2010年7月26日月曜日

山田兄弟28





 来年、2011年は辛亥革命からちょうど100年、中国各地で数多くのイベントが予定されている。その皮切りに、恵州起義110周年を記念して、革命が起こった三州田に大規模な彫刻公園がこの10月に完成する。敷地は約3万坪で、19の彫像が立つ予定である。中国では恵州起義は、庚子首義あるいは三州田首義と呼ばれ、その場所には革命成功後の1925年に孫文庚子革命首義中山記念学校が建てられた。中華人民共和国建国後、近くにダムが作られ、三州田の村自体が水没したため、あまり注目されることはなかった。ところが来年度の辛亥革命100周年事業の一環として再び脚光を浴び、1342万元の費用をかけ、この革命をモチーフにした彫像公園が建てられることになった。

 山田良政は、1900年10月6日に起こった孫文最初の革命に参加し、外国人として初の犠牲者になった。この革命については以前のブログに書いたが、義和団事件に触発された孫文は、清朝打破を目指した革命運動を広東で起こそうと考えた。日本人では宮崎滔天、福本日南、平山周、内田良平などが革命運動に参加し、日本での費用、武器弾薬の調達に動いた。ところが孫文に同情的であった犬養毅も動かず、日本ではほとんど進展はみられないことから、山田良政は台湾に赴き、台湾総督児玉源太郎、民政長官後藤新平に斡旋を依頼した。山田良政にとっては、児玉は郷土の軍人一戸兵衛と懇意であり、また後藤は叔父の菊地九郎と面識があった。当時台湾を領有していた日本としては対岸の福建省に日本の勢力を延ばそうとする目論みもあったのだろうが、後藤と児玉は革命援助を約束した。

 この約束を信じた孫文は、すぐに同士の鄭士良に蜂起せよと命令を下し、10月6日に恵州の三州田で決起した。その頃、孫文と山田は台湾で児玉、後藤と協議を重ねていたが、ちょうど内閣は山県有朋内閣から伊藤博文内閣にかわり、突如計画がすべてご破算になった。伊藤は中国不干渉主義をとり革命軍の武器弾薬の輸出を厳禁した。計画が狂ったため、蜂起の継続はもはや不可能と孫文らは判断し、その使者として山田良政はじめ数名を鄭のもとに派遣し、革命軍の解散を命じた。良政の使命は革命軍に孫文の伝達を告げれば、そのまま引き返せばよかったが、敗軍を見捨てるのを潔しとせず、殿軍の6名として襲いかかる清朝軍と戦い、捕虜になり三州田の地で処刑される。10月22日とされ、享年33歳であった。

 話を三州田の彫像公園にもどそう。この公園のハイライトは孫文を中心に2名の革命家が議論する彫像群であろう。ここに羽織袴の和服を着た日本人がいるが、どうみても良政ではない。当然、このシーンでの彫像は山田良政でなくてはいけないが、面影はむしろ内田良平に似ている。当時、良政は中国人になりきろうとしたため、弁髪、中国服、金縁眼鏡という服装であり、彫像はあくまでモチーフとしての日本人ということからすれば、モデルとしてはふさわしくなかったかもしれない。それでも、山田良政はもう少し有名であったなら、こういったミスはなかったかもしれない。残念である。せめて顔立ちくらいは似せてほしかった。

 公園の完成は10月ということなので、今後もう少し具体的な情報が入るかもしれないが、この日本人は誰をモデルにしたのであろうか。そして来年度の辛亥革命100周年記念事業で、山田兄弟がどういった評価をされるのか、期待したい。

 中国のHPを参考にしているので、内容については十分に理解できず、上記ブログ内容も間違っている可能性もあるが、許してほしい。次のHPに彫像公園の詳細が書かれているので参考にされたい。
(http://dzb.yantian.com.cn/html/2009-12/08/content_880548.htm

2010年7月19日月曜日

終わらざる夏



 浅田次郎著「終わらざる夏」を読みました。浅田さんの作品は、大好きでこれまでの著書もほとんど読んでいます。映画やテレビを見て、泣くことはあっても、本を読んで泣くことはまずないのですが、浅田さんは泣かせる達人なのか、よく泣かされます。文章力の巧みさでは、現代作家では秀逸でしょう。

 浅田さんの最新作は、着想30年、渾身の作品で、太平洋戦争の末期、終戦後と言った方がよいかもしれませんが、北海道の北、アリューシャン列島の占守島での戦いに巻き込まれた人々を描いたものです。占守島の戦いと呼ばれるもので、ソビエト軍は軍略上の目的から、戦争の終結した8月18日に占守島守備隊に突如攻撃してきました。戦争末期に関わらず、設備、人員、士気とも高かった日本軍は、ソビエト軍の野望をくじき、北海道の占領をあきらめさせた戦いです。

 史実については、ある程度知っていましたが、対ソ戦を想定した関東軍最強部隊が、アメリカ軍のアリューシャン列島攻略に対する防御として、移動され、輸送手段の欠如から最果ての北の島に取り残された末に、結局はソビエトと戦うことになった偶然については、知りませんでした。奇跡的残った最強部隊が、北海道へのソビエト侵攻を阻止したのです。

 本書は、うその得意な浅田さんにとっても書きにくい本だったでしょう。前書の「ハッピーリタイヤメント」のように着想を得て、思うままに書ける内容ではありませんし、代表作の「蒼穹の昴」も資料集め、構成には苦労したとは思いますが、所詮は外国の、それも100年以上の前の話なので、自由に言葉を文章に乗せることができたでしょう。ただ本書は、関係者がまだ生存している近現代の物語で、当時の時代を資料的にも、体感的にも矛盾なく、表現しなくてはいけません。これは書く側からすれば、かなり制約を伴います。それ故、本書では浅田さんの本には珍しく、泣ける場面は少ないようです。

 それでも3人の主人公、軍医菊地、英語通訳として招集された片岡、鬼熊こと富永軍曹、その家族、関係者の挿話には、浅田ワールドがちりばめられ、泣きそうになりますが、ここでは泣かせる手前で寸止めされ、筆を置いています。主題があまりに厳粛なため、泣かせることができても、理性面での制動が効いているのでしょうか。本書のハイライトと思える、実際の戦闘シーンにしても、ソビエト兵の戦闘詳報でさらりと語られているだけで、泣かせる場面は山とあるシーンに関わらず、押さえています。平成の泣かせ屋が、泣かせるのを禁じた作品です。それだけ思い入れの強い作品だったのでしょう。

 先日、BS11のベストセラーBOOK TVで浅田さんが出演していました。他の出演者の能天気な質問に、始終苦りきった表情で、こんな間抜けな質問に答えるくらいなら出なきゃよかったというのが本音だったのでしょう。戦争という不条理の状況にもてあそばれる人間。さらに専守島の戦いでは、戦争が終わった状況の中で戦うというさらなる不条理。英語を愛し、アメリカとの停戦ための通訳として42歳で召集された人物がソビエトと戦うという不条理。そうした中、お末と呼ばれる中村伍長が「もしそういう非道なのだとしたら、どんなことであろうとこの占守島で敵を食い止めねばなりません。ここを取られたら、列島のほかの島も、北海道も攻められます」と言わしめるところが、浅田さんであり、この一言でさすが元自衛隊と思いました。

 ちょうど「指揮官の決断—満州とアッツの将軍 樋口季一郎」 (文春新書) を読んだ後に、本書を読みましたが、占守島戦いを直接指導した現地軍だけでなく、北部軍のトップの樋口中将もソ連の権威であったことは、結果的には上から下まですべて対ソ戦の最良、最高の部隊であり、日本陸軍の最後の意地を見せた戦いだったと思います。日本軍は、アジア侵略という汚名を着せられていますが、近代以降直接戦った相手は、清、ロシア、ドイツ、アメリカ、イギリスという強国であり、けっして卑怯な国ではありません。言うまでもなく戦争ほど、愚かで理不尽なものはありません。まして最果ての地で最後まで戦った彼らは、故郷にそれぞれ親、家族もいて、死にたくはなかったでしょう。終戦後に戦った彼らこそ戦争の愚かさと不条理を最も知っていたはずで、そういった彼らの死を忘れないことが浅田さんのメッセージかと思いました。

 本書には陸軍97式戦車チハ、上陸用舟艇の大発の個性的な乗員が登場しますが、飛行機好きな私には最後まで占守島にいた4機の海軍97式艦上攻撃機の乗員も登場させてほしかった。旧式の攻撃機に乗って、戦う、もうひとつのドラマもあったかもしれない。

 ソビエトの圧力で上映中止となった「氷雪の門」が今年、36年ぶりに上映されることになりました。樺太の電話交換手9名の乙女の悲劇を描いたもので、占守島の戦いが陽の目が出なかったように、日ソ友好を妨げるものとして上映が中止されたものです。是非みたいと思います。

2010年7月14日水曜日

織座および荒町(明治2年弘前地図)




 明治2年弘前地図を見ていると、紺屋町に織座というところがある。弘前藩では、藩の殖産のため京都から染め、織りなどの職人を呼び、今の紺屋町付近に住まわせた。その工房があったのが、この織座である。

 松木明知先生によれば、家族も含めると数百人が京都から弘前に来たようで、当時のこのあたりは京言葉が盛んに飛び交っていたのであろう。1722(享保7)年7月6日の弘前藩庁「御国日記」には、5代藩主・津軽信寿(のぶひさ)が紺屋町の織座で「祢むた 流」を高覧したとある。当時のねぷたの運行経路は、この紺屋町から春日町であったようで、殿様はこの織座からねぷた運行を見たようだ。松木先生によれば、織座から殿様が見学したことから、弘前ねぷたの起源を京都の盆灯籠としているが、その通りであろう。藩主がわざわざ、紺屋町の織座から見学するというのは、祭りのルーツ、発祥の場である紺屋町、そこに住む京都出身の住民に敬意を払ったことによる。今の聖母修道院、明の星幼稚園の敷地となる。明治2年弘前地図では 旧織座 高森三四郎邸内 となっている。明治時代後期には弘前で薬店を営んだ菊池長之のものとなったが、その後火事で母屋が焼け、昭和29年に聖母被昇天会に譲渡された。昭和10年には、天皇の弟の秩父宮殿下が弘前歩兵31連隊の勤務することになったが、その宿泊所がこの菊池別邸で、寺山修司の父親、八郎は警護のため、しばしばここを訪れたのであろう。

 織座の奥には織座稲荷がある。この前の日曜日にここに行ってみたが、稲荷神社は跡形もなく、岩木川への道があるだけであった。紺屋町に住む京都出身の住民が故郷を思い出す稲荷神社を建立したのであろう。さらに「弘前福音教会のブログ」には、この付近、四ッ堰というところに江戸初期には刑場があったようで、刑死者の供養を兼ねた神社であった可能性もある。

 織座を左に折れたところには 枡形があり、そのそばには制札が置かれ、船で川を渡った人々に法令などを知らせたのであろう。また付近に足軽町を設けたのも軍事防衛上のことであろう。地図の説明では 浜の町橋 長さ85間 橋幅3間3尺 川幅240間余 水幅36間 明治6年官費を以て新築 となっており、それまでは渡し船で川を渡っていたようだ。付近には浜の町舟守人の名前が見え、舟の管理や警備をしていたのであろう。

 紺屋町から新町、誓願寺、新町坂を歩いたが、この当たりのいわゆる下町は一種独特の雰囲気がある。藩政時代の弘前城下は、上町・仲町・下町の3区域に分けられ、城の東南部を指す上町は上級武士の町、下町は城の西部一帯、岩木川までを指し、比較的下級の武士たちが住んでいた。また川の氾濫が多かったことから、昔は荒町と呼ばれ、多くの商人や職人がここに住んだ。昔の地名でいうと、荒町、五十石町、上袋町、下袋町、西大工町、鷹匠町、駒越町、平岡町などが下町で、五十石町、鷹匠町、袋町に武士が住み、それ以外のところには商人、職人が多く住んだ。誓願寺からは広い道になっており、そこをまっすぐに進むと新町坂となり、そこからお城に上がる。この道は今でも当時の面影がはっきり残る町並みで、昔は多くの商店があって活況を示したのであろう。現代風の建物や、高いビルもないため、昭和の記憶を思い出すところであり、同じ弘前にいても、ここらを歩くと、タイムスリップしたようななつかしい気分になる。観光名所といって何もないところだが、妙に印象に残る場所である。

 新町坂を上がると、藤田記念庭園にでるが、古地図ではここは新屋敷と呼ばれる長屋であったようで、周囲の家の真ん中には2つの井のマークがあり、井戸が2つあったのであろうか。今の庭園からは全く想像もできない。

2010年7月11日日曜日

六甲学院 3



 六甲学院に関するブログは、アクセス解析からアメリカ、ドイツなど海外にいる卒業生にも読まれているようで、母校と離れているほど、愛着も強くなるのであろう。年齢を重ねるにつれ、中学、高校を過ごしたこの学校のことが色々と思い出され、懐かしい。30、40歳の時は、仕事も忙しかったのだろうか、同級生と会うのも面倒であったが、今では一番の楽しみになってきた。友人の一人が、会社で採用担当になった時に、一人の学生の履歴書を見ると、六甲学院卒、サッカー部と記載されており、即採用したと言っていたが、こういった気持ちはわかる。

 六甲学院の生徒は、神戸、阪神沿線に散在していたため、電車通学の生徒が多かった。多くの生徒は一番近場の駅が阪急六甲駅であったため、阪急電車を使い、そこから歩いて学校までで通学していた。当時は、急行が六甲駅に止まらなかったので、普通電車で通ったが、私が乗る阪急塚口では私ひとり、次の武庫之荘で1、2人、西宮北口からさらに多くの生徒が乗ってきた。宝塚線、今津線の連絡があったので、ここでの乗車が多かったようだ。各学年、グループに分かれて、わいわいがやがやしゃべりながら毎日通学した。

 電車内には、甲南女子、芦屋女子、海星女子、神戸女学院、小林聖心などの女子校の生徒もいたが、今と違い、女の子に声をかけるなんてとんでもない風潮であった。わたしにいたっては、6年間、同級生の女の子とデートどころか、話しさえしたこともなく、その後随分苦労した。大学に入って、女の子に電話するのも、話す内容を前もってノートに書いて、汗みどろで話したほどである。男女共学の学校に行っていた、妻や子供をみると、うらやましい気がする。それでもロマンスはあり、ある友人は、電車内で女子校の生徒から手紙をもらい、まじめに大学生になってからお付き合いしましようと返事し、がんばって有名大学に入り、いざその子の大学の大学祭にいくと、すでに彼氏がいたという笑えない話もあった。彼はよくもてたのか、会社に入ってからも、見知らぬ女性社員から電車の中であなたを見て、好きになり、この会社にわざわざ入ったと告白されたようで、この時は気色が悪いので無視したようだ。30年後に電車の反対側のドアにいつもいたK女子校のこんな子だよ、と言われても全く記憶にない。当事者しかわからない話であろう。わたしも毎日同じ時間、同じ電車で通学していたので、好きな子もいて、今はどうしているのかと思う時もあるが、話したこともなければ、名前も知らず、この年になると顔もだんだん薄らいできている始末で、どうしようもない。

 事務、図書館の数名の女子職員を除き、先生はすべて男性という徹底した男子校であったが、それでも勇気のある友人が平凡パンチやプレーボーイなどの週刊誌を買ってきて、休み時間にみんなでひそかに回覧したりしていた。当時、学校での性教育が文部省で通達されたのか、一度、厳格なカソリックの神父である校長がみずから性教育の授業をしたことがあった。例のおしべとめしべの話をし、キリスト教的な倫理的なお話をした後、ある生徒が「ところで子供はどうしたらできるのですか」ときつい質問をした。この時の校長の困惑した表情には大笑いした。

 こんな中高6年間、男子のみの学校だったため、大学に入ると女性問題で失敗した者をいたが、私でも何とか恋愛結婚したくらいであるから、後輩諸君も安心してよい。ちなみに六甲学院は阪神間、神戸のおばさま方には人気があり、ここを出た子は真面目でいい子が多いといって、見合いでは引っ張りだこであった。今はどうであろうか。少女マンガの西村しのぶさんの「サード・ガール」 (一巻のみ読んだが、家内から変態と思われるからやめないさいと言われ、他の巻は未読)には主人公の神崎川夜梨子(たぶん甲南女子中学か)の恋人に六甲学院卒業後、京都大学に進学した大沢悠也という人物が登場する。またわたしとは全く関係ないが、広瀬和正という歯科医も登場するらしい(wikipedia参考)。こういった設定は、当時の神戸、阪神間のロマンスとしては案外リアリティーがある。というのは灘高校、甲陽高校は勉強家というイメージが先攻しているが、六甲高校はややハイカラで勉強もでき、誠実というイメージがあったからである。関西学院高校も非常によくもてたが、ここから京大にいくことは少ない。六甲学院の制服は、昔の予科練のようなボタンなしのもので、当時でも目立っていたし、女子校生には印象的であったのかもしれない。

 今では制服姿の高校生カップルが街を歩いている姿はごく当たり前で、ほほえましい感じがする。尼崎では、40年ほど前はカップルが歩いていると「何いちゃいちゃしてるんや」、「ええかっこしてるやないか」と言われ、場合によっては殴られたりもした。こわいところである。とにかく連絡しようにも、当時は手紙か電話しかなく、電話すると必ず親がでたものである。電話すれば、「おまえは誰や」と言われるようでは、怖くて実際電話などできっこない。こういった状況に比べると携帯電話世代は、随分男女交際の壁は低くなったと思うが、なかなか好きな子に告白できない心情は今も変わらないであろうし、こういった切ない気持ちが青春の思い出となろう。

2010年7月8日木曜日

デジタルレントゲンはいらない?





 近年、歯科臨床においてもデジタルレントゲンが急速に普及している。フィルムの現像がいらない、処理が早い、被爆線量が少ないなどの利点があり、また何となく最新の機械であるため患者へのアピールも増す。歯科レントゲンメーカもフィルムタイプからデジタルへと製造のシフトを移し、ほとんどの新製品はデジタルタイプであり、この構図はカメラメーカのそれと似ている。患者にとっては、検査を受け、すぐにドクターから結果を聞くことができるだけでなく、ドクターにとっても過去の画像を瞬時に検索できるため、病像の変化をすぐに把握できる。

 一方、2、3年前に阪神技研の同級生に聞くと、従来のフィルムタイプも意外と人気があるとのことであった。歯科の不況のためか、あるいはデジタルレントゲンの価格が高いためか、新規開業以外はなかなか既存歯科医院では買えないようである。

 歯科で使われるレントゲン写真には歯を撮るデンタル写真と、口全体を撮るオルソパントモ写真、主として矯正歯科で使われ、頭全体を撮るセファロ写真に分かれる。またデジタル写真は処理法の違いによりCCD方式とIP方式に分かれる。簡単に言えばCCDとはデジタルカメラに使われるイメージセンサーのことで、デンタルではほぼ一眼レフカメラより少し大きなサイズを用い、オルソパントモではかなり大きなサイズのものを、セファロではこれを上下、横に移動して撮影する。カメラサイズのCCDについてはかなり安くなっているが、それより大型のものは高く、大きなサイズのCCDを使えばそれだけ高くなる。IPはIPプレートと呼ばれるフィルムのようなものにX線情報を記憶させ、それをスキャンして処理をする。医科の多くのデジタルレントゲンがこれを使っている。

 デジタルレントゲンでは被爆線量は少なくなると謳われているが、これはカメラとフィルムのISO感度を考えれば理解できる。ISO感度が高くなれば、それだけ少ない光で写るが、一方画像は荒れる。最新のデジタルカメラではCCDそのものも、画像処理もよくなってかなり感度が高くしても、そこそこの写真は撮れるが、それでもISO100〜200が標準となる。歯科用のデジタル写真の被爆線量が低いというのは、要はフィルム感度を上げただけのことであり、さらに歯科用のCCDそのものの性能、画像処理もデジタルカメラには及ばず、今のところ画像そのものはフィルムに負けている。そのため一部の歯科医ではう蝕や歯槽骨病変の発見にはフィルムの方がよいとしている。ただデジタルデンタル写真の即時性は捨てがいたい魅力がある。歯根の治療の場合には、治療中にレントゲンを撮り、すぐに確認でき、患者にとっても歯科医にとっても重宝する。

 パントモ写真はもともと増感紙を入れて、10-20秒回転させて撮るため、画像自体の鮮鋭度は低く、またブレもおこしやすい。そのためフィルム、デジタルとも同条件であり、即時性、過去の画像の検索性からすれば、デジタルが勝っている。最もデジタルレントゲンが有効な写真であろう。

 問題は、デジタルセファロである。小型のCCDを動かして写真をとるため、5-10秒程度の時間がかかる。これでも早くなった方で昔は30秒かかるようなものがあった。写真を撮るひとからみれば、シャッタースピード、1秒以上でブレなしで撮ることはほとんど不可能なことは周知であろう。30秒というとそれこそ江戸時代の写真である。通常人間が固定していても動かない時間は2秒、できれば1秒以内が望ましく、ほぼ四つ切り、六つ切りの大きさのCCDでなければ難しいであろうし、今後ともこの大きさのCCDは用途が限られ、メーカーは開発しない。その点、IP方式の方がセファロのような大型写真には向いている。医科のほとんどのメーカーはIP方式である。というのは胸部レントゲンなどほとんどのレントゲンは四つ切りサイズ以上であるからだ。フジフィルム、コニカなど写真メーカーが参入している。

 さらに矯正臨床で使うセファロは、デンタル写真、オルソパントモ写真と違い、定量分析を必要とする。デンタル、オルソパントモは歯や歯槽骨の病変をみるという定性的な診断をするが、セファロは角度を図ったり、長さを測ったり、過去画像と重ね合わせたりして診断する。レントゲン像だけでは何もわからないのである。各種の分析ソフトも販売され、モニター画面上で点を入力して角度、線計測を行うが、この点は架空の構造上の点であるため、同定が難しい。例えば、数年の変化をみる場合、歯の形、点の同定は数枚のセファロを参考にしながら行う。歯の形は変わらないが、これを写真上で点として入力する場合、同じひとが入力しても必ず誤差が出てくる。前後セファロを参考にして歯の形、位置を決めて行くことでこの誤差をできるだけ減らす。こういったことがデジタルセファロ分析では難しい。矯正の論文では、セファロの分析値を入れることが多いが、25.31°と小数点2桁まで書いている論文が多いが、著者にはこういった誤差の概念が全くないようでいつも修正させている(0.01°というと0.1mm以下の誤差である)。

 さらにいうとセファロ診断には即時性は全く必要なく、検査を行い、診断し、私のところでは2週間後に患者に説明する。2週間も時間があるわけである。フィルムを現像してプリントにする時間などとるに足りないものとなる。確かにデジタルセファロの方が画像処理で、より鮮明に見える利点があり、引かれるものがあるが、モニターだけではすべて分析できるものではなく、やはりフィルムに印刷したい。印刷したフィルムをトレースして分析した方がかえって早い気がする。特にあごの成長が止まっているかをチェックする一番いい方法は1年ごとにレントゲンをとり、トレース像を重ね合わせることである。ぴったりと合えば、成長はないと見なせる。

 それでは、現行のデジタルセファロでこういったことが解決できないかというと、医科のIP方式、例えばフジフィルムのFCRなどを導入することで、解決できる。鹿児島大学でもすでに20年以上前から導入しており、デジタル化し、モニター上でも見えるし、ドライイメージャなどでフィルムに印刷することもできる。ただ難点は、以前より価格が安くなったとはいえ、相当高く、プリンターであるドライイメジャーは安いソニーのものでも300万円、システム全体でどれだけなるかわからない。一日にせいぜい多くて10枚程度しか撮らない矯正歯科医院では導入に躊躇する。もっと安い歯科用のIPもあり、これにドライイメジャーを繋げる方法もあるが、歯科用のIPは販売数が違うのか、医科用のIPに比べると性能はかなり見劣りする。

 結論から言うと、歯科では歯の疾患が主流であり、デンタル、オルソパントモ写真のデジタル化は今後も進むが、セファロはメインユザーが主として矯正専門医であり、商業的にもメリットが少なく、医科メーカーの参入が難しく、そうかといって歯科メーカーも本腰を入れないのが現状であろう。富士フィルムなどの大手は、大規模病院への導入を完了して、小規模診療所、動物病院への導入を企画しているようだが、値段が下がり、矯正歯科にも導入が可能なものになってほしい。日本だけでは数はしれているが、世界ということになるとある程度の数は見込める。

2010年7月5日月曜日

機能的矯正治療を考える会



 7月3日、4日と初めて「機能的矯正治療を考える会」に参加してきました。今回で2回目ということで、次回、3回目は岩手県の中尊寺で国際大会を行うようです。この会は、主としてヨーロッパの矯正歯科で臨床に使われている機能的矯正装置を使っている歯科医、技工士、衛生士などが集まり、議論するという会で、今回も実に活発な報告があり、始まったばかりの若い会の新鮮さを感じました。2年ほど前に東北矯正歯科学会が行われた時と同じ、郡山駅近くのビッグアイという会場で行われ、形式も2つのスライドを使い、席を扇状に並べたアットホームな雰囲気のものでした。

 初日は、種々の装置の構成咬合についてのパネルディスカッションが行われました。II級(上顎前突)に対する機能的矯正装置を作る上で、下あごをどれだけ前進させた状態で作るのかは、重要であるようです。前進量が多いケースでは二段階で、上下の前歯のところで2mmくらいの隙間ができるくらいというのが一般的な構成咬合位です。私の場合はかなり適当で、上下の前歯が合う位置、隙間は適当でやっていましたので、構成咬合位については、あまり重要視しなかったのですが、今後はもう少し、ゲージなどを使い、きちんとやるべきだと思いました。一方、技工士さん達からはかなり厳密な規格を求められていましたが、もともと矯正装置は、適当なところがあり、こういう風に作れといっても、全く根拠がないこともあり、技工士さん達の要求には答えられないようでした。矯正歯科医と技工士さんの視点がやや違った感じがしました。

 特別講演にはイタリア、トリノ大学のDeregibus教授の話がありました。機能的矯正装置の歴史、作用機序についての紹介がありましたが、個人的にはアメリカの矯正歯科に対する怒りのようなトークをおもしろく聞きました。ヨーロッパとアメリカは深いところでいまだに敵対関係にあり、機能的矯正装置派と固定式装置派との戦いは、すでに100年以上は経つのにまだ収まっていないようです。アメリカの固定装置派(マルチブラケット)は機能的矯正装置には効果がない、効果があるなら証拠を見せろといい、機能的矯正装置派は効果がある、効果がないというなら証拠を見せろと、両者とも対立しているようです。さらにここ2、3年、アメリカ矯正学会雑誌には、効果がないという論文、詳しく言えば、機能的装置を使えば、すぐに効果があるが、結局最終的な成長量にはコントロール群とは差はないという内容の論文が2、3発表されています。つまり機能的矯正装置には患者さんの持っている成長のポテンシャル以上に成長を引き起こす力はないというものです。やや機能装置派が押されている状況です。Deregibus教授は、機能的矯正装置はすでに100年以上の歴史があり、それを支持する論文も2000近く発表されており、早急にダメだと烙印を押されるものではないと強く主張していました。さらに某社のブラケットが世界中で百万個も売れているが、このブラケットがよいという研究はわずか2編しかないのに、2000近くの論文がある機能的矯正装置が否定されるのは、アメリカ資本主義、コマーシャル主義によるものだとしていました。確かにこの主張は正しく、歯の動きが速いという何の根拠もない、あるとしてもこのブラケットと同じタイプのものが50年前から数種類発売されているにも関わらず、あたかも最新の治療期間を短縮する画期的なブラケットと紹介するあたり、コマーシャリズムの匂いをぷんぷん感じさせます。アメリカの矯正歯科と矯正材料会社が結託しているという見方もできます。一方。機能的矯正装置の多くは、アメリカ人にとっては製作、治療が面倒くさいという、ただそれだけの理由で毛嫌いされていることと、あごの発育は遺伝的に決まっており、治療によって大きく変化させることはできないという考えも根強いようです。また我が儘なアメリカ人の子供はああいった患者の協力が必要な機能的矯正装置を使ってくれないという事情もあるかもしれません。また機能的矯正装置の開発、発展にはドイツ人の矯正医が大きく関わっていますが、ブラケットなどに使われる貴金属が自由につかえなかったことや、保険医療制度に矯正治療が組み込まれているヨーロッパではコストのかかる固定式装置が使いにくいという背景もあったのでしょう。

 私のところでは、機能的矯正装置としては元九州歯科大学の佐藤先生の咬みしめ方FKOとクラークのツインブロックを使っています。3年前に調べた調査では、一期治療でこれらの機能的矯正装置を使い、二期治療で効果があり、理想的な治療あるいは歯を抜かなくてもよくなった、二期治療が必要でなかったエクセレントの症例が70症例のうちの50%、少しは効果があったが、二期治療の治療方針にはあまり影響しなかったグットが25%、ほとんど効果のないプアーの症例が25%でした。つまり半分は機能的矯正装置を早期に使うことで、早期治療の価値があったといえます。この数値が大きいか、小さいかは何とも言えませんが、私自身は二期治療の診断には非常に大事だと考えています。つまり二期治療の時期、中学2、3年でこの患者はあごの成長がかなりあるかどうかは検査をしてもわかりません。昔のアメリカ矯正歯科学会雑誌にABOという専門医の試験に提出される上顎前突の症例では、下あごの成長は平均成長よりかなり大きく、ABO成長といっていたようです。あごの発育がよく、うまく治った症例を出してきたのです。逆に言えば、思ったほどあごの成長がなく、うまく治療できなかった症例もかなりあるということです。もし機能的矯正装置であごの発育を二期治療前にわかっていれば、成長の少ない症例ではそれに沿った治療計画が立てられ、少なくともこういった予見に則った治療法を立てる必要はないのです。

 日本では、こういったヨーロッパとアメリカの対立とは関係なく、一期治療では機構的矯正装置を、二期治療ではマルチブラケット装置で治療するやり方が一般的になってほしいと思いますし、舌の異常な使い方、不良姿勢、口呼吸などのかみ合せに関連する機能的な異常に対する補助的な治療法としても、今後研究が進むにつれ機能的矯正装置は活用されていくでしょう。

 奥羽大学の氷室教授、里見優先生、伊藤率紀先生はじめ、会の運営に関わった多くの先生方の熱い想いを感じ取った大会でした。お世話になりま