2018年6月21日木曜日

逝きし世の面影



 本の中には、ページ数の割に内容を2、3行で要約できるものがある。こうした本は、読むのも早く、新書版であれば2、3時間で読める。逆に中身が濃くて、数ページ読むにずいぶんと時間がかかる本がある。内容が難しいというわけではなく、1ページにある情報が多くて、読み飛ばせないのである。これは著者の資料の多さを物語るものであり、長年のそして膨大な量の資料を用いた本は、内容が濃くなり、読むのに時間がかかる。

 今、読んでいる「逝きし世の面影」(渡辺京一著、平凡社ライブラリー、2005)は、そうした本である。幕末から明治初期に来日した外国人の証言、本から、当時の日本人像を構築した。明治期の外国人が描く日本人の姿は、これまである種の先入観を持って書かれたものであり、どちらかというと眉唾ものとして評価されてきた。例えば、日本人はいつも笑顔で、幸福であると言っても、これは日本人のある一面的な姿で、実際は藩による年貢が多く、過酷な労働に明け暮れ、満足に食事をとれない 地獄のような生活だったとする左翼系歴史学者がいる。こうした考えに対して、著者は多くの外国人が共通して指摘することは、より真実に近いという立場をとる。外国人は道を歩くと野次馬ができ、入浴中の男女が裸のまま出て来て見学する、今では絶対にこうしたことはおこらないが、百五十年前の日本人の好奇心はこれほどだった。

 最近、上京して地下鉄内で家内としゃべっていると、うるさいと注意された。その時はかちんときたが、ネットで調べると電車内は公共の空間であり、勉強する人、寝る人の迷惑にならないように私語を慎むのがマナーであるとの意見が多い。そういえば、東京にいくといつも不思議に思ったのが車内の静音であり、しゃべっているのは外国人ばかりで、日本人は一様にスマホを見ている。こうした空間では大声でなくても普通の会話でもよく耳に入り、気になる。ただこうした現象は東京だけであり、大阪では車内でしゃべる人は多いし、外国の列車内はもっとうるさい。大阪や外国の車内で、隣の夫婦がしゃべっているのをうるさいと注意すると、逆にしかられるだろう。ある意味、電車内では誰一人しゃべらない、しゃべれない無言の空間、これは世界的、明治の日本人から見てもどうも奇妙な状況である。

 「逝きし世の面影」では外国人を虜にする日本の女性、子供、工芸品を様々な資料を用いて説明、解説している。先日、“迷宮グルメ”を見ていると、ミャンマーの電車の中でヒロシが電車に乗るおじさんのアルミ容器に入った弁当を見せてもらっていた。ごはんと魚の炒め物だったが、さらに隣に座る女の子にも弁当見せてと頼んだところ恥ずかしいそうにしながら弁当を見せてくれた。外国人からの要望に親切に答えたのだろう。かわいい仕草である。これを東京の地下鉄でしたらどうだろう。いくらテレビの取材とはいえ、見せてくれる人はいないだろし、おそらく変人扱いあるいは警察を呼ばれるかもしれない。さらに隠し撮りされてツイターで“弁当みせてくれおじさん”で拡散されるかもしれない。明治の日本人もこのミャンマーの人々と似た性分だったのだろう。それでは今の日本人はこうした性分はなくなったのかというと、そうではなかろう。ただマナーとか、実際は一部の人だけの常識が、そうした性分を覆いかくしているのだろう。生きにくい世の中になったものである。私自身は明治の人々の生き方の方が“電車内私語厳禁”よりは好意を持つ。電車内で私語は厳禁であるが、若いアベックのいちゃつきはOK、授乳はダメだが、ノーブラ、超ミニはOK。子供ころ、50年程前までは、赤ちゃんに母乳をあげるシーンは当たり前のことであったが、今やマナー違反になっている。ある所作が不愉快に思う人が多くなっていくとマナー違反となるのだろうが、もっとおおらかであったもよさそうなものだが。ますます窮屈な世になってきた。昔の日本に思いをはせるには、「逝きし世の面影」は名著である。明治百五十年。すでに滅びた日本文明を再検討するにはいい機会かもしれない。

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