2018年6月6日水曜日

毛沢東と宮崎滔天


 先月、恩師の叙勲記念パーティーのために久しぶりに鹿児島に行った。10年程前に行って以来だが、町の方はそんなに変わっていない。鹿児島に行くと定番であるが、まず“こむらさきのラーメン”そして、最も好きな山形屋裏の“鷹のラーメン”を賞味。さらに今回は鹿児島空港で少し時間があったので、鹿児島空港内の山形屋レストランの“焼きそば”も食べた。これと与次郎の“ざぼんラーメン”が私の鹿児島でのソウルフードである。今回は40年ぶりに中高校の同級生と中央鹿児島駅近くの屋台村で会った。観光客向きに施設で、ちょっと落ち着かない。早めに切り上げ、駅前に居酒屋に移り、焼酎五合ビンとポットという鹿児島流の飲み方を始めた.最後に二人の写真を取ってもらおうと側のカップルに声かけすると、そのカップルも20年ぶりに会ったという。何でも大学生のころ少し好きだったが、その後、全く会わず、電話、メールで連絡していたが、彼氏の方が出張で埼玉から鹿児島に来たので20年ぶりに会ったという。色んな話をして多いに盛り上がった。

 前置きが長くなったが、鹿児島の本屋で、「宮崎兄弟伝 完結編」(上村希美雄著)を購入した。日本編の上下、アジア編の上中下と完結編の全6巻の大著である。一冊、4000円、500ページを越えるもので、値段もさることながら、鹿児島から持ち帰るのがしんどいので、山田兄弟が多く載っている「完結編」を購入し、ようやく読了した。この中に面白い逸話があったので、紹介したい。

宮崎滔天は1917年に友人の黄輿の国葬のために中国の長沙を訪れた。その折、植蕃と毛沢東に招かれて湖南省第一師範学校で講演会を行った。手紙には無名の青年学徒である毛の宮崎滔天への深い尊敬があふれている。

白波滔天先生閣下。久欽高誼、覿面無縁、遠道聞風、令人輿起。
先生之於黄公、生以精神助之、死以涕涙弔之、今将葬矣、波濤万里、又復臨穴送棺。高誼貫於日月、精誠動乎鬼神。此天下所希聞、古今所未有也。植蕃 沢東湘之学生、嘗読詩書、頗立志気。今者願一望見采、聆取宏教、惟先生実賜容接、辛甚辛甚。  湖南省立第一師範学校学生 毛沢東 植蕃 上

この時、毛沢東は24歳。次の年にはこの師範学校を卒業し、教師となるので、師範学校が毛の最終学歴となる。おそらくは生涯最初に会った日本人が宮崎滔天だったのだろう。毛沢東が共産党員として活躍しだすのが1921年ころであり、さらに国民党の中央宣伝部長代理になるのが1925年であり、宮崎滔天が亡くなったのが1922年なので、その後のお互いの接点はない。戦後、昭和31年に宮崎滔天の息子、龍介夫妻は孫文誕生九十年の祝典に呼ばれ、毛沢東、周恩来に会ったが、宮崎滔天自身、長沙で会った口べたな青年が中華人民共和国の建国者になるとは夢にも思わなかっただろう。
おそらく毛沢東が会った最初の日本人は宮崎滔天であったであろう。

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