兄の知人の歯科医に伊地知先生がいる。先祖は鹿児島県の出身で、日露戦争で乃木大将の参謀をしていた伊地知幸介中将の子孫である。昔、「二百三高地」という映画があり、ここで描かれた伊地知中将はとんでもない頑固で、融通のきかない役となっている。さすがに乃木大将は愚将とは描かれていないにしろ、丹波哲郎演じる児玉源太郎により何とか二百三高地を争奪できるという内容であった。伊地知中将の子孫の歯科医は、「会う人ごとに嫌みを言われるので、恥ずかしくて子孫と名乗れない」と言っていた。脚本には、かなり司馬遼太郎の「坂の上の雲」の史観が入っている。私も司馬遼太郎はファンでほとんどの作品を読んでいるので、そうした史観をそのまま信じた方であった。
ところが「乃木希典と日露戦争の真実 —司馬遼太郎の謝りを正す」(桑原嶽著、PHP新書、2016)はそうした乃木、伊地知の印象を一変させる優れた著書である。新書は読んでみて全く内容がないものを多いが、本書は元陸軍少佐、中央乃木会事務局長であった著者が、平成二年に「名将 乃木希典」を復刊したもので、旧陸軍の指揮者、歴史家として司馬遼太郎の「坂の上の雲」を徹底的にこき下ろしており、痛快である。論理が的確で、司馬遼太郎の資料の読み込み不足と乃木、伊地知への思い込みを詳細に分析、非難している。司馬遼太郎は生前、「坂の上の雲」のテレビ化、映画化を許可しなかったといわれるが、この本(平成二年発行)を読んで司馬はその誤りに気づいたのかもしれない。
司馬からすれば「坂の上の雲」は小説なのだから、事実とは多少異なってもよいと考えたのかもしれないが、読者の多くはこれを史実と考えてしまう。ここが歴史小説の問題点であろう。
同じようなことが韓国の歴史ものの映画、テレビでも起こっており、「宮廷女官チャングムの誓い」では歴史書にわずか一行書かれている大長今という称号を得た女医をドラマにしたことで、それが確固とした歴史上の人物となっている。今、話題になっている従軍慰安婦についてもヒット映画「鬼郷」の世界が真実と信じられ、世界中の慰安婦像を建てている。韓国人は日本人以上に本を読まないので、こうしたドラマ、映画の歴史観がそのまま実際の歴史と混同する状態に陥っている。
それでは、学術的な歴史が正しいかと言えば、これもいい加減なもので、かってのマルクス、エンゲルスの唯物史観に染まった歴史解釈は今から見るとおかしなもので、こうした例は多いし、新たな資料の発見により180度歴史が変わることもある。
私事で恐縮するが、8月に「日系アメリカ人最初の女医:須藤かく」を発刊予定している。先般、「津軽人物グラフティー」を出版してから、まだ2年しか経っていないが、それでも新たな資料の発見により内容が違ってきている。今後、さまざまな資料を見つけたとしても、ジクソーパネルの一ピースが埋まっただけであり、すべてのピースを埋めるのはできっこないし、空白の部分は想像力で埋めるしかない。空白部分が多いと歴史小説になるが、空白部分が少なくても想像の部分はある限りは小説の要素は残る。司馬遼太郎も初期の作品、「龍馬がゆく」は、空想部分が多かったが、晩年の「跳ぶが如く」になると、台詞が少なくて歴史観が全面に出てくる。司馬さんの影響はあまりに大きく、高知では坂本龍馬を讃えるために空港名も高知龍馬空港となったが、この坂本龍馬という人物も実像とは大分違うように思われる。
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