2024年3月21日木曜日

成田與そ吉 アメリカに渡った成田家

 
成田すえ


江戸時代が終わり、明治になった時点での、弘前藩士を調べる最も役にたつ資料としては、まず弘前市立図書館が所蔵する津軽家文書の中の代数調あるいは由緒書、分限書などが役立つが、基本的には子孫の閲覧に限定される。さらにいうと名前については津軽家文書、岩見文庫、八木橋文庫目録などで調べることができるが、これは明治初期に戸主である人物が旧弘前藩に提出したもので、先祖の由緒などが記されている。戸籍などを調べてうまく先祖の名がこの目録の中に見つかれば、その旨を図書館の係に人に言えば、コンピュータで調べてくれる。ない場合は、珍しい名前、例えば釜萢という姓であれば、該当者が数名なので、片っ端から調べてもらうこともでいるが、工藤や成田という名であれば、該当者が多く、調べてもらうのは難しい。さらにいうと戸籍には、それほど古い人物のことは書いておらず、戸主が老人であると、戸籍に載っている最も古い幕末に生まれた人物でさえ、これらの書物の載っていないことも多い。

 

明治以降の戸籍は、まず明治5年の壬申戸籍があるが、これには身分が載っているために今は開示ができず、閲覧できるもので一番古いものは明治19年式戸籍、あるいは明治31年式戸籍である。明治5年式戸籍が閲覧できれば、幕末の弘前藩士についてはかなりわかるが、昭和43年に部落民かどうかを調査しようとする事件がおこり、その後は法務省に封印され閲覧禁止となっている。日本でも最もマル秘文書の一つで、ヤフオクに出品されているものすら国が回収している。ただすでに150年以上前にものであり、これを国家機密のように扱うのはどうかと思う。まれに私のところに先祖調査で問い合わせが来る中で、これまで集めた資料の中に壬申戸籍のコピーを見ることがある。

 

問い合わせをする多くの人にとって、一番古い戸籍が明治19年であり、ここの記載されている人物から、先に述べた代数調、由緒書に当たることは少なく、大抵はこの間にもう一人の先祖がいる。戸籍以外の資料として私が一番重宝するのは、弘藩明治一統士族卒族名員録で、内藤官八郎という人が明治初期に記載したもので、今では国立国会図書館デジタルコレクションでも見られる。ここには5646人の弘前藩の士族と卒族の名が記されている。士族は3813名、卒族1833名の名があるが、与えられた扶持米の多さにより大体、士族が卒族かがわかるようになっている(実際に卒族と書かれている場合も多い)。元治元年(1864)の調査によれば、弘前藩の総人口は25万人、そのうち25千人が士族、卒族とされ、武家の戸数としては3760戸とされているが、ここには卒族は入っていないように思える。この士族卒族名員録に記載されている5646名の数は代数調や由緒書に記載されている名に比べて圧倒的に多い。それ故、津軽家文書で見つからなくても、この士族卒属名員録に名を見つけることがある。

 

須藤かくのことを以前、調べて時、どうしても“Narita Yasokichi””Yosokichi”という人物のことがわからなかった。Naritaはもちろん成田で良いと思うし、津軽に多い名前である。問題はYasokichiの漢字名である。”弥三吉“、”八十吉“、”八十橘“、あるいはYosokichiと記載された文献もあるので、その場合は”与惣吉“、“与三吉”、“が考えられる。このうち代数調では”成田八十吉“の名が、明治二年弘前絵図には”成田八十橘“が、そして士族卒属名員録には”成田與そ吉“の名がある。名員録には別人として”成田與吉“もいるので、読みとしては”よそきち“で間違いない。Narita Yosokichinoには五人の子供、長女マヤ、長男コウイチ、次女レン、三女レン、四女スエがいる。妻はMayu あるいはMayaといい、アメリカに到着後、トラコーマと診断され、子供と離れて日本に送り返され、死去。またYosokichinoの父親の名は”Hijyoya"とされているが、これも漢字でどう書くか不明である(兵弥?)。全て弘前生まれとなっているので、弘前市内の小学校の卒業名簿を当たっているが今のところ該当者はいない。少なくとも親類はいると思うが。もし先祖に海外に移民したという成田姓の方がいればご連絡してほしい。

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