2013年6月23日日曜日

三沢航空科学館



 本日、三沢の航空科学館に行って来た。前日、東北大学13期の同窓会が三沢の青森屋であり、招かれ、「明治二年弘前絵図を読む」と題して、講演をした。お粗末な内容で、遠方から来られた先生方にはつまらなかったかもしれないが、弘前、青森の歴史を少しでも知っていただければ幸いである。

 以前から三沢の航空科学館には是非行ってみたいと思っていたが、今日は特に用事もなく、ホテルからタクシーで行ってみた。結構遠く、往復でタクシー代だけで5000円くらいかかったが、飛行機ファンの私にとっては充実した日であった。

 今回の目玉は、十和田湖底から引き上げられた一式双発高練で、最近、組み立てられ、展示されていることを新聞で知っていた。自称、飛行機ファンである私もこの機体については知らなかった。戦闘機、爆撃機などの知識はあるが、練習機については赤トンボ、九十三式中練などは知っているが、一式双発高練はよほどの飛行機マニアでないと知らないであろう。

 秋本実著「日本軍用機航空戦全史 第三巻 紫電改帰投せず 大空の攻防」から引用する。

 昭和十年に採用された陸軍の九十五式二型練習機はフォッカー・スーパーユニバーサル旅客機を改造したもので、エンジンを機首につけた単発のもので、爆撃機の近代化に伴い練習機も双発のものを開発することになった。試作は立川に依頼され、品川信次郎技師を主務者として、昭和16年に正式採用となった。エンジンは信頼性の高い九十八式450馬力発動機(離昇出力510HP)、低翼単葉引込脚式の近代的な練習機に仕上がった。最大速度は367キロ、巡航速度は240キロ、航続距離は960キロとなっている。

 用途により操縦と航法の練習用の甲型と、旋回銃の射撃、通信、爆撃用の乙型、輸送機型の丙型、次期探知機を搭載した対戦哨戒機型の丁型に分かれる。今回展示されているのはこのうちの甲型である。

 80年の湖底に沈んでいたのに色鮮やかで驚かされた。実際に現物をみて初めて陸軍の明灰色のイメージがつかめた。第二次大戦中の飛行機の塗装は非常に難しく、ことに明灰色の解釈は色々あった。以前はもう少し緑に入った色とされていたが、艶こそなくなくなっているが、陸軍のほぼ明灰色の色は確定できたのではなかろうか。主翼前縁、尾翼黄の黄色はほぼイメージ通りのオレンジかかった黄色がきれいに残っている。機体は金属製セミモノコック構造であったが、全端部のみ木製であったので、展示している機体もその部分は欠落している。同様に胴体上部の天測用の半球型の小型ドームもなくなっている。

 こういった戦後に発見された機体は、リストアされ、きれいな状態にするのが、アメリカでは一般的であり、原型がほとんど残っていなくても、部品ひとつずつ完全復元してきれいな状態にもっていく。これはひとつの方法であろうが、ほとんど復元せずに機体の構成をある程度わかるようにした航空科学館の展示法はすばらしい。

 他にもPCオライオンやF104などの機体など、見学するだけでなく、コクピットに入ることもできるのが、この科学館の魅力で、ヘリコプターから戦闘機、レシプロ練習機の操縦席に座れてうれしかった。T-3初等練習機に座ると私の座高が高く、これではキャノピーが閉められないのはトホホである。できれば、復元された零戦のコクピットにも座れ、コンピューターで空戦のシュミレーションができれば、これはたまらない。



2013年6月18日火曜日

デーモンクリア


 デーモンブラケットはアメリカのOrmco社の製品で、結紮が必要ないセルフライゲーションブラケットとしては、むしろ後発の製品である。鹿児島大学にいた時だから、30年前にもOrmco社からエッジロックというブラケットが発売され、鹿児島大学矯正科では当時、すべての症例で、このセルフライゲーションブラケットを使っていた。このブラケットは円形の形をしており、専用の工具で真ん中の刻みをねじるようにして開放する構造となっている。おそらく全国的にも全症例で使用していたのは鹿児島大学だけであったろう。

 10年ほどするとさすがに使うところも限られてきたせいか、教授が発明した新しいブラケットに切り替わったが、私が通常のタイプのブラケットを使ったのは、開業してからだ。

 デーモンブラケットは10年ほど前から市販されるようになったが、当初はこのエッジロックのニューバージョンとして紹介された。形が結紮もできるように四角になり、ウィングもついているが、基本的な構造はエッジロックと同じ構造であった。結紮がいらないことは、ワイヤーとの滑りがよく、治療期間の短縮に繋がるし、ブラケット廻りも清潔に保たれ、何よりもチェアータイムが短縮される。一方、大きな欠点は、材質的にはメタルしか使えなかったので、審美性に欠ける。これは出来るだけ目立たない装置を求める日本では、大きな問題となった。ドクター側からはメリットがたくさんあっても、患者にすれば、どうしてメタルにしなくてはいけないか、わからないからだ。

 ここでOrmco社は大きな失敗をしたように思える。つまりデーモンブラケットで治療すれば、治療期間をかなり短縮できると唱ったのである。こうでもしなければ、ことに成人患者でメタルブラケットを選択する人はいない。今でも一部の矯正歯科医、一般歯科医は、こういった特徴を全面的に出して、宣伝しているが、その後、学術誌での研究結果では、数ヶ月の治療期間の短縮ができる程度であることがわかってきた。鹿児島大学で10年近く、エッジロクを使った私の経験からしても、通常のブラケットより少しは早くなる程度であり、治療期間はどこまで治療するかという術者の意識によるところが多い。そういったことを証明する研究もある。

 Ormco社もそういった批判に沿うような形で、次々と改良を加え、製品はさらに進化し、一方、以前ほど治療期間の短縮を言わないようになってきた。ところが一度、広まった噂が消えないように、未だにデーモンブラケット信者が多い。電話の問い合わせでも、何人もの患者さんから「おたくはデーモンブラケットを使っていますか」と言われた。心の中では「デーモンブラケットがどうした」と思っていたが、「私のところは使っていません」と答えていた。こんなこともあって、すっかりデーモン嫌いになり、他社の半分白く、半分金属のセルフライゲーションブラケット(クリッピーC)を使ったりしたが、患者さんの評判は芳しくなく、結局は通常のタイプの審美性ブラケットを使っている。

 そしてようやくすべてセラミックででき、審美性に優れたデーモンクリアが登場した。これでようやく従来の審美性ブラケットと対等に立場となり、患者さんにも勧められるようになった。まだ耐久性など不明な点もあるが、あきらめずに開発したOrmco社の努力には敬服する。これで30年前に開発されたエッジロックあるいはカナダで開発されたスピードブラケットを越えた。ただスロットサイズが022のみなので、018しか使わない私のような矯正医にとっては、ワイヤーやチューブなどシステム自体も変えなくてはいけないので躊躇していたが、少しずつ使ってみようかと思っている。

2013年6月16日日曜日

近代日本の官僚


 「近代日本の官僚 維新官僚から学歴エリートへ」(清水唯一朗著、 中公新書)は、サブタイトルの通り、明治政府が産声をあげた誕生期から近代官僚制度の確立した明治末期までを中心にその変遷を詳細に検討した好著である。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府ができたものの、人材は全くいない。特に近代国家を目指した明治政府は、優秀な西洋の思想、科学に通じた人材の確保に血眼になった。法律、通商、税制度、建築、医学、理学、軍事すべて同時期に近代化を始め、それも一刻も早く西洋諸国に追いつく必要があった。とてもではないが、薩長の革命当事者だけの人材では、藩程度の領域はカバーできたものの、日本一国となると、それぞれの専門を揃えることはできない。

 そのため、最初に行ったのが、前回のブログで述べた貢進生制度で全国からの優秀な人材を多く集め、この中から政府の人材を求めた。当初は、お雇い外国人を高給で雇い、教えを受けていたが、何しろ西洋のあらゆるもの、法律、学校制度、軍事、医学、科学を早急に吸収せざるを得ないため、貢進生の中から優秀な人物は海外留学させたし、海外留学経験者を重用した。

 弘前からも東奥義塾を中心に多くの若者は、主としてアメリカに留学していた。珍田捨巳がその代表的な存在であるが、帰国後は東奥義塾の先生をしていたが、その語学の才能を見込まれ、外務省に入局した。こういった、まるで一本釣りのような形で、語学のできた優秀な若者は積極的に登用していった。アメリカの同世代の学生と一緒の大学生活を送り、卒業後に法学大学院に進み、法学士などをとった。

 その後、明治政府は、官僚登用の方法に試験制度をとるようになった。試験を行い、その成績で官僚を登用するのだが、実は今の東京大学の卒業生はこの試験は免除され、面接のみで登用された。明治法律学校(明治大学)など私立学校からの受験も認められたが、なかなか合格は難しかった。ここの官僚へのコースとして帝国大学の入学が重要となり、全国の若者が血眼になって帝国大学を目指す、今の受験戦争に端緒となった。その後、高等文官試験となり、帝国大学の卒業生の試験免除は廃止されたが、それでも学士官僚と呼ばれる、帝国大学を出て、高等文官試験を通り、官僚となるコースが一般化していった。現在の官僚制度である。同じく、軍隊でも幼年学校、士官学校の軍官僚コースができた。

 弘前では、東奥義塾に行き、そこから外国の大学に行き、出世するというコースは閉ざされ、同時に官立の青森中学校、弘前中学校ができ、そこから一高、東大、官僚というコースが正規なものとなった。当然、青森県の優秀な若者は、義塾に進まなくなり、衰退していき、明治後半から弘前からの偉人は急速に減少した。

 試験のみに優秀な人材が高位になるといった制度が、太平洋戦争における敗北に繋がっていき、旧軍の崩壊とともに軍官僚のシステムもなくなっていったが、文官官僚の制度はそのまま残り、今の状況に引き継がれている。確かに人物を評価する一番公平な方法は試験であろうが、そろそろ限界がきているようである。ことに外務省のようなところは、海外の4年生大学、大学院大学を卒業した人材や、現にNPOなどで国際的な活躍をしている人物を積極的に用いるべきで、官僚になってから短期の留学をさせるのではなく、民間企業のような面接を主体とした人材登用方法が活用されてもよかろう。明治初期の登用制に一部は戻すべきであり、民間企業で試験のみで採用を決定しないのは、こういった試験のみに優秀な人物が実社会では役に立たないことがはっきりしているからであろう。ただし人物を観る試験官がいるかという問題が残るが。

2013年6月13日木曜日

大学南校への弘前藩からの貢進生

 江戸幕府が崩壊し、明治新政府が出来たが、当初は政府の人材がほとんどおらず、混乱した。薩長を中心とした2藩の人材だけでは、司法、外交、通商、軍事などあらゆる国務に対応することができず、明治3年7月に全国の有為の人材を集め、教育するために、各藩に石高に応じて1から3名の人材を大学南校に貢進することが命じられた。年間170両に及ぶ費用は各藩が持ちというから、政府にとっては虫がよい話である。それでも、将来は政府の中心となる官僚候補となる制度のため、各藩は選りすぐりの優秀な若者を送り出した。年齢制限があり、16歳から20歳とされ、全国から318名の若者が集まった。教育は主として洋学を中心としたもので、授業はすべて外国語で行われた。藩によっては旧来の儒教を中心にした教育しか受けてない若者も多くいたため、語学力の程度により最上級の1級から最下級の15級まで分かれ、後に外交官として活躍する小村寿太郎は1級、鳩山(三浦)和夫は美作真島藩一万石から派遣され、洋学の教育を一切受けていないので、15級からのスタートだった。鳩山は抜群の記憶力と努力で卒業時には最優秀となり、イエール大学ロースクールに留学し、日本人初の法学博士号を取得して、帝国大学法科大学教授、外交官、衆議院議長となる。後に首相となる鳩山由紀夫に連なる。

 この大学南校に学んだ貢進生からは、杉浦重剛はじめ蒼々たる人物を輩出しているが、弘前藩からは誰が出向したかはインターネット上ではいくら調べてもわからない。たまたま手帳になぐり書きした資料によれば、弘前藩からは大学南校に行ったのは川村善八、出町大助、佐々木友着?、青山伴蔵、三浦良太郎、大学東校(医学部)に行ったのは、桜田道済、伊崎文徴、佐藤玄清、湯浅正景となっている。

 このうち出町(いづるまち)大助は若党町出身で、明治2年12月に慶応義塾に入塾している記録があるので、ここから貢進生として南校に進んだようだ。その後は自由民権運動に関わる。また青森県初の東大医学部卒業の佐々木文蔚は明治3年9月に大学東校入学となっているので、名が抜けている。伊崎文徴は藩医伊崎家八代目の伊崎英則のことか。佐藤玄清の名は松木明知著「津軽の文化誌V」に見られ、また湯浅正景の名はないが、藩医として湯浅養俊の名があり、大学東校に進んだ若者は、いずれも弘前藩医の子弟であろう。他には青森県人名事典には川村善之進(1826-1868)という名があり、幕末藩校稽古館の儒学の先生をしていたが、これが川村善八と思われる。上京したのが42歳であるから、若者ではない。

 藩日記の明治二年919日の記に「青森表罷在候御預人塾内英学生工藤勇作、青山伴蔵、三浦良太郎罷越英学稽古之儀之事」とあり、函館戦争で捕虜となった幕臣林桃太郎から英語を学んだとしている。大学南校に進んだ青山伴蔵、三浦良太郎の名が見える。他にも佐々木元俊の養子、佐々木金太郎(文美)も英語を学んだようで、佐々木友着?はこの金太郎のことかもしれない。林桃太郎は捕虜として弘前にいたのが20歳くらいであったが、英国に留学し、抜群に英語ができたという。経歴から明治の外交官、政治家の林薫(はやし ただす、薫三郎、東三郎)のことであろう。16歳から2年間、英国に留学し、1869年5月から1870年4月まで弘前藩預かりとなった。当時、日本でも卓越して英語のできた人物で、工藤、青山、三浦にとっては得難い英学の先生であったのであろう。その後、1870年5月まで林薫に英語を学び、その年の7月には大学南校に行ったのであるから、他の若者よりは英語ができたのであろう。工藤勇作は1877年に東京下谷徒町で工藤学校分校という英語私塾を開業している。

 ただ明治3年に大学南校、東校に学んだ弘前藩の若者達のその後については、ほとんど不明である。藩を代表して、大学南校に学んだ秀才であるから、明治期において何らかの活躍があってしかるべきであるが、全く痕跡はなく、不思議である。大きな挫折があったのかもしれないが、今後の研究が必要であろう。


2013年6月12日水曜日

そのとき、空母はいなかった 検証パールハーバー と「社長洋行記」


 最近読んだ本は、「蒋介石に棄てられた女 陳潔如回想録」(陳潔如、草思社)、「江戸の地図屋さん 販売競争の舞台裏」(俵元昭、吉川弘文館)、「兵士は裁つ自衛隊史上最大の作戦」(杉山隆男、新潮社)、「言志録」(佐藤一斎、川上正光訳、講談社学術文庫)、「名刀虎徹」(小笠原信夫、文藝春秋)、「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」(村上春樹、文藝春秋)、「秋月梯次郎」(松本健一、中公文庫)、「龍馬史」(磯田道史、文春文庫)、「八月からの手紙」(堂場瞬一、講談社文庫)、「さいごの色街 飛田」(井上理津子、筑摩書房)、「新宿で85年、本を売るということ」(永江朗、メディアファクトリー新書)、そして今回紹介する「そのとき、空母はいなかった 検証パールハーバー」(白松繁、文藝春秋)である。

  週に4、5冊ペースで本屋で買ってきて読む。基本的には「積んどく」はしない主義なので、つまらない時は得意の速読で、飛ばして読んでいく。上記の本でも何冊かは、速読で、1時間くらいで読んだ。小説家、歴史家とはいえ、100のネタを1にしぼって書くひとと、1のネタを100倍した書くひとがいる。ざっと読めば、こういった荒い仕事の本はすぐにわかり、速読モードに入る。逆にあまりの専門的すぎるのも素人の読者にすれば、それは作者の自己中じゃないかと思い、これもわからないから速読する。

 ただ「言忘録」などは1ページ、1ページがあまりに深く、ものすごく時間がかかる。内容が濃すぎて、絶対に速読できるものでなく、4巻買って、仕事の合間に読んでいるが、1巻がやっとである。

 「そのとき、空母はいなかった 検証パールハーバー」もどちらかというと、オタク的な本で、日米開戦のなぞ、ルーズベルト大統領は日本の参戦を知りながら、なぜ真珠湾に警告しなかったのか、どうして日米開戦が始まったかを、アメリカの資料を基づいて、くわしく検証している。実は、面白かったのだが、結局は速読してしまい、最初半分は3時間くらいかけたが、後半は1時間くらいで読んでしまった。ややくわしくすぎる感じがする。

 内容については、アメリカの暗号解読の日本軍に対する有意性を改めて示したもので、よく知られたものである。ただ、これだけくわしくアメリカ側の資料を示され、日本の外交文書の100%、海軍のD暗号にしても20%だが、実際はほぼ100%近く、解読されていたとはっきり示されると、愕然とする。ショックを通り越して、よくこんな状況で戦争したなあ、負けるのは当然であると日本政府の暗号について懐の甘さに本当に腹がたつ。

 著者は、真珠湾攻撃については、アメリカが完全に把握しており、空母は偶然、真珠湾にいなかったのではなく、最新の巡洋艦、駆逐艦も含めて攻撃前に避難させたとしている。そして、あれほど犠牲者が多かったのは想定外であったが、旧式の戦艦のみを真珠湾に残したと結論している。事実であろう。ほぼ外交文章の暗号は完全に解読されていたのである。こういった話になるとミッドウェイーの敗北が論じられるが、真珠湾、珊瑚海開戦から戦争の最後まで日本軍の行動はすべてアメリカ軍が把握していた。勝てるわけなない。

 日清、日露戦争では日本も、こういったインテリジェンスには積極的で、日清戦争後の下関条約では佐藤愛麿などの活躍で清国の暗号を完全に解読して交渉を有利に進めた。こういった成功経験があるにも関わらず、その後、暗号解読、情報漏れには熱心でなかった。それでも陸軍はポーランドの情報局から勉強し、国民党の暗号は解読していたし、日本陸軍の暗号は最後までアメリカ軍には解読されなかった。アメリカも日本陸軍の動向にはそれほど関心もなかったせいもあるが、それにしても日本外務省、海軍はあまりにおそまつであった。少なくとも、海軍、外務省も陸軍と協力するような体勢はできなかったのか、残念である。

 あまり腹が立つので、「社長洋行記」(東宝)を見た。森繁久彌、三木のり平、小林桂樹、加藤大介のからみ面白く、笑わせる。とくに香港の大スター尤敏(ゆうみん)を初めて見た。知人がファンというので、この映画をレンタルしたが、確かに美人である。一部、Youtubeを載せる。松任谷由実は彼女の名からユーミンの愛称をもらったようだ。

2013年6月6日木曜日

新編明治二年弘前絵図 増刷


 学会も終了して、新編明治二年絵図の増刷にかかっている。読者から禅林街の記載が間違えているとの指摘があり、調べると、絵図自体の記載が間違っていた。多少の変更はあるが、禅林街の寺院配置は江戸時代から今まで、大きな変更はなく、明治二年絵図のような寺院配置の変更はなく、調査不足、元にした資料自体が間違っていたのであろう。

 こういった基本的な事柄は、寺社奉行あるいは、禅林街では総まとめの長勝寺で簡単に把握できるため、どうしてこのような間違いがあったのかは、不思議である。これはあくまで想像であるが、士族の家同様に寺院でも表札がなかったのではなかろうか。今日のように家に表札がかかるようになったのは大正ころからで、江戸時代は家に表札はなかった。寺院においても今は入り口のところに大きく、寺名が書かれているが、江戸時代は案外、何も書かれていなかったのかもしれない。

 寺の収入の多くは、大きな寺では藩による寺領があったが、小さな寺では檀家収入で成り立っていた。上流士族、大きな商家が主たる檀家で、寺の収入のウエイトの大きなところでは、明治初期、士族が廃業し、経済的にも混乱していた時代は、寺院経営も厳しかっただろう。さらに明治まで寺院の住職は基本的には妻帯禁止、世襲制でなかったため、無住の寺院もあったのかもしれない。全昌寺は無住のため、隣に海蔵寺に吸収されている。

 また新寺町の塔頭の位置も違っており、他の場所についても明治二年絵図をそのまま全面的に信じるのは、やめた方がいいのかもしれない。例えば、土手町にあった高札、制札の位置についても、明治二年絵図では、現在の蓬萊堂のところに記載されており、「つがる巷談」(吉村和夫著、1985)にも土淵川岸と中土手町64番地、土田和吉所有の屋敷にはさまれた約十坪の広さに高札があったとし、場所は蓬莱橋の中土手町南側たもと(現蓬萊堂)となっている。

 ちょうど蓬萊堂が東に移転し、十坪くらいの空き地ができたので、ここに江戸時代風の高札を立てたらどうかと市の職員に聞いたところ、高札のあったのは下土手の北側、ピザ屋の隣くらいという。蓬莱橋自体何度も立て替えもあり、場所も少しは移動しており、これも明治二年絵図をそのまま信じる訳にはいかない。

 せっかく増刷するので、安済丸を作った石郷岡鼎や隠れた津軽の数学者、佐藤正行など載せたい人物もいたが、調査する時間がなく、禅林街の部分を一部修正して、近々に増刷したい。前に買いそびれた方は是非買ってほしい。7月には500部くらい増刷予定であるので、できれば紀伊国屋弘前店などに予約してもらえば、確実に手に入ると思う。

2013年6月3日月曜日

鉞子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯


 「鉞子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯」(内田義雄著、講談社)を読んだ。一日であっとという間に読めた。著者の杉本(稲垣)鉞子への深い愛情によるものか。読みやすい文章で、士族の娘のユニークな一生をうまくまとめている。

 杉本鉞子については、以前、長岡在住の杉本鉞子研究家の青柳さんから聞いていたので、「武士の娘」はすでに読んでいたが、この時はあまり感動しなかった。こういった評伝を読むと、よく理解でき、「武士の娘」を発行するまでの動機がよくわかった。「武士の娘」の優れた解説本ともいえよう。

 杉本鉞子の旧姓は、稲垣といい、越後長岡藩の家老稲垣平助の六女として生まれた。名門の家系である。幕末期、薩長と戦うか、恭順するかで藩論がわかれた時、恭順派であったため、長岡藩からは卑怯者とののしられたが、この本を読むと、主戦派のリーダーの河合継之助の強引な政策が藩を窮地に陥らせたとも言えよう、司馬遼太郎が描く「峠」とは真っ向から異なる歴史観である。長岡藩が明治維新後も会津藩のように領地召し上げとならなかったのは、この本では鉞子の父、板垣平助の功も大きいことを始めて知った。裏切り者、卑怯者を言われ、主君や家臣からも嫌われながらの、後半生は厳しいものだったろう。実際の歴史は案外、こういったことが真実なのかもしれない。こういった本の出版で少しでも汚名はそそがれたのかもしれない。

 123ページに横浜バイブルスクールの「ミセス イナガキ」という人物が登場し、著者はこのイナガキを鉞子ではないとしているが、誰とは同定していない。このイナガキとは稲垣寿恵子(1860-1931)のことで、横浜海岸女学校などの講師をしており、文中では20数名の盲目の女性たちを世話する女性となっているが、これは二宮ワカらと作った横浜訓盲院のことである。明治22年のことである。

 杉本鉞子はアメリカ、オハイオ州シンシナティーで過ごした。このブログで何度も紹介した、須藤かくとは何らかの接点があるかと思い、この本を読んだが、両者にはどうやら接点はなさそうである。杉本鉞子は1873年生まれ、須藤かくは1861年生まれで12歳違う。須藤かくが横浜共立女学校を出てバイブルスクールに入り、渡米したのは1891年。そしてシンシナティーの女子医大に入学したのは、1893年で、卒業は1896年で、医者となり横浜に戻ったのが1898年である。一方、杉本鉞子が渡米したのは1898年で、須藤かくとは行き違いとなり、両者は同じシンシナティーにいたが、接点はない。ただ杉本鉞子の夫、松雄がシンシナティーで日本の工芸品、雑貨の店、「ニッポン」を開業したのは、1896年であるので、同じ日本人として杉本松雄と須藤かくは面識があったかもしれない。

 いずれにしてもシンシナティーでは、異国、日本から初めてきた熱心なキリスト教徒、須藤かくと阿部はなは、好奇の対象であり、新聞でも何度も取り上げられ、その優雅な立ち振る舞い、心根はシンシンティーの人々から大きな尊敬と歓迎を受けた。有名人であった。その後に来た、杉本鉞子もまたキリスト教徒で、須藤かく、阿部はなと同様な姿に見いだし、市民は改めて日本女性のイメージを確立していったのであろう。杉本鉞子の終生の友、母親代わりのフローレンス・ウィルソンが両親と一緒にシンシナティーに来たのは1881年で、当然、新聞などで須藤かく、阿部はなのことは知っていたのであろう。ただウィルソン家はメソジスト教会に属し、須藤かくが主として活躍した長老教会とは宗派は違うため、教会での直接の接触はなかったのかもしれない。それでも強い日本女性への興味があったのであろう。

 須藤かくと恩師ケルシー女医の関係と杉本鉞子とフローレンスの関係は本当によく似ている。ケルシー女史は須藤かく、阿部はなのことをcompanion(仲間)としていたが、こういった人種を越えた深い結びつき、愛は美しい。