションで100号をリビングにかけるのは厳しく、売れない。


2025年6月5日木曜日

不動産Gメン滝島

 


最近は、YouTubeでよく「不動産Gメン滝島」というチャンネルをよく見ている。ワンルームマンションのリスクや、不動産売買のからくりなどがわかり勉強になる。テレビ、漫画で有名な「正直不動産」は、どちらかというと不動産屋の取引の闇を描いたものであるが、このチャンネルは不動産を売買するにあたり必要な基礎的な知識を知ることができる。

 

私たちの世代は、あの狂乱のバブルを体験したため、土地、不動産は財産、資産だという感覚が非常に強いが、このチャンネルの滝島さんは断定する。「一戸建て、マンションは買うな。なぜなら投資物件、資産にならないからで、できれば賃貸に住むのを勧める」と言っている。よく賃貸で毎月払う家賃を払うくらいなら、一戸建て、マンションを買った方が最終的には資産になるという。これは嘘だと滝島さんはいう。

 

一億円の一戸建ての住宅を買ったとしよう。まず東京のケースでは6000万円が土地代、4000万円が建築費となる。6000万円で30坪の土地だと、坪200万円、板橋、練馬区くらいとなる。そこに坪120万円の30坪の住宅を建てると、1億円くらいとなる。金利1.5%で35年の住宅ローンを組むと、月々31万円の返済となる。35年後、返済が終了して、売却を考えると、建物の価値はゼロ、土地代のみの評価となる。それまでの支払った金額は住宅ローンが1.3億円、固定資産、都市税などは変わってくるが、それでも初年度は年間140万円、35年では3000万円くらいはかかろう。さらに火災保険料も総額で500万円、また修繕費もかかるので、全部合わせると1.8億円くらいとなる。現在、坪200万円、30坪の土地、6000万円が、35年間で1.8億円になるかということである。30年前の東京都の土地公示価格は50万円/mm2、今は49万円/mm2とほとんど変化していない。ということは東京でさえ、35年後の地価が3倍になる可能性は少ないといえよう。もし地価が変わらない場合、一億円の一戸建て住宅を売った場合、1億2千万円のマイナスとなる。賃貸で29万円の物件を35年間住むのと同じとなる。板橋区で4LDK90m2のマンションが借りられる。将来起こり得る地震のことを考えると必ずしも賃貸も悪くない。

 

これは東京のケースで、地方ではさらに状況はひどい。坪10万円、100坪に40坪の住宅を4000万円、計5000万円で一戸建てを建てたとしよう。東京と同じように計算すると月の支払いは15.3万円、税金、火災保険、修繕費などを加えると35年間、総額で7000万円以上の支払いとなる。これを35年後に売ると、仮に土地価格が変わらないとすると1000万円、6000万円以上の損失となる。弘前の場合で言えば、新築のマンション、90m2の賃貸料が12万円くらいなので、こちらの方がはるかに安い。新築するより確実に賃貸の方が安くつく。

 

「不動産Gメン滝島」で強く強調しているのは、投資不動産はかなりリスクがあり、ワンルームマンション投資は100%失敗するし、その他のアパート投資もリスクが多いとしている。さらに東京はまだ投資した土地価格(キャピタルゲイン)が上昇する可能性があるが、地方では人口減少でそうした可能性は少なく、地方の不動産投資は必ず失敗すると指摘している。

 

バブルの頃、土地神話の感触がまだ残っている我々世代は、土地は資産という考えが染み付いているが、人口減少、東京への一極集中化という現実を考えると、住宅、マンション購入についてもよく検討すべきであろう。家賃を一生払い続けるなら、家を買った方が良いという考えはもはや過去のものであるようだ。また欧米のように中古住宅、マンションもこれから主流になる可能性もある。


2025年6月2日月曜日

歯科経営コンサルタント


ある歯科の経営コンサルタントのブログをみていると、昨今、歯科医院を開業するのは途方も無い費用がかかるようだ。一例として200坪の土地に60坪の歯科医院を弘前市に建てるとすると、土地に2500万円、建築費に7000万円、設備にユニット、CTCAD-CAMなどフル装備をすると4000万円を超える。運転資金などもろもろで15億円はかかるという。

 

一方、歯科医院の一日の平均患者数をみていると20人程度、50人を超える歯科医院は弘前市の場合、歯科医師会員の10%もいかない。若い先生がいきなり開業してこの10%に入る確率は低く、歯科患者の特異性、同じ歯科医院に行き、浮気をしない、という点では平均を下回る可能性だってある。上記1.5億円を全部借金として、20年で借りたとすれば月に100万円くらいを返却しなくてはいけない。一日の患者数が20人ではつぶれ、最低30人、できれば50名以上の患者数が必要となる。

 

さらに歯科医院は閉院する場合、建物、設備で売ることは難しく、基本的には建物は壊し、設備は廃棄して土地のみとする。つまり1.5億円かけても、引退する時に残るのは土地代だけとなる。弘前のような地方都市では、人口減少に伴い土地価格は安くなるので、200坪の土地代金2500万円から解体費用300万円、設備廃棄代100万円、土地売買手数料を引くと、残りは2000万円となる。開業する時点で、引退する時は建物、設備がすべて無駄となることを頭にいれておく。

 

リスクの点を考えると、むしろ予想来院患者数から考えた方がよい。一日の患者数を平均の25名、月の収入を300万円とし、借金の返済は月で30万円がいいところであろう。20年で返済するとすれば総額で5000万円くらいが限界だが、ここから土地、建物、設備を揃えるのはかなり難しい。閉院した歯科医院を安く買う、賃貸の安いテナントを借りる、中古機器でスタートする、歯科ユニットは2台、奥さんも働き、人件費はできるだけ節約する、できれば技工は自分でする、税務、労務は自分でする、日曜、休日も働く(平日1日を休診日)、すべての処置を一人でやる(形成、印象、石膏注ぎ、ワックスアップ?)。もちろん従業員を雇うなら働き方改革に沿って勤務時間となるが、院長および奥さんはとにかく働く。

 

昭和40年代、歯科は儲かる時代で、歯科医数名を雇う大型歯科医院もこのころにできた。たとえば埼玉の渋谷病院はカリスマ歯科医のもと全国から多くの歯科医が研修して、一大拠点となっていたが、今は昔の勢いはない。私が知る限り大阪、神戸、東京、仙台などの同じような大規模歯科医院はすべてつぶれてしまっている。歯科の経営セミナーの指導を受けるような若い先生は、たぶんこうした大規模歯科医院、かせげる歯科を目指していると思うが、他分野の商売においても最初は小さな経営規模からスタートするのが鉄則である。私の父親は歯科医だったが、住み込みの助手と母親で診療し、晩年はワンオペで診療していた。兄も歯科医で、テナント、父親のユニットをもらって開業し、パートの受付兼歯科助手1名で診療している。私も歯科衛生士1名と家内(午後のみパートの受付)でずっと診療してきた。一方、友人の歯科医院では、来院患者が1100名を超えるが、従業員が20名以上いて、月に1000万円の売り上げがあっても院長の収入は少ないという。

 

そもそも歯科医院の経営規模は、普通のところで歯科医、受付、衛生士の3あるいは4名、これは近所のパン屋、魚屋、惣菜屋の規模であり、この規模で経営コンサルタントを雇うところはない。少なくとも一般の商売で、経営コンサルタントを雇うのは10名以上、一億円以上の売り上げのところに限られる。歯科医はプライドの高い生き物であるが、零細企業は商業、サービス業で従業員が五人以下と定義されており、多くの歯科医院は零細企業と言える。さらにいうなら年中、定価の70%引きの店という素晴らしい特権がある。現在の健康保険制度では、患者の窓口負担は30%、さらに子供医療費は無料のところが多い。あるものを70%引きでお客に売って、残りの70%は国が払ってくれる、これほどおいしい商売は他にない。できるだけ節約して、普通にすれば何とかなる仕事である。


 

2025年6月1日日曜日

新築住宅より中古住宅、賃貸


老後のためにマンションに引っ越し、これまで住んでいた家を売りに出した。なんとか早く買い手が現れるのを待ちたい。

 

鹿児島から弘前に来る時、両親からいずれ弘前で開業するならまず地元に拠点を持つべきだというアドバイスから弘前大学附属中学の正門から10mのところに80坪くらいの土地を購入した。開業して5年、そろそろ家を建てようと思ったが、車に乗っていなかったので、ここから診療所まで歩くのはきついという理由と、できれば中心街に家を持ちたいと思い、診療所近くの土地を探していた。すると診療所から歩いて8分くらいのところにいい物件が見つかり、思い切ってここを購入し、輸入住宅を建てた。広々とした家で子供の教育にも良かったと思う。前の土地は1ヶ月くらいで売れた。

 

ただ子供二人とも東京と横浜に移ると、夫婦二人にはこの家は大きすぎる。また冬場の雪の処分もきついため、家内と相談して中古の小さなマンションに移ることにした。そこで、この輸入住宅を売ることになったが、不動産屋によれば、まず土地価格が25年前のほぼ半分、建物価格は25年経つので当初、ゼロと言われたが、コンデションがいいので建築費の20%ということになった。買った時の土地代、建築費、庭の費用を入れるとかなりの額であったが、売値はほぼ40%となった。

 

今回、他の絨毯、家具なども買取り業社に査定してもらったが、驚くほど安価の査定額であったが、同様に住宅の中古で売り出すとなるとかなり安くなってしまう。よく不動産会社は、持ち家はローンが終了すれば自分の財産になるというが、これは完全に間違っている。例を使って説明しよう。

 

弘前市内の最近の建売住宅で見ると、弘前郊外で50坪の土地、30坪くらいの家で、3000万円くらいが多い。土地が坪10万円、建物が坪80万円くらいで、注文住宅やハウスメーカの建物では坪100万円以上かかる。これを35年返済でローンを組むと月々の支払いは9.2万円(金利1.5%)となる。35歳で家を買い、返済が終了するのは70歳、それまで9万円の返済となる。その頃になると家も老朽化して修理費も出よう。さらに高齢になり、老人ホームに入るため、売ろうとしても住宅価値はゼロ、土地代も上昇しないとすると50坪で500万円なので、売却価格は500万円となるが、これに手数料や解体費が引かれる。解体費を坪4万円として120万円、その他、不動産手数料などで、350万円くらいしか残らない。3000万円の家を購入して、35年、9万円ずつ返して残ったのが350万円となる。もし3000万円を年利4.5%で回すと、35年間回すと14000万円となる。持ち家は投資という点では全く無意味なことがよくわかる。

 

一方、コンデションのいい中古住宅、土地50坪、築20年、30坪の中古物件は、土地代が坪10万円で500万円、住宅は20年前であれば、当時の建築費は坪50万円で1500万円、その20%が評価額として300万円、計800万円、これは安すぎるのでまあ1000万円くらいで売りに出るだろう。全てローンで返済すると35年で、月々の返済額は3万円となる。賃貸より安い。

 

つまり建築価格が高騰した現状では、新築一戸建を最終的に手放す場合、建物の減価償却率が高いので、かなり不経済となる。先ほどの例で言えば、同じ大きさの土地、家屋を新築と中古では毎月の負担は中古では3万円、新築では9万円だが、最終売却価格は同じとなる。東京のように一戸建て住宅住宅の価格で土地代の占める割合が多いと、土地代の上昇も含めて一戸建て住宅が財産となる。ただ地方で今流行りの小さな土地に小さな家を建ててしまうと、毎年、大変な思いをしてローンを払い続けても不動産屋のいうように財産にならない。

 

建築費が高くて、土地代がやすい、これは欧米の状況で、アメリカ、イギリス、フランスなどでは持ち家の80%以上は中古住宅購入である。新築を建てるよりはるかに節約できるからである。こうした状況は、少子化が急速に進む日本でも同じことで、昔は坪40万円でも家を建てられたが、今では坪100万円以上かかる一方、土地価格は上がっていない。どうしても一国一城の主になりたいという人以外は、中古住宅あるいは賃貸が賢い選択といえよう。新築住宅と中古住宅の返済額の差額、6万円を利回り3%で35年間間運用すれば4400万円くらいとなる。新築住宅を買う代わりに中古住宅、賃貸で暮らし、銀行の返済金の差額を運用すれば、老後の大きな資金ができる。方や、毎月9万円、35年間返済して350万円の財産、方や毎月3万円の返済、6万円の投資により4750万円(投資4400万円、中古住宅価格350万円)となる。


 

2025年5月25日日曜日

テアトル弘前シネマ

 


昨年、閉館した鍛冶町、ピンク映画館「テアトル弘前」で有志が定期的に映画を上映するという。昔からこの映画館はピンクに塗られた外観が気になった建物で、何度も写真を撮った場所である。ピンク映画自体は問題ないのだが、ここはゲイの方が友達を探すところという噂を聞いたので、躊躇されて行ったことはない。今は、昔の切符売り場が小さな喫茶店になり、その奥が50名くらい入るホール、プロジェクターで映画を上映する構成となっていた。7席8列くらいで50人くらいが収容される。

 

本日、早速行ってみた。館内に入ると、折りたたみ椅子が置かれ、小さなライブ会場のような雰囲気で、元映画館という痕跡はあまりない。上映映画は、あの懐かしの「青い山脈」、原節子版ではなく、吉永小百合版であった。観客は8名くらいで若い人が2名で、私と同じくらいの年配の方が6名くらいであった。昭和38年製作の古い作品で、若者には興味がないのか。原作者の石坂洋次郎は弘前市出身の作家で、本作の舞台も弘前市、あるいは秋田県横手市と言われるが、この映画のロケ地は彦根市で、彦根の人々は古い街並みが見られて嬉しい作品であろう。私にすれば、少し陳腐な作品で、石坂洋次郎のようにその当時の時世をよりリアルに描いた作家の作品は今、見るとかなり古臭さがより目立つ。いわゆるより最新になればなるほど、すぐに陳腐化してしまう。その点、小津安二郎も現代物を撮影しているが、今、彼の作品を見てもそれほど古臭さい感覚はない。監督の差というよりは原作の差のように思われる。ユーモア映画であるが、全く笑えない作品で、同時期のクレージーキャッツの無責任シリーズ、日本一シリーズの方がよほど笑える。青い山脈の原作は昭和22年、映画は昭和24年、昭和32年、昭和38年、昭和50年、昭和63年の5回撮影されているが、原作に一番近いのは昭和24年、原節子主演のもので、おそらく昭和38年版もすでに時代遅れの感があったろう。

 

こうした名作映画を上映するミニシアターは、個人的にはすごく好きである。中学高校生の頃は、神戸、三宮のビッグ映劇によく行った。大学生になると、仙台の一番町にあった「名画座」、ここは本当によく行った。高校生の家庭教師の教えに従って、年間100本を目標に休みの度にこの映画館に行った。結婚すると映画館に行くことはほとんどなくなったので、鹿児島、その後の弘前でもあまり映画館には行ってない。弘前では住んでいたところから100mくらいのところ、南横町に名画座があったが、入りにくいので行かないまま、閉館となった。

 

弘前市で住んでみて、いつも感心するのは、今回のように、新たな企てを試みようとする人が多いことだ。友人に弘前オリオン座の息子がいて、彼にまた映画館をやろうよというが、実際にやるとなるとかなり面倒なことである。浪岡映画祭の関係者が中三デパートでオタク映画を数年、上映していて、これはよく見に行った。中三デパートがなくなり、もうミニシアターで映画を見られないのかと思っていたところ、今回のような有志がこうした企画をしてくれた。嬉しいことである。他にはビッグジャズバンドをしている団体があったり、落語会を開いたり、古書店をしたり、中古家具屋をしたり、いろんなことにチャレンジする若者が多いところである。ただ発想は非常にいいのだが、いかんせん人口が少なくて、東京では流行ると思うことでもなかなか弘前では続けられないのが残念である。なんとか地方に住みながら、地元民だけでなく、東京あるいは世界とネットで繋がり、商売できるようなモデルケースがないだろうか。今後とも地方では人口、とりわけ若者人口は急激に減っていく。それでもここで住みたい、何かをしたいと思う若者は多い。ただそれが商売となり、生活するとなると厳しく、ネット販売、東京での販売など、販路を外に向けないと厳しい。YouTubeで「92歳バレリーナ 伝説の朝ごはん」を見ていると、毎朝、青研 葉とらずりんご100”を飲んでいるので、地元でお恥ずかしい限りだが、真似して購入して飲んでいる。経営状態は全く知らないが、この青研という会社は輸出も好調のようで、うまく行っているのだろう。青森、弘前市を一つの国と考え、他国(県外、東京、海外)に輸出を伸ばすような政策(県)が大事かもしれない。

若い人はチャレンジ精神でどんどん挑戦してほしい。


2025年5月17日土曜日

明治二年弘前絵図 複製あげます

 

75cm×79cmの複製印刷


200部

12年前に、「新編 明治二年弘前絵図」を発行した時に、付録としてそのコピーを巻末につけた。最初の「明治二年弘前絵図」は、絵図データーをCDに入れて付録にしたが、データーが読めないという苦情が数件あり、また年配の方はそもそもコンピューターがないこともあり、新編ではこのデータから75cm×79cmの小型複製を作り、それを付録にした。印刷費用は部数の多寡によりそれほど違わないので、製本用の1000部に加えて、個人的に誰かにあげようと全部で1500部の複製を作った。弘前コンベンション協会に寄贈したり、街歩きのツアーで利用したり、絵図の好きな人にあげたりしたが、まだ200部以上が残っている。今年いっぱいで当院も閉院するので、この200部の複製絵図もそのまま廃棄となる。もったいないので、弘前博物館、高岡の森 弘前藩歴史館に問い合わせたが、今のところ活用計画もないので、必要ないとのことであった。

 

もしこのブログをお読みの方で200部必要な方がおられれば、お譲りしようと思う。ただ以下の条件に該当しない場合はお断りすることもある。

1.基本的には無料配布(何かの活動費の資金にするはOK

2.発送費用は着払い

 

できれば教育目的(中学生、高校生、市民)のために活用してもらえばありがたい。郷土史や課外授業への活用も考えられる。弘前は江戸時代から街の大まかな形は変わっていないので、絵図を使って学校近くの場所を散策し、生徒に身近な歴史を感じてもらう。また観光客、宿泊客への無料配布(ホテル、旅館、レストラン)やカルチャーロードでの無料配布もいいだろう。たとえばホテルの宿泊客にギフトとしてあげれば喜ばれるかもしれない。また貸切観光タクシーのお客にあげるのもいいかも。商工会議所や青年会議所で会員に配布する。土手町のまちなか情報センターやヒロロ3階に置いてもらう。などなど

 

欲しい方は下記アドレスまで連絡してほしい。

         hiroseorth@yahoo.co.jp





2025年5月15日木曜日

ペンダントのあるダイニング



ペンダントとは上から吊るす照明全体を指す言葉だ。照明の分野では壁にかける照明をブラケット、机に乗せる照明をスタンド、さらにテーブルに置くテーブルスタンドと、地面に置くフロアスタンドに分かれる。天井照明は、ダウンライトとシーリングライトに分かれ、天井に埋め込んだ照明をダウンライト、外に出たものをシーリングライトと呼ばれる。

 

日本の照明は、長い間、シーリングライトが中心で、居間、和室に丸い蛍光灯が入った四角のシーリングライト、紐を引っ張って付けたり、消したりする照明が、蛍光灯として一般的であった。その前は、電球のソケットの横にスイッチがあり、それを回して消したり、付けたりした。私の尼崎の実家は天井に直接つけられたシーリングライトが基本であったが、その後、仙台、鹿児島のアパート、弘前の家内の実家、ずべてが紐で引っ張る式にシーリングライトであった。この時代は長く続いた。

 

欧米の住宅を見ると、部屋そのものを明るくする照明よりはスポットライトが基本であるが、明るい夜を何よりも求める日本人には長い間受け入れなかった。私の家でも、ダイニングのテーブルにはデンマーク製の2つのペンダントを吊るしているが、それまではそうしたことはしなかった。天井に照明があり、ダイニングの上にある食器や料理にスポットライトを当てるものではない。

 

今回、引越しのために早めにダイニングの2つのペンダントを片付けたが、これがなくなると途端に暗くなり、ダイニングにおけるペンダントの重要性を再認識した。もちろんペンダントがなくてもダイニングには天井のダウンライト、壁にはブラケットが4つあるが、それでもかなり暗く感じる。通常はブラケットをつけることはなく、ダウンライトとペンダント、場合によってはペンダントだけで十分に明るい。どうもペンダントがないと、食事が美味しくないのである。

 

食器、料理に直接光が当たることで、食器、料理の色がはえ、美味しく感じるし、テーブルで本を読んだり、書き物をしたり、あるいは家内はミシンで裁縫するのも明るくて便利である。一見、スポットライト照明は暗いイメージがあるが、むしろ部屋に陰影ができてくつろげるし、特にダイニングにおいて、ペンダントは料理を美味しくして、食事を楽しめる。ただダイニングにペンダントを入れるためには、電源コードをダイニングテーブルの上に置かなければいけないので、マンションや中古住宅、あるいは新築でも前もって電源の位置を決めなくてはいけない。インテリアの配置はけっこう悩む問題であり、ソファ、ダイニングテーブルをどこに置くか、また位置決めも数センチ単位で考える。基本的にはペンダントはダイニングテーブルの真ん中に置くため、テーブルの大きさも関係するし、ニ灯のペンダントを置く場合は電源は2つとなる。それゆえ、インテリアの位置が全て決まった時点で、電源の数、位置が決まり、ペンダントの取り付けとなる。おそらくこうした工事は電気屋の仕事になり、工事代などがかかるし、面倒である。何より安いダイニングテーブルやペンダントでは、こうした工事するほどの価値はないかもしれない。逆に言えば、美味しい料理を楽しむためには、ダイニングテーブル、ペンダント、チェアーはいいものを選びたい。家具というのは面白いもので、1000円のカラーボックスだって数十年は持つ。ダイニングテーブルやチェアーだってセカンドストリートなどの中古販売店にいけば、2万円くらいで全て揃えることができるし、おそらく一生持つだろう。

 

ただ逆に考えると、例えば、カールハンセン社のダイニングテーブルやチェアーで揃えると100万円くらいかかる。さすがにこれくらいになるとペンダントや取り付け工事代も気にならない。もちろんこうした家具はいい木材と技術を使っているので、百年はゆうに持つし、例えばY-チェアーなどは70年前のものでも未だに高額で取引されており、子供や友人にあげると喜ばれ、活用できる。これは考え方であるが、100万円のものでも数十年使うなら、毎年2万円くらいとなり、50年後も程度がよければ、そこそこの価格で売れる。

 

これから家を持つ人は、まずダイニングテーブルとペンダントのいいものを揃えたい。これだけで日々の食事が楽しく美味しくなるので効果は高い。椅子に関しては、ゆっくりと調達していけばいい。娘がマンションを購入した。昔は婚礼家具は親が準備したので、今回はダイニングのチェアーをプレゼントすることにした。カールハンセンのCH24(Yチェアー)のチーク材の椅子が二脚、ノルウエイのScandiaという美しいカーブを持つ二脚を用意した。テーブルとペンダントは自分で好きなものを買ったもらう。気に入ってもらえばよいが。


Scandia







 

2025年5月13日火曜日

折りたたみ自転車 BD-1C

 





リアキャリア ピアノ線で固定 怖い構造


このBD-125年ほど前、2000年頃に近所のサイクリストスペシャル タケウチで購入したものである。ドイツのダームスダット工科大学のマーカス・ライズとハイコ・ミューラーが開発した折りたたみ自転車で、現在でも人気がある。というのは折りたたみ車にしては前後のホイールベースが長く、ほぼ26インチの普通車並みに走れるからである。ただタイヤ径が18インチと小さいので直進性はやや劣るものの、車体の軽さと相まって、かなりスピードが出る。ブルータスか何かの雑誌で取り上げられて、かっこいいと思って購入した。出たばかりの頃だった。他にはイギリスのプロンプトンという折りたたみ車もかっこいいと思ったが、16インチは流石に小さすぎるとBD-1にした記憶があるが、今ではプロンプトンの方が街用の自転車としては人気がある。

 

私は持っているBD-1は、家内も乗るかと思い、ハンドルがやや内傾しているBD-1Cというタイプで、カラーはオリジナルのシルバーにした。オプションとしてはリアキャリアと輪行袋があり、これも一緒に購入した。リアキャリは今、販売しているものとは違い、ワイヤーで固定するもので、このキャリアの組み立てはネットで載っていないので、説明書を添付する。キャリアとしてはやや頼りないので、今のものは下からも支えるものになっている。これまで25年使って、タイヤは2回交換、ゴムのダンパーは一回交換した。使っていて一番怖かったのは、ハンドルとステムの継ぎ目が折れたことだった。走行中にこの部分が折れ、なんとかこけないですんだがこれは怖かった。自転車屋に持っていくと、これはやばいと言われ、そのままミズタニ自転車に送られ、現行のネジで止めるタイプになった。それまではろう着したもので、他にも同様な事故があったのだろう。

 

折りたたみ車というと、僕らの世代はブリヂストンのワンタッチピクニカが非常に売れたが、今のような折りたたみ自転車の火付け役は、このBD-1とプロンプトンであろう。今ではこのBD-1も一台、安いもので198000円、チタン製の限定モデルは60万円くらいするが、2000年頃は10万円くらいで、ほぼ2倍になっている。イギリスのプロンプトンに至っては今や30万円くらいになっており(2000年頃は確か12万円くらい)、もはや外に駐輪できない自転車になった。ロードレーサなど他の輸入自転車に比べても値上がり幅が大きい。これだったら、小型自転車で世界最速のアメリカのBIKE Fridayというメーカーの方が安いかもしれない。この自転車はオーダー車で、昔も高かったが、今は作っているのだろうか。また自転車のロールロイスと呼ばれるイギリスのアレックス・モールトンは100万円以上するモデルもあるが、これは美しい。ここまでくるととても乗れないし、近所の喫茶店に行っても、盗まれるかもしれないとコーヒーもゆっくり飲めない。

 

春になると自転車の乗る人も多くなった。中学生を見ていると、ここ数年、ママチャリからスポーツ車に変わってきており、ドロップハンドルで通学する生徒も多くなった。大歓迎であるが、いまだに自転車道の整備は不十分である。もっと自転車専用レーンを拡大することが大事である。廃止される大鰐線も全てアスファルト道路にして、バス専用レーンにするか、自転車専用レーンとして活用してほしい。










2025年5月9日金曜日

宮本輝著 「潮音」

 



宮本輝の新刊、「潮音」、全4巻読み終えた。今回は、3ヶ月くらいで一気に4巻発行のため、読むのが忙しかった。5月半ばに引っ越す予定なので、休診日の水曜、木曜、日曜とも荷造りばかりしていたので、本を読む時間が取れない。ただ流転の海の場合は、次の作品まで間が空いているので、前巻までの筋を忘れてしまうが、この「潮音」は間をおかずに発刊されたので、そういうことはない。

 

4巻読んだ感想としては、富山の薬売りという特殊な仕事なのか、幕末から明治の細かい出来事が、かなり詳しく語られる内容となった。明治については、司馬遼太郎の一つの解釈があり、そこには坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作、大村益次郎、河井継之助などのビッグネームが存在し、彼らを通じて日本の近代化が語られるが、「潮音」では、登場人物はほぼ架空の人物で、司馬遼太郎とは逆の立場からの見方となる。庶民の立場からの明治維新なのである。ただ富山の薬売りが、職業がら最新の情報を常に入手していたとはいえ、ここまで情報収集能力があったか不思議な感じがしたし、逆にいえば急激な社会変化が起こった幕末から明治初期の時代では、これくらいの能力がなければ生き残れなかったのかもしれない。過酷な時代だった。

 

江戸時代というのは、ある意味、既得権益の時代であった。武士は武士という階級の中での特権があるだけでなく、視覚障害者は座頭という仕組みがあり、あんま、はりだけでなく、金融業が認められていた。またエタ非人といった階層も、犯罪人の捜査、刑務所の看守、皮加工、など特殊な仕事を請け負い、他の人の介入はできなかった。基本的には江戸時代の職業は、士農工商という大きな枠組み以外にも、町仲間のように同じ職業のものが集まった団体があり、幕府の許可を得て独占的に営業する権利を持ち、新規のものの参入を防いだ。本書に登場する富山の薬売りもそうした枠組みを持つだけでなく、富山藩そのものが、耕作地が少なく、薬売りが藩そのものの産業で、多くの住民がそれに関連していたという特殊な事情もあった。

 

こうした江戸の制度が全てバッサリと崩壊したのが明治である。士農工商という身分制度がなくなったのは、全ての人にチャンスができたというばかりではなく、これまでの既存の仕組みが崩壊し、新たな仕組みを作らないといけないという厄介な問題が生じた。本書では、こうした時代の大きな変換に勇気を持って立ち向かった人々が描かれている。そしてこの努力は連綿と今日までも続いており、現在でも多くの製薬会社が富山県に集まっている。

 

歴史小説の難しいのは、状況の説明をどこまでするのか、読者の歴史認識をどこに置くのかであろう。私の今一番好きな高田郁の「あきない世傳 金と銀」のようなシリーズもの(ドラマが最高に面白い)では、江戸時代の呉服店の大まかな説明があれば、その後はストーリを淡々と進めていけるが、主題が江戸時代の枠組みの崩壊となれば、さらに大きな規模での説明が求められ、これだけの分量となったのだろう。それでも読者に飽きさせずに読み進められるのは筆者の力量であろう。

 

個人的には、主人公、弥一の部下、才児という人物が面白かった。子供の頃から変わった人物で、今で言うならサヴァン症候群と診断されるかもしれないが、そのやや自閉症的な行動を周りの人々が丁寧に修正していき、そして記憶力の良さなど長所を伸ばしていき、しまいには弥一の片腕となって活躍していく。清々しい。おそらく上海で中国語と英語をマスターし、ひとまわり大きな商人となって活躍していくのだろう。昔、母から聞いたが、徳島県の脇町という母の生まれ育ったところでは、ダウン症の子供がいると、みんなして簡単な仕事をさせて多少のお小遣いをあげていたという。ダウン症の子供は性格が優しく、きちんと仕事をするので、町の者は簡単な仕事を残しておいて、ダウン症の子供にさせるという風習があった。小さなコミュニティーでは、障害を持っていても皆で一緒に育てるというルールのようなものがあり、障害があるならあったでできることをさせたのであろう。

 

宮本輝さんも今年で78歳というが、この年齢でこれだけの分量の本を短期間で書くというのはたいしたものである。とりわけ初挑戦の時代物となると、多くの資料を集め、読みこなさなくてはいけないので、通常の小説の何倍も苦労したと思う。今回も広瀬屋という同姓の登場人物を出してもらいありがとうございます。


 


2025年5月5日月曜日

五百旗頭眞 先生

 



5/4NHKスペシャル「シリーズ未完のバトル 秩序なき世界 日本外交への遺言」は面白かった。昨年、亡くなった五百旗頭眞先生と歴代首相との関係、今後の日本の外交の指針を多くの画像と音声で丁寧に描いていた。番組自体は、六甲学院の同窓会フェイスブックで案内されていたが、NHKさすがという構成だった。

 

五百旗頭先生(いおきベと読む)は、六甲学院のかなりの先輩で、番組に登場していた息子さんの五百旗薫先生は確か後輩であったと思う。神戸大学教授から、小泉首相の要請で2006年から2012年まで防衛大学の学長をしていた。リベラルな学者がどうして防衛大学にいったか不思議であったが、歴代の学長を見ると旧軍時代の反省からかリベラルな学者が学長になるようだ。五百旗頭先生の次の学長はテレビにも出演していた國文良成慶應大学教授である。

 

五百旗頭先生はコンピューターがどうも苦手のようで、時の首相への提言は全て手書き文のファックス送信であった。つい最近の岸田首相の時もこうしたやり取りで、首相と連絡していたようで、同じような話は何度か聞いたことがある。安倍首相の補佐官といえば、菅官房長官であるが、実際の秘書の役割は北村滋国家安全保障局長で、この人は安倍首相の長期政権を陰から支えた。五百旗頭先生のファックスは、まずこの北村内閣情報官が見て、それを首相に持っていき、意見を交わすという段取りである。安倍首相によく手紙を出すという知人も同様な手続きで首相のもとに手紙が配達されるという。歴代の首相には、こうした最側近のブレーンがいた。ちなみに今の石破首相には北村内閣情報官のような優れたブレーンがいないのか、政策に一貫性がない。拓殖大学の佐藤慎一郎先生の逸話に中にも、こうした話がある。中国専門家の佐藤先生は、文化大革命中の現状を中国からの難民への直接の聞き取りから、新聞報道と違い、中国がひどいことになっていると警告した。月に一度、中国問題についてのレポートを首相官邸に持って行っていた。機密漏洩という点でも文書を直接持って行く方が安全だったのであろう。こうしたレポートは首相側近のブレーンがまず読み、それを首相に説明し、報告した。安岡正篤なども、面談と手紙で首相の政策決定に力を及ぼした。

 

日本は中国への侵略という負の面を常に反省するが、中国は日本の戦後の平和主義と、鄧小平の改革開放政策への日本の協力、WTO参加への協力、などを評価すべきで、こうした両国の関係の上に、日中戦略的互恵関係という提案は極めて現実的な選択肢である。日本では、大学の学者が実際の政治、あるいは政策に直接参加することは少ないが、欧米ではそうしたことが普通であり、ある時はハーバード大学の教授であったが、政権のブレーンに入り、政権が変わるとまた大学に戻るというのが普通にある。五百旗頭先生はこうした海外の政治学者とも交流が深く、政治への関与があったのだろう。

 

明治維新後の日本の外交は、欧米主義と大アジア主義に揺れた。世界の大国を目指した欧米主義が基本であり、弘前出身の外交官、珍田捨巳も国際協調、欧米中心主義を日本の外交骨格とし、昭和天皇と牧野伸顕とタッグを組んで、ロンドン海軍軍縮くらいまでは何とかその路線で進めていたが、次第に軍部の力が強くなり、日本を中心としてアジア諸国と力を合わせる大アジア主義が勝ってきた。牧野こそが昭和天皇の最側近で信頼がおけるブレーンで、彼が昭和10年内大臣を退官してからは、昭和天皇以外は、軍部が主導する大アジア主義、国粋主義となった。

 

五百旗頭先生の主張と珍田捨巳、牧野伸顕の主張は、日米安保を除いて、かなり近いもので、基軸を欧米に置きながらアジア、隣国との仲良くしていく。これで中国がベトナムに近い感じで民主化していけば理想的で、現実的には北朝鮮、中国という独裁社会主義国とは五百旗頭先生が唱える互恵関係で合わせていくのだろう。

 

五百旗頭先生は80歳でお亡くなりなったが、ロシアのウクライナ侵攻、トランプ大統領の二期目の政権、習近平の独裁中国など、多々の問題を日本は抱えており、歴代総理の中でも最低な石破首相をもう少し支えてほしかった。残念であるが、歴代首相の列席、天皇陛下からの祭祀料、儀仗隊の派遣があったのは故人にとって最高の名誉である。


2025年5月4日日曜日

行きたい国、日本

 


日本のサッパリ系のラーメンがアメリカの西海岸で人気のようである。ラーメンといえば海外ではとんこつというくらい、味のしっかりした、濃いスープのようなラーメンが人気があった。ところが、西海岸のロサンゼルスなどでは古くから日本式のラーメン店が多く、そうしたラーメンに飽きてきた客がサッパリ系のラーメンに向かったようだ。

 

私が2030歳のころでも、寿司は外国人に人気はなかった。アメリカ人の多くは生ものを食べた経験がなく、どうも寿司は生臭くて食べられない、吐き出すような食べ物であった。ところが時代が変わり、体のためにいい、カロリーが少ないと無理して寿司を食べていくうちに寿司のうまさに気付き、それまでは寿司屋に行ってもカリフォルニア巻きなどしか食べられなかったお客がマグロの握りがうまいと思うようになる。要するに欧米人にとって日本食は食べず嫌いであったが、少しずつ食べていくと病みつきになってきたというのが実際であろう。

 

うちでも15年ほど前に二人のアメリカからの留学生を3ヶ月ほど預かったことがある。二人とも初めての外国が弘前で、他の国に行ったことはない。一人はサウスダコダ出身で、周りに日本人どころかアジア人も見たことがないという。もちろん日本にくるまで日本食を食べたことはない。最初はご飯ですらあまり得意でなかったが、それは次第に食べられるようになったし、カレーライスは大好物となった。とんかつ、ハンバーグ、鳥の唐揚げなどの肉料理は好きだったが、刺身や寿司のような生魚は結局、最後まで無理だった。もう一人の留学生は、ボストン出身で、多くの日本料理店が近くにあり、ボストンにいた時によく日本料理を食べていた。そのため、こちらにきてもほとんどの食事は大丈夫であった。

 

今日、多くの外国人はインバウンドで訪日して、日本のいろんな料理を楽しんでいる。それだけ母国でも日本料理がポピュラーになってきて、刺身や寿司などの生魚も大丈夫になってきているのだろう。そうなれば、日本ほど食に恵まれた国は世界でも珍しく、例えば弘前のような地方都市でも、中国人がうまいと思う中華料理屋があり、イタリア人がうまいと思うイタリア料理屋があり、フランス人がうまいというフランス料理がある。さすがにチェネジア料理店は潰れたが、インドネパール料理店は粘っているし、アジア創作料理店ではベトナム料理やタイ料理も楽しめる。もちろんラーメン屋から天ぷら、寿司、とんかつ、カレーから本格的な日本料理までレパートリーが広い。昔、50年前にネパールに旅行に行った時、カレーばかりの食事に飽きて、どうしても日本料理が食いたくなった。首都のカトマンズでも1軒しか日本料理店?がなく、そこでウドンと親子丼を食べたがうまかった。

 

今日のようにグローバリゼーションが進み、世界の情報が同時に共用できるような社会では、好き嫌いという点でも共通化が進んでいるのかもしれない。日本で流行っても世界では通用しないものが多かったが、今は、一億人という日本の商圏で流行るものは世界でも流行るという考えになっている。You tubeを見ていると、ブラジルのある家庭では手巻き寿司が子供の頃からの母親、家族の食事になっていた。日系ブラジル人ではない。おそらく日本のカレールーなどは世界中で使われ、日本式カレーが家庭料理の定番になってくるかもしれない。

 

ここ最近の海外からのインバウンド客の急激な増加を見ていると、日本の生活、習慣に世界中が慣れてきた、近づいてきたことに尽きる。ヤマハが発明した電動アシスト自転車、トヨタが開発したハイブリット車、ニンテンドウ、ソニーのゲーム機、日本アニメは欧米では普通になっているし、玄関で靴を脱ぐ習慣も、まず北欧で一般化し、次第に南下し、フランスでも靴を脱ぐ家が多くなっているし、知人のアメリカ人に聞くとアメリカでは普通になってきているようだ。家の中が汚れないので、急速に広まっている。海苔がブラックペーパーと言われていたのは数十年前のことだし、盆栽、生花、お茶、俳句、金魚も人気が高い。逆に日本人だって、パン食を好む老人が増えているし、私など、もはや畳で寝るのは苦痛で、ベッドのない旅館には泊まらない。

 

外国の方でも、子供の頃からアニメに親しみ、“ドラえもん”、“キャプテン翼”、“となりのトトロ”などで日本人の生活を知っている人は驚くほど多く、彼らにとっては私らの世代が“ルーシショー”や“奥様は魔女”などで知ったアメリカの生活を夢見たと同じ気持ちで日本に行きたいのだろう。アジアだけで40億の人口がいて、彼らが今後、日本に来る人たちであり、インバウンドは一過性の流行ではなく、日本の大きな産業となろう。


2025年5月1日木曜日

Can I take a picture?

 


例年、弘前の桜祭りでは、外国人観光客を中心に「写真をと入りましょうか、Can I take a picture for you」と言って、写真を撮るようにしている。今回も二度ほど、弘前公園に言って5人ほどの声かけて、4人には感謝され、一人からは“NO!”と強く拒否された。あまり経験がなかったので、少しびっくりした。そういえば、先日、行った埼玉の鉄道博物館でも中国人観光客に声かけすると、「結構です、ありがとう」と丁寧に断られた。

 

 

ここ10年くらい、それこそいろんな観光地で100人以上の外国人観光客に声をかけて、写真を撮ってきたが、二人も断られたのは始めてである。家内と一緒によく旅行するが、二人で撮る場合、ほぼ自撮りなので、同じような構図となってしまう。きちんと二人で写したい時はよく他の人に頼む。そうしたことあり、アベックや家族で来ている観光客には積極的に声をかけて写真を撮るようにしているが、皆本当に喜んでくれる。ある時は、一人の中国人観光客の写真を撮ると、私も私もと5組ほど写真を撮ったこともある。

 

一方、自分が海外の観光地に行って、こちらから写真撮影を頼むのはいいとしても、向こうから写真を撮りましょうかと言われれば、かなり怪しむだろう。まずスマホを盗まれて逃げられることも多々あるだろう。海外ではこうしたリスクも十分に警戒しなくてはいかず、私が写真を撮りましょうかと言っても断るのは普通なのかもしれない。

 

このことをいつもの英会話教室で喋っていると、アメリカ人講師からすれば、なぜ人の写真を撮ってやらないといけないのか、向こうから頼まれればそうするかもしれないが、こちらからすることはないという。そして、こうした親切に外国人は経験が少ないので断ったのではという。確かに海外で道を聞いても、断れられたし、かなりいい加減な説明もあった。目的地まで案内してくれるということはまずありえない。私自身、道を聞かれて、自分の目的地からそれほど遠回りでなければよく一緒に案内することがある。先日も、外国からの観光客らしい中年の夫婦が雨に打たれて中央通りを歩いていた。道がわからないようなので声をかけると、石場旅館に行きたいという。帰り道だったので、案内することにした。イタリア、トリノからの観光客で、仙台、弘前、札幌と旅行するという。大変喜ばれた。また中年の女性が土手町で道がわからず、眼鏡屋に道を聞こうとしが、店主が英語がわからないと困っている、声をかけると、自分はイタリア、ミラノから来た観光客で日本の雑貨店を探しているという。英語の弘前マップに雑貨店に◯がついている。そこで代官町の2件の雑貨店に案内したが、休みで、最終的には私の家のすぐ近所の雑貨店まで案内したことがある。これも大変喜ばれた。

 

人に親切にすると、こちらもその日は楽しい気分になるし、おそらく相手もそう思うことが多いと思う。まして観光に来たのであれば、なおさらでいい思い出になるのではと思う。それゆえ、親切をむげに断るのも、どうかと思う。逆に私自身が旅行に行って、人から親切を受けたなら、そのまま素直に好意を受けて、感謝する。さすがに日本で、写真を撮りましょうかと言って、スマホを渡すと、そのまま奪って逃げるということはないし、そもそも身なりや会話、雰囲気から判断する。

 

Googleで調べると、写真を撮りましょうかと言われると、どう断るかという質問がたくさんあった。なかには“Back OFF”と断るといいですよと意見もある(“消え失せよ”)。他にも自分のスマホを他人に触らせたくない、必ずこちらも撮ってくれといわれ、撮るのが面倒、そもそもなぜ声かけされるかわからない、自分達の世界に入ってくるな、他人と少しでも関わりたくない、他人の汚い手で自分のスマホを触られるのがイヤ、などの意見もけっこう多い。スマホは現代人にとっては自分の分身で、それを他人に触られるのもイヤだと思う人や人に関わりたくない、おせっかいな人は大嫌いという人も多いようだ。親切とおせっかいは紙一重で、東京では親切<おせっかいと思う人は多いので他人には声をかけない一方、大阪では親切>おせっかいと思う人が多く、他人にもよく声をかける。

 

今の所、“写真を撮りましょうか”といえばほとんどが喜んでくれるので、もう少し続けたいが、1/3くらいに断られるようならやめにしよう。


2025年4月25日金曜日

断捨離

 

大宮の鉄道博物館 以前より人気は無くなった?開館15分前で一番入館でした




今、断捨離をしていて、これまで集めてきたものを整理している。もともと本に関してあまり執着はないので、読んだ本はすぐに売る。今回も500冊以上の本を処分したが、処分自体はそれほど気にならないが、それにしても買取り価格が安すぎて、これについては結構抵抗がある。たとえば、先月買ったヤマザキマリの「続テルマエロマエ」2冊と「坂道のアポロン」6冊で、いずれも帯付き、ほぼ新品、全部で350円。多分、坂道のアポロンが1冊20円、続テルマエロマエが230円くらいであろう。アポロンをセット売りで2000円くらい、儲けが1880円ということか。そんなこともあり、世界の傑作機シリーズ、90冊くらいを処分しようと思っていたが、一冊20-50円くらい、90冊でも3000円くらいなのでやめた。

 

前にも書いてが、大橋歩さんのイラスト原画、ピンクハウスの服紹介のイラストだが、これをネットの買取り業社に写真査定してもらった。査定額は掲載されている本と一緒で2000円ということだった。本はヤフオクで、2000円で買ったので、大橋歩さんのイラスト自体の評価は0円ということだ。さすがに失礼な評価である。同様に西宮のアートコアという絨毯専門店で買った20万円、100年前の絨毯とキリムを、これもおたからやなど写真査定してもらったところいずれも5000円だった。売れそうな古い絨毯の買取り価格が全て5000円なのだろう。たぶん1000万円以上する絨毯でも5000円なのだろう。そうして購入したものを専門家に査定してもらい、もし1000万円のものを5000円で購入できたら大儲けという仕組みである。

 

さらに掛け軸など、それでなくても今の住宅から床の間がなくなっており、需要は少ない。私の持っている掛け軸の買取り価格は500-1000円程度であろう。そんなこともあり、日本の美術館への寄贈も考えたが、有名作家ならいざ知らず、土屋嶺雪、香川芳園、田中蘭谷、山元春汀など明治から昭和の中堅画家の作品など見向きもされない。知人の美術館長に聞いても、まず美術館では引き取ってくれないという。そうしたこともあり、友人がキュレーターで働いているアメリカ、オハイオ州、シンシナティー美術館に連絡すると、喜んで引き取るということで、こちらも自分のコレクションの安住の地が見つかって嬉しい。ここには以前に3本ほど掛け軸を寄贈したことがあり、その時は自分で包装をして近所の郵便局から国際便で送ったが、今度は数も多いので、正式な手続きをして美術品専用輸送業者に依頼することになった。送料は博物館持ちなので、友人が館長を説得し、理事会の承諾を得た。先日、ヤマト運輸の美術品専門のチームが3人来て、2時間ほどかけて梱包した。驚くほど丁寧な梱包で、何千万円の絵であれば、そうだろうとは思うが、安い私のコレクションにはもったいない。さらに100年以上前の作品については重要文化財に該当しないか文化庁の許可を得なくてはいけないので、それに1ヶ月ほどかかり、許可が得られればシンシナティーに運ばれる。向こうで展覧会をしてくれるという。ありがたいことだ。

 

本当に一部の商品、ロレッククスの腕時計や金製品を除くと、古いものの買取り値段は驚くほど安い。娘に言わせればメルカリなどで売ればというが、面倒でやろうとは思わない。だいたい購入価格の1/10から1/100くらいが買取り価格で、もし売れれば儲けは莫大である。たとえば新刊本の場合は価格の20%800円の漫画本であれば、本屋の儲けは160円であるが、その本を古書店が100円で買取り、500円で売れば400円の儲けとなり、新刊本2冊以上の儲けとなる。これが古着や家具、さらに絵となると、売れればもっと儲けは多い。

 

最近、おたからやなど買取り店が多くできているのは、もちろん金製品、ブランド製品の買取りがメインであるが、それ以外のものでも、もし売れれば利益も大きいため、全国的に店が拡大している。よく知らないが、買い取ったものはヤフオクやメルカリ、あるいは東南アジア、タイなどでうまく売り捌けば大きな利益となる。一方、ニトリやイケヤの家具は、おたからや、やセカンドストリートでは買い取ってくれないこともある。特に昔はやった結婚家具5点セットなどの洋ダンスなどは買取してくれないどころか、撤去費がかかる。こうした中古品を査定して買い取る店が非常に多くなったは、お客さんが持ち込んだ商品の写真を撮り、その場で、インターネットで会社の査定担当者に見せて買取価格を決めるからだ。ただこの査定担当者も絵や絨毯については全く素人なのでわからないし、安く買い取っても、それほど高く売っていない場合もあり、探せば中古店にもお宝は眠っているかもしれない。

 

“物の値段とは何だろう”というのが実感で、結局欲しい人が多いと値段が高いというのに尽きる。ただこの欲しいというのも時代や国によって変わっていく。断捨離は物欲を捨てる行為に他ならないが、逆に物欲は老化を防ぐスパイスのようなものかもしれない。

2025年4月20日日曜日

昭和天皇物語

 




この漫画については以前から知っていたが、昭和天皇については、いろんな書物である程度知っているので、これ以上のことは書かれていないと思っていた。ただ弘前出身の外交官、珍田捨巳のことがどう書かれているか知りたかったので、購入して読んでみた。

 

まず最初の感想は、かなり細かい点までよく調べていて、ほぼ史実に忠実な内容になっており、下手な昭和天皇の評伝を読むよりはよほど面白かった。政治家や人物についてうまく描かれている。第4巻は、皇太子時代に欧州訪問のことが書かれているが、ここで供奉長として珍田は頻繁に登場する。少しやかまししいくらに昭和天皇の行動を監視する。この供奉長というはよほど大変な役目で、万が一、皇太子に何かあれば、切腹するくらいでは済まない重責であった。牧野伸顕によれば人選はそれほど揉めることなく、欧米生活が長く、語学に堪能な珍田に決まった。

 

この半年に及ぶ旅行中、珍田と皇太子は常に行動を共にし、通訳としての役目も兼任したようだ。たとえば、ロンドンに到着し、バッキンガム宮殿に入るが馬車には英国王、ジョージ5世と珍田と皇太子が乗り(あと一人はエドワード皇太子?)、皇太子はフランス語は少しできたが、英語は全て珍田がおそばにいて通訳していたと思う。当時の映画が残っているが、ヨーロッパ訪問中、珍田は常に皇太子のすぐ横にいる。そうしたことを考えると、あの有名は場面、バッキンガム宮殿に滞在中にジョージ国王自らがお忍びで皇太子の部屋に来て、国王の勤めについて話した場面、漫画では通訳は吉田茂となっている。当時、駐英大使館の一等書記官であった吉田茂が、バッキンガム宮殿に宿泊していたか。もちろん皇太子、閉院宮載仁親王、珍田捨巳ら随員の何人かは宮殿に宿泊したと思われるが、吉田は特に宮殿に泊まる必要はなく、この場面で吉田が通訳するのは不自然である。さらに吉田の経歴を見ても、わざわざ大使館から通訳としてバッキンガム宮殿に呼び出されるほど英語力はなく、イギリス国王との接点もない。多少は英語ができたもののわざわざ皇太子の通訳をするほどのものではない。

 

この場面、皇太子とジョージ5世の通訳をしたのは、この欧州訪問の通訳をしていた珍田の可能性が高い。珍田は、明治10年からアメリカのデポー大学に留学、卒業しており、大学では弁論部に入って優勝するほど流暢な英語を話す。さらにイギリスでは書記官、アメリカでは在サンフランシスコ日本領事、さらに日露戦争中は外務次官として活躍した。主として欧米外交のプロであり、皇太子の欧州訪問前にはパリ講和会議には駐英大使として全権委員の一員であった。ジョージ5世とも面識はあったはずである。

 

こうした理由から、ジョージ5世がお忍びで訪問する際には、まず供奉長の珍田に声をかけ、珍田と一緒に皇太子の部屋に行ったと推測した方が、吉田茂よりは自然である。珍田は皇太子の帰国後、そのまま宮中に入り、東宮大夫、さらに天皇即位後は侍従長となった。よほど昭和天皇は珍田の人柄に惚れたのであろう。珍田は天皇の即位の大礼を無事に務めた後、脳出血で亡くなった。

 

戦前の昭和天皇と弘前の関係は、この珍田だけではなく、終戦時の侍従長の藤田尚徳の両親は、いずれも弘前出身で、父、潜は弘前藩士で、珍田とも藩校、稽古館で英語を学んだ同級生で、のちに東京、攻玉社の校長となった。珍田の次の侍従長の鈴木貫太郎、百武三郎はともに攻玉社で藤田潜の教えを受けたに違いない。また最後の津軽藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野伸顕の推薦で、皇太子時代の昭和天皇の女官となり、理喜子の妹、寛子は徳川義恕の長男、義寛は戦後、侍従長となった。また姪の津軽華子さんは常陸宮殿下の妃となった。ついこの前まで宮内庁の女官の推薦枠が弘前の高校にあり、性格の良い子供が宮内庁に入ったのはこうした関係もある。






2025年4月16日水曜日

田中蘭谷

 





先日、大阪に行った折、以前から来たかった小磯良平記念美術館を訪れた。アクセスが悪いわけではないが、どうも阪神魚崎駅で降りて六甲ライナーで行くというのは抵抗があり、なかなかいけなかった。

 

小磯良平は、神戸の人に最も愛された画家で、多くの作品はこの小磯良平記念美術館と兵庫県立美術館に所蔵されている。この美術館の目玉は「着物の女」で、近くで見るとそれほど細かい描写ではないが、着物、とりわけ女の人の腰回りのラインが色っぽい。柔らかである。また兵庫県立美術館にある西洋白人を描いた「肖像」の白いシルクのドレスの表現が凄まじく、質感まで表現されている。いずれも戦前の作品で、優れたデッサンを元に生き生きとした女性を描いている。この2点が小磯の作品では一番好きである。

 

以前、東京、世田谷美術館に大規模な小磯良平展を見に行ったことがある。初期から晩期までの代表的な作品を紹介し、小磯の生涯を俯瞰する展覧会であった。その時に一番感じたのは、なぜ、若い時の路線をずっとしなかったか。戦後、とりわけ昭和30年代は、その頃の美術界の主流の抽象絵画の影響を受けて、そうした作品ばかり描いていた。作品としてはあまりよろしくなく、また多くのファンも眉を潜めたと思う。その後、昭和45年頃からようやく元の具象作品に戻る。亡くなったのが昭和63年なので、昭和30年代からの15年間の抽象絵画の時代が惜しい。ピカソは生涯に何度も画風を変え、いずれも優れた評価を受けているが、これは彼だけできることであり、多くの画家は一つの画風を深化させていく。

 

私が最近、気に入っているのは、千葉県生まれの田中蘭谷である。ほとんど無名の画家で、作品もそれほど個性的なものではない。明治17年に千葉県夷隅郡上瀑村に生まれた。高等小学校卒業後に、絵が好きで苦学しながら美術関係の学校を卒業し、その後、着物生地の下絵を描く仕事をしていた。妻が産婆をしていたことから、生活は妻の収入で賄え、本格的な絵の修行をしだしたのは40歳になってからで、日本画家、小室翠雲の門下となった。その後、日本南画院展覧会、日本帝国美術展覧会で入選したのが46歳、昭和5年であるが、昭和16年、太平洋戦争勃発後は絵を描くのが厳しい時代となった。戦後は注文も多くなったが、昭和31年に脳溢血となり、34年に亡くなった。実質的に画家として本格的に絵を描いていたのは、昭和5年から昭和16年、昭和21年から昭和31年の20年間くらいで、画家としての活動時期は決して長くないし、かなり高齢になってからである。年齢でいうと46歳ころに画家としてデビューし、途中、戦争で中断があり、70歳くらいまで活躍したといえよう。

 

私は、田中蘭谷の絵を4枚持っている。どれも細部にまできちんと描かれており、手抜きはない。同時代に活躍していた橋本関雪は、展覧会に出すような大型の作品はかなり細部まで描き、時間もかけたが、これは例外であり、収入の多くは通常の掛け軸サイズの絵を売った。橋本関雪は絵も上手いが、速描きで、通常の絵であれば、1、2時間で簡単に描けたと思われる。ある程度、構図や題材が決まれば一気に描けた。そのため、橋本関雪の絵は贋作も含めて大量にある。同様に弘前の有名な日本画家、野沢如洋は1日に1000枚描くという千画会を開いたりした。田中蘭谷の作品を見ると、一枚の絵を完成させるためにかなり時間がかかっているように思われる。下図を作り、構図を考え、そして丁寧に描いていく、そのため、作品であまり不出来がない。

 

枝にとまる一羽の小鳥を描いた作品には、「壬申秋」の記載があり、昭和7年(1932)、48歳の時の作品であるが、薄墨で描かれた細い枝の表現などは独特であり、動物の表現も見事である。この絵を基準に考えると、鶏の絵は、他の絵に比べて色の表現が鮮やかで、またたらし込みの技法などが使われ、昭和7年より前の作品、逆に「ブドウと小鳥」や「不要美人」はそれより後の作品のように思える。田中蘭谷の作品は、ネット上では山梨県立美術館に2つ、都留市博物館での「田中蘭谷展覧会」が載っているが、作品数はそれほど多くないようだ。こうした中堅画家の作品に中には優れたものがあるが、動物画家、特に小鳥の表現にこの作家は巧みであり、以前、落札しできなかった「梅唐美人図」を見ても美人画についてもいい作品がありそうで、今後もヤフオクからは目が離せない。今回、落札した「不要美人図」もいい作品で、お気に入りになりそうである。