2009年2月6日金曜日

山田兄弟19



 中国第二革命で殉死した櫛引武四郎の祖父に当たる儒者櫛引錯斎(儀三郎)の碑があると知り、昨日弘前の最勝院に行ってきた。今年の冬は雪が少ないが、それでも五重塔の横にある碑のあるあたりには雪が多く積もっており、近くまで進むことはできなかった。そのため碑文自体は読めなかった。雪が溶けたらもう一度行ってみたい。以前は最勝院の東にあったそうだが、その後整地され今では棟梁堀江佐吉の碑のあたりにその他の碑とともに集めれている。

荒井清明著「弘前今昔 第五」(84-87,1998 北方新社)から引用する。

「櫛引儀三郎は文政三年(1820)に2月1日に櫛引左門の三男として代官町に生まれた。儀三郎二歳の時に父母を失い、祖母に養育された。三十俵五人扶持で、祖母が病床に臥してからは貧困を窮め、鷹匠町小路に転居した。家計は苦しかったが、儀三郎は山で薪をとり、米をついて家事を手伝いながら、学問をした。やがて藩校の稽古館の典句に採用され、その後学問が認められ、十二代藩主津軽承昭の時代の慶応三年(1867)に稽古館学士・碇ヶ関町奉行格となり、藩主の侍講ともなった。」

 外交官の珍田捨巳も子供の頃、この櫛引儀三郎について修行を積み、後に珍田は「先生は儒者としての、識見の高いのはもちろんだが、権力にこびることはせず、名誉や金銭にもてんたんとした高潔なお方だった。何事にも、真心をもってあたり、近世まれにみる偉い人だった」と評している。本多庸一、菊池九郎、木村静幽、一戸兵衛なども稽古館での櫛引の教え子だった。当時、弘前には私塾「思斉堂」の工藤他山と「麗沢堂」の兼松石居、それと藩学校の稽古館の櫛引というすぐれた教師が同時にいたことは、その後の弘前から偉大な人物を生んだきっかけとなった。漢文というと私たちには受験科目のように思われるが、当時のそれはおそらく思想的な教えであり、人間としての生き方、社会への貢献など古典を通じて、それ以上に先生の生き方を通じて学んだと思われる。そういった意味では、幕末にこのような3人の偉大な教育者が津軽にいたことは、若い生徒には大きな刺激となったであろう。

 櫛引儀三郎には五男一女があったが、長男英八は五所川原村会議員、県会議員を勤めたことは前回記した。二男の峰次郎は工藤家に養子に入り、工藤家を継ぎ、後に衆議院議員などを勤めた(工藤行幹 ゆきとも)。また三男謙海は仏門に入ったが19歳で死亡し、五男秀五郎も18歳で死去した。四男は晴四郎は桑村家に入り、長女は蝦名家に嫁した。櫛引英八の長男が武四郎で、次男?の純二郎によって大正10年に「錯斎先生言行録」が発刊された。純二郎は化学の方に進み、大正10年より同14年まで東北帝国大学金属材料研究所助手を勤め、14年または15年に亡くなった。長男武四郎は39歳で中国で、次男純三郎も志半ばで亡くなったのであろうか。

櫛引儀三郎は明治4年には隠棲し、羽野木沢村(五所川原市)で農業、養蚕に従事して、明治12年12月に60歳で没した。そのころの津軽の儒学がどのようなものであったか、不明であるが、山鹿流が中央に隠れてこっそりと津軽藩では重んじられていたことや幕府で禁書扱いされた山鹿素行の『聖教要録』を出版するなど事実から、案外陽明学の流れをくむものかもしれない。知行合一を唱える陽明学ほど江戸期における危険思想はない。3人の津軽の生んだ儒者がどのような教育がしたのか、陽明学的なものであったか、興味がつきない。異郷の地で中国革命のために倒れた山田良政、櫛引武四郎も、このような津軽の儒学教育のもと陽明学の影響を受けているかもしれない。

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