2024年2月8日木曜日

故郷の記憶 シソンヌじろうの自分探し

 



シソンンヌのじろうさんの「シソンヌじろうの自分探し」を購入して、早速読んだ。文章の上手い人で、2時間くらいでサラッと読んでしまった。じろうさんの子供時代に遊んだところや思い出の場所をこの本では紹介している。私は兵庫県の出身で、こちら(弘前)の出身ではないが、本に登場する店や場所はほとんど記憶している。不思議なことである。

 

よく考えると、じろうさんは1978年生まれの45歳、彼が高校を卒業したのが1996年で、すでに私は今の診療所を開設していた。実際にこちらに住み出したのは1994年で、さらに家内と交際して弘前に月に一度、2年間来ていたが、それが1981-83年、じろうさんが3つか4つの時、最初に弘前に修学旅行に来たのが1973年、大学時代にサッカーの試合で二度ほど来たが、それが1970年代の後半で、断片的ながら1973年から今までの弘前市の移り変わりは知っている。駅前の変わり方、ヨーカドーやダイエーができたり、映画館がなくなったりもある程度は知っているが、それでも家内(1961年生まれ)にすれば、かくはデパートの思い出のない人は弘前の人とは言えないらしい。かくはデパートは昭和52年(1977)には閉店したが、全く記憶にない。サッカーの試合をして確か、2回とも小堀旅館に泊まったし、キャッスルホテル横の銭湯に行ったし、鍛冶町に飲みに行ったが、かくはデパートの存在には気づいていない。

 

逆に私が尼崎にいたのは昭和31(1956)から昭和50年(1975)までだが、当時の阪神尼崎駅周辺のことはよく覚えている。昔、ダウンタウンが三和商店街を歩いて、ゴジラの映画をみた尼崎東宝を探すという番組があった。道行人に聞くが皆知らず、結局はかなり高齢な方に聞いて発見し、今は駐車場になっていた。尼崎で生まれても、中年までの人は尼崎東宝も知らないのかと思った。

 

じろうさん自身も弘前にいたのは18歳までで、その後はおそらく東京での記憶の方が多いであろう。だが故郷というのは、子供時代の記憶があるところであり、じろうさんの故郷は弘前であり、私の故郷は尼崎なのである。子供時代の記憶は特別で、おそらく故郷から離れれば離れるほど脳内で増幅されていくのであろう。私の場合は、尼崎に19年、仙台に9年、鹿児島に8年いて、弘前に29年となる。期間でいえば、弘前が一番長いし、弘前のことを書いた本も数冊出版したが、故郷ということはない。おそらく死ぬまで住んでもそうした感覚にはなれないであろう。

 

故郷というのは、風景単独のものではなく、母親、父親、親類、あるいは友人とどこかにこんなものを食べに行った、映画館に行ったとかの情景とコンビになったものであり、それはフィルムとして風景とともの頭のどこかの片隅に残っている。ただ実際の風景とはかなり歪曲したものかもしれない。それでも、こうした古い脳内の記憶を思い起こせるのは嬉しいことで、本作でも紹介されている“うちわ餅”なども懐かしいものなのだろう。こうした記憶に残る場所、あるいは味、景色が故郷にはなくてはいけない。

 

今の人には全くわからない話。尼崎の三和ミュージックというストリッパー劇場があった。その前は、旅回りの劇団の芝居小屋であった。子供の頃、ここの前を通ると立ちんぼの女性もいて怖いところであったが、それでも三和商店街からこの前に道を真っ直ぐ、天崎道場に行く道が一番近い道だったので、よく通った。小学校6年生頃から、この道沿いにはラブホテルが乱立していったが、結構、商売的にはいいのか、それから50年くらい経つが、いまだにラブホテルは存在する。こんな風景だが、私にとっては尼崎の故郷の記憶である。


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