吉崎豊作の英語の師匠、名村五八郎
弘前藩で最初に英語を学んだ人物の一人に吉崎豊作がいるが、全く資料がなく、どういった人物かわからない。
このブログでも度々登場する兼松石居は、弘前藩より蘭学修業を命じられたのは、嘉永三年(1850)のことで、杉田玄白、前野良澤らにより解体新書の翻訳が安永三年(1774)であるから、かなり後発である。兼松は江戸在府のころ、蘭学者、杉田成卿らの知己であり、早くから西洋事情について知識があり、蘭学の必要性は十分に認識していた。その後、兼松の弟子にあたる佐々木元俊が杉田蘭学塾に入り、正式に蘭学を学んだ。佐々木は弘前に帰ると安政六年(1859)に弘前城内にある稽古館に蘭学堂を設けて、正式に藩士に蘭学を教えた。ただこの頃になると、すでにオランダ語より英語の方に関心が移った。一方、北海道の箱館では開港に伴い英語をしゃべれる通訳(通司)を養成するために、派遣米使節の通訳であった名村五八郎が先生となり万延元年に箱館の英語稽古所(通司稽古所)ができた。早速、弘前藩からも、神辰太郎、吉崎豊作、佐山利三郎の三人が派遣され、そこで学び、神は箱館で通訳として働いた。さらに弘前藩は英学修養の目的で、有能な若者を福沢塾に入社することになり、木村滝弥(文久元年1861)、工藤浅次郎(文久二年)、吉崎豊作(元治二年、1865)、佐藤弥六(慶応元年)などを江戸に送った。
吉崎がいつまで福澤塾にいたかは不明であるが、明治元年には函館にいたようで、弘前に戻ると将来、英学が重要であることを藩に献策し、それが認められ、明治三年に給費制の英学寮を津軽直紀邸に設けて本格的な英語教育が始まった。吉崎はここの監督に任命された。ただこの英学寮も翌年四年一月には青森市の蓮心寺に移り、さらに七月には閉鎖されてしまう。その後、明治六年に東奥義塾が創立され、開設時のメンバーとして、計算掛に吉崎豊作の名が見える。英語を直接教える教師からは外されている。吉崎豊作は明治九年八月の函館に商船学校ができるが(函館商船学校)、ここに招かれ教えた。
ここで、もう一人の吉崎姓の人がいる。吉崎源蔵といい、住まいは明治二年弘前絵図では大浦小路、須藤新吉郎の前に家にその名が見える。英学寮は廃藩置県とともに明治四年七月に消滅し、それを惜しいと考えた儒学者の葛西音弥が明治四年の九月に青森市に作ったのが青森学校四教塾である。青森市の寺町の正覚寺に塾舎をあて、葛西音弥、佐々木俊蔵、吉崎源蔵が皇漢学、英語を教えたとある。一年後には財政上の理由で廃止されたが、この佐々木俊蔵は、おそらく幕末に紙漉町で製紙業をしていた佐々木新蔵(紙漉座取扱)である可能性が高い。佐々木新蔵は旧名を今井屋俊蔵といい、兄は最初に述べた洋学を学んだ佐々木元俊で、弟は町人の今井家の養子に行き、再び戻ったのであろう。問題は、この吉崎源蔵が吉崎豊作と同一人物かということである。箱館の英語稽古所、慶応義塾で学び、弘前藩の英語寮で英語を教えた吉崎豊作が、青森市の四教塾で英語を教えるには一番適している。明治四年七月には吉崎豊作が英語寮にいて、明治四年九月には英語寮の後を継いだ四教塾に吉崎源蔵がいたというのは、吉崎という弘前ではそれほど多くないことから(明治二年弘前絵図では、吉崎源十郎、奥左衛門、源蔵、勇八の四軒)、どうやら吉崎豊作=源蔵の可能性が高いと考える。その後、吉崎は東奥義塾、函館の水産学校と職を変えた。
吉崎豊作は、せめて青森県の人名事典に載せてもよい人物と思う。
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