2008年7月6日日曜日
一戸兵衛 6
一戸は乃木希典大将亡き後、「今乃木」と呼ばれ、その高潔な人柄から、除隊後も学習院院長、明治神宮宮司、在郷軍人会会長などを歴任した。よほど人柄が愛されたのであろう。乃木と一戸は互いに尊敬しあい、よく漢詩を二人で批評しあっていたという。名将立見尚文中将や一戸を見ると、それぞれ叩き上げで指揮官となり、小隊、中隊、大隊、連隊の立場で多くの戦闘経験を積んできた。後の陸軍幼年学校ー士官学校ー陸軍大学校のエリートが兵隊を数とみ、人命を軽視した作戦をとったのとは対照的であり、これが太平戦争の敗因のひとつと考えられる。日本軍は下士官は優秀だが、将校以上は愚かであると言われたのはこういった教育制度にも起因している。
一戸はいくさ上手と言われた。そのひとつに203高地奪取の折、最も堅固な東鶏冠山北堡塁攻撃の際、副官が狙撃されてもなかなか動かなかった。待つこと1時間そこに立ち続け、大島師団長が攻撃を催促にきても「無謀な猪突は兵を損ずるばかりだ。そう急がなくとも、時がくれば攻撃する」といい、それからさらに30分してから突撃の機会を待って、攻撃した。冷静な判断と戦闘の経験から来た感覚であろう。日露戦争中の一戸の副官林鉄十郎大尉は後に大将、首相になったが、その時の外務大臣佐藤尚武は一戸の東奥義塾時代の同級生佐藤愛麿の息子(養子)である。
あるブログの中に一戸が弘前に凱旋した折のエピソードが書かれている。
彼が、故郷の弘前へ大将として里帰りした時の事です。一戸大将の乗った汽車が弘前駅に到着した時、駅には弘前中の人間が集まって来ていました。弘前市民がなんと言って閣下を出迎えたか。彼らは口々にこういって閣下をクサしました。(クサす=方言:嘲る、侮る、馬鹿にする、辱める等の意)
「わ(=方言:我)、いじのへばわらしのころ、ぶっただいだ事ある。いじのへばびーびー泣いでなぁ」だの、「いじのへばむがし、寝小便たれででなぁ、おがさ(=方言:母親)に尻ぶっただかれでびーびー泣いでのぅ」やら、何歳まで青っ洟たらしていた、だの、もうどうでも良いことを有る事無い事大声で喚き合っていたそうです。これを汽車の窓越しに聞いていた一戸大将は、あまりの恥辱に真っ赤になって、駅の裏から出て行ったそうです。それ以来、一戸大将は里帰りしなくなったとか。
有名な太宰の一戸の話と一致するが、彼の人格からは、こういったことから帰省しなかったことはありえない。軍人として各地に赴任したため、故郷の弘前になかなか帰れなかったのが真相であろう。あるひといわく、津軽は冬が長く、家の中でみんながおもしろがることといったら、ひとの悪口しかない。確かに津軽の銅像は殿様と相撲取りと言われるように、実際に津軽為信と若乃花の銅像しかない。隣の岩手県とはえらい違いで、あまり偉人を偉人として扱わない雰囲気がある。ひとつは功成り上げたひとは東京に住むことが多く、地元に帰らなかったせいかもしれない。
一戸には男の子がおらず、子供は長女の久邇子だけである。久邇子は養子を迎え、夫一戸寛との間にできた百合子は後に陸軍武官の情報将校小野寺信少将の妻となり、夫の日本の終戦工作を支えた。その著「バルト海のほとりにて」(小野寺百合子著、共同出版社)は以前、山田純三郎が日支和平工作に関連しているかと読んだことがある。興味深い本で、一戸の妻貞の軍人の妻たる教育が孫にも十分に伝わっている。
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2 件のコメント:
写真は乃木希典では?
もちろん写真は乃木希典大将です。ブログに何か写真付け加えていますが、一戸大将の写真あまりないので、上官で、漢詩の交遊のあった乃木大将の写真を貼っています。説明が不足しており、申し訳ございません。
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