2025年7月25日金曜日

とにかく暑い

 


暑くて、日中外の出る気もおこらない。私がこちらにきた1994年頃、30年前はまだ弘前の夏も大したことはなく、盛夏でも312度で、朝夕は比較的涼しく、エアコンをつける日は夏季で7日くらいであった。弘前ネプタの終わるお盆過ぎになると窓を開けて眠れないほど涼しかった。当時は、エアコンのない家、車も結構あったが、今は各部屋にエアコンがある。温暖化の影響は間違いなくありそうである。

 

連日の暑さで、避暑のイメージの強い北海道でも40度を超えるところがニュースで報道され、エアコン普及率の低かった北海道でも近年はかなりエアコンを設置する家も増えたようだ。こちら青森県もそうだが、日本列島が沖縄のような夏冬の2シーズンしかない気候になってきており、弘前の場合でいうと12月から4月までは冬、春が4、5月の2ヶ月、そして夏が6月から9月、秋が1011月の2ヶ月で、冬が4ヶ月、夏が4ヶ月となる。

 

日本でもこんな暑さなのに、もっと暑い国だとエアコンなしでは生きていけないと思ったが、実際、世界のエアコン普及率を調べると、アメリカは90%以上と非常に高く、日本、韓国、台湾も同様に90%を超える。ところが東南アジアのタイやベトナムで30-50%、フィリッピンでは25%くらい、あの暑いインドはエアコン普及率が7%しかないという。貧困層が多いため、エアコンが購入できないためかもしれないが、欧米のエアコン普及率を調べると、イタリアは普及率が50%と高いものの、スペインでは30%、フランスでは25%、ドイツでは何と普及率は3%、イギリスも同様に5%未満とされている。私たちが考える以上のヨーロッパのエアコン普及率は低い。さらに世界でも最も暑いところ、アフリカのエアコン普及率は、エジブトは比較的高く35%程度だが、全体では3%前後とされている。世界のエアコン普及率をみると、日本を始め東アジアとアメリカ、オーストラリアなどで普及率が高いが、世界全体でみると、想像するよりは低い印象を受ける。日本以上の暑い、インドやアフリカの普及率の低さをみると、ある意味、エアコンは最高のぜいたくなのかもしれない。

 

私の家でエアコンを入れたのは、昭和40年ころで、診療所にアメリカGEのクーラーを入れた。これはすごく強力で、つけ始めると、寒暖差で風がでるところが白くなるほどであった。喫茶店などの外ガラスに「クーラーあります」の紙が貼っていた時代で、店や病院などでようやくクーラーが普及し始めた頃で、自宅にクーラーが入ったのはさらに遅く昭和45年くらいであった。もちろん今のように各部屋にあるわけでなく、リビングに一台あるきりであった。そのため受験期になるとクーラーの効いている図書館や公民館で勉強した。

 

人類の歴史をみていくと、寒さに対する戦いが主であり、暑さに対するものはなかった。寒さに対しては、服をきて、毛皮を着て、火を起こし、抱き合って寝た。ところが暑さに対してはせいぜい水浴びをするくらいで、風通しのよい、日が当たらない場所にいれば何とか我慢できたし、水さえあれば死ぬこともなかった。暑さで死ぬのは、作物がとれず、水がない場合だけで、何万年の間、人類は暑さを我慢してきた。アメリカでようやく家庭でエアコンが使われるようになったのは1950年ころからで、いまでは一箇所に冷蔵、暖房装置を設置して、冷風、温風をダクトで各部屋の運ぶセントラル空調が主流となっているが、日本では壁にかけるウィンドー型が主力である。ただ中国はじめ世界的には日本式のダクトレス式に人気があり、世界シェアでいうとダイキンは一位、三菱電機が5位と検討している。エアコンは耐久性と省エネが重要であり、今後、世界の気候が熱くなると、性能のよい日本製エアコンは世界中でますます売れるだろう。s


2025年7月23日水曜日

インビザラインでは口元の突出感を解消するのは難しい





以前のブログで「不動産Gメン滝島」を取り上げたが、この中で、以前、大手ワンルームマンション販売会社に勤務していた人がゲスト出演し、その闇について話していた。その中で、騙されてワンルームマンションを買わされた被害者の多くが、その加害者、営業担当者のことをいい人だったという。この不思議な現象について、元ワンルームマンション営業マンは、現役時代まったく悪いことをしていない、むしろお客様の利益になっていると信じているからだ。毎日、朝から晩までひたすら電話勧誘し、月に15件くらいのアポを取り、2、3ヶ月に一人、投資向けのマンションを買わせると年間10001500万円の収入になるので、詐欺をしているという感覚は一切ないと思っており、自信を持って客に勧めていた。

 

この構図は、なんだか、矯正分野におけるインビザラインの勧誘に似ている。一般歯科の先生、特に若い先生はインビザラインによる治療を診療項目の中に入れている。ところが矯正歯科専門医から見ると成人の不正咬合患者のうち歯を抜かなくても良い症例は全症例の10-20%で、他の80-90%は小臼歯抜歯や外科矯正などを必要とする。インビザラインでも抜歯症例も治療できるが、これは一部の先生ができることで、一般歯科の先生で、成人の抜歯症例をインビザラインで治療できる人はほとんどいない。つまりインビザラインによる治療は80-90%失敗することを意味する。

 

内科でも外科でも、あるいは眼科、耳鼻科、あらゆる医療において、80-90%が失敗する治療法を患者に勧めるのは犯罪であり、さらに高額な治療費を要求するのは詐欺である。日本臨床矯正歯科医会では、患者さんからのクレームを受け付けているが、近年ますます相談件数が増え、なおかつインビザランによるクレームが多い。多くの場合は治療が終わらない、あるいは思った結果が得られないなどで、通常のワイヤー矯正であれば解決する問題である。

 

それではインビザラインをしている先生は、自分が犯罪、詐欺を働いていると思っているかというと、最初に述べたワンルームマンションの営業マンと同じなのである。治療をしている先生は、全くひどい治療をしているとは思っていないからである。例えは難しいが、体操初心者が鉄棒で大車輪を成功すれば、大したものだと言われるし、自分でもすごいと思うが、これが全日本体操大会に出場となると、話にならないレベルである。開業医の先生がインビザラインで成功したという症例を日本矯正歯科学会の専門医試験に提出してください。多分、専門医の審査官からボロクソに言われ、しまいには即刻矯正歯科医を辞めなさいと言われるであろう。

 

結局は、どこをゴールにするかが決定的に違うのである。体操の鉄棒で、大回転をできるのをゴールにするのと、オリンピックのJ難度をゴールにするのとは違う。患者からすれば矯正歯科専門医で治療するのも一般歯科医で治療するのも同じと思うかもしれない。4軒の歯科医院、3軒の矯正専門医は抜歯しないと治療できないと言われたが、1軒の一般歯科医では歯を抜かない、インビザラインで治療できると言われれば、そちらで治療をするだろう。ところが3軒の矯正歯科専門医と一般歯科医のゴールは全然違うのである。一般歯科医はとにかく並べることをゴールにしており、口元の突出感やかみ合わせは気にしていない。歯科治療は医療であり、審美は対象にしていないと言う。口元の突出感のために健康な歯を抜くのはとんでもないと思っている。矯正歯科医は、修練期間を通じて、綺麗な歯並び、美しい口元、緊密な咬合を言われ続けるので、常のこの3つを中心に治療を考える。一方、一般歯科の先生は、患者の主訴がでこぼこだとすると、これの改善、綺麗な歯並びにすれば主訴は治った理解する。主訴が治ったのになぜ文句を言うのかと言うことである。

 

古い論文でタイトルは忘れたが、いろんな横顔のシルエット、鼻と顎の位置はそのままで、口元を入れた場合から口元が出た場合の数種類の白人、黒人、アジア人のシルエットを、一般男女、一般歯科医、矯正歯科医に見せて、どの横顔が一番綺麗かと調査をした。結果は、一般人、矯正歯科医はほぼ同じ、口元が少し中に入った横顔を選んだが、一般歯科医は少し口元が出ている横顔を選んだ。特に黒人、アジア人の場合はかなり口元が入った横顔を選んだ。

 

美の基準は地域や時代によって違うが、どうも白人顔が好かれるようで、鼻が高く、顎が少し出て結果的に口元が中に入っている顔が好まれる。そのため黒人、アジア人で矯正治療を始める患者さんの多くは、口元を入れて白人の顔に近づけたと思う。中国、韓国、べトナム、台湾では抜歯して口元を入れる矯正治療を行う。欧米に比べてアジアではインビザラインの普及は遅い。特に日本人では、でこぼこと口元の突出が同時にある場合が多く、非抜歯、インビザラインの適用は少ない、歯科経営コンサルタントが言うほどインビザラインの患者はいない。ところが一般歯科医では、口元を入れるという考えがそもそもないので、ディスキングをしてでこぼこが取れれば、多少、口元が出ても成功と考える。患者が、口元が出ていると言っても、そんなことない、気にしない、気にしないと相手にされない。そのまま患者は納得しないまま、矯正歯科医院を相談に行くと、これは上下顎前突で、治すのは小臼歯の抜歯とワイヤー矯正による約2年間が必要だと言われる。さらにここで非抜歯、インビザラインでは治らないと言われて、初めて最初の治療は間違いだったとわかる。以前、You-Tubeで患者の矯正日記というものが放送されていた。インビザライン、非抜歯での治療で、口元は全く変化していない。コメントでセファロの分析値を見せてもらい、上顎切歯とFH平面の角度が何度か教えてもらいなさいとコメントした。110度よりかなり大きければ、抜歯と再治療が必要だ。これは歯科国家試験でも出る内容のもので、もし主治医がこれを知らなければ、大学生の授業を持っていれば私はその学生を落とす。その後、この矯正日記は更新されていないが、多分、主治医はこうした単純なセファロ分析もしていないし、わかっていないのであろう。少なくとも矯正の単位を与えてはいけない学生であり、出身大学の矯正科の教授は反省すべきであろう。



 

2025年7月17日木曜日

弘前高校ねぷた、弘前大学附属学校


 

弘前高校の70年以上続く伝統のねぷた、弘高ねぷたが723日から始まる。ねぷた運行当日は、道路の交通規制、路線バスも迂回運行となる。市民にもある程度の負担をかけた行事である。そのため学校サイドでも道路を封鎖してまでやる意義のある行事かという自問が繰り返されている。当然である。さらにいうと、こんなことは弘前高校以外の高校、たとえば弘前中央高校はどうだ、青森高校ではどうだ、あるいは全国でも交通規制を行ってまでやる高校行事はあるのかという疑問も生まれよう。ちなみにGoogleで“高校行事 道路規制”で調べると真っ先に弘高ねぷたが検索され、他はほとんど検索されず、わずかに福島県立原町高校の仮装行列が近所を回ったくらいであった。これほど大掛かり、路線バスの迂回運行までさせる学校行事は全国でも珍しいのではなかろうか。もし他の高校でもねぷたをやりたい、市内を運行したいという申し出があれば、警察、市、あるいはバス会社は同意するかという点である。もちろん公平性の観点からは、同意しなくてはいけない。さらに津軽警備保障のホームページによると、この会社が弘高ねぷたの運行に伴う雑踏警備を行っているようで、2023年では51名の警備員を動員したという。警備費を調べると、平日の夜で一日、19000-23000円が相場という。それほど長い運行時間でないので、これほどはかからないとしても一人1万円としても51万円はいるだろう。さらにねぷた製作費は学校側からの製作費の支給はあるが、これらの費用がどこから出ているか、調べられなかった。18台のねぷたが出陣し、一クラスに3万円ずつ補助するとして54万円、総額で100万円をこえる予算となろう。体育祭、文化祭など学校行事はいろいろあるし、部活費用は、大きな意味では教育費として扱われるし、ねぷたの製作、運行は郷土文化を知る教育としては大変意味深い。小学校、中学校、高校でこうした郷土の伝統行事、文化を知る、体験するのは非常に重要であり、意義深い。問題はなぜ弘前高校だけなのかという点である。全国でも高校の行事で、道路規制、バス運行まで変わるほどの行事がいまだにしているかということである。さらにいうなら、生徒の中、ここは優秀な生徒が揃っているが、それに疑問を感じる生徒はいないのかという点である。一つの公立高校の生徒行事に、公費を使って(全ての経費がOBの寄付あるいは生徒負担で運営されているならごめんなさい)、道路規制をして、バスの迂回運行をさせて、するほどの公共性があるのか、令和6年の学校評価では、“豊かな人間性と社会性の育成”で弘高ねぷたは評価“A”となっている。学校周辺ならいざ知らず、わざわざ弘前市の中心街まで来て、堂々と運行する、ある意味、このエリート意識は、他校の生徒からすれば、鼻持ちならない行動と気づかないのかと、これが豊かな人間性の育成なのか、と兵庫県出身のよそ者は感じてしまう。

 

弘前市は、弘前高校出身者が力をもつ町である。私が知る限り、一つに高校のOB がこれほど幅を利かせているところは少ない。仙台の仙台一高、二高、郡山の安積高校、熊本市の済済黌高等学校、大津市の膳所高校も昔はそうであったが、今はそうでもない。県内の他の高校、青森高校あるいは五所川原高校、八戸高校を見ても、弘前高校出身というほど、ある種のステイタスは少ないように思える。とにかく弘前に住んで、30年になるが、弘前市における弘前高校の扱いがどうも他とは違うのである。

 

一番大きな理由は、長い間、男子がいく公立普通学校が弘前高校しなかったことである。弘前南高校が1963年にできるまで、弘前市内の高校は、弘前実業高校、弘前工業高校、私立は東奥義塾高校(男子校)、聖愛高校(女子校)、弘前東高校(高等電波学校)、柴田女子高校しかなかった。昔は、実業高校、工業高校、あるいは私立高校から大学に進学する生徒は少なく、勢い大学進学者が弘前高校に集中する。そのため、弘前市の市長、公務員、先生、新聞社、マスコミ、会社などは弘前高校出身者が多くなる。これが弘前高校のステイタスがいまだに強い理由であろう。

 

ついでに言うと、個人的に一番、腹が立つのは、弘前大学附属学校の存在である。今や弘前高校の受験予備校化し、弘前高校附属中学校となり、弘前高校に入れさせるために附属幼稚園、小学校、中学校となっている。そもそも欧米では大学の附属学校というものはほとんど存在おらず、まして進学高校の予備校化しているのであればさらに必要性は少ない。私自身は、もし附属学校というものが必要とすれば、医学部と附属病院の関係であり、医者を育てる機関であるとともに開業医が治せない患者の治療を行う高次医療機関である。それなら弘前大学教育学部の附属学校であれば、一般学校で手を焼く、問題のある生徒を積極的に受け入れる機関であるべきである。教授だって、偉そうに不登校児童の論文を書くくらいなら、不登校児童の実際の教育をすべきである。弘前高校を受験しようとする生徒は手間のかからない子供が多く、確かに教育学部の実習生にはいいのかもしれないが、むしろもっと教育がしにくい生徒を見るべきである。今、教育学部で緊急に課題は不登校児の取り扱いである。各地にフリースクールができて一見すると受け皿は増えているが、不登校児の数は増加しており、これは将来的には国の納税者が減ることにつながる。昔、肺結核は恐ろしい病気であった。そして医学部病院を中心に取り組み、肺結核により死亡者はほぼなくなった。ならば、附属学校は不登校時の問題を解決する最前線であるべきで、頭のいい子を弘前高校に入れて喜んでいる場合ではない。これほど少子化が進んでくると、国立の附属幼稚園、小学校、中学校の廃止あるいはコミュニティースクールへの転換も考慮すべきであろう。

2025年7月14日月曜日

サッカーで食っていけるか

 



最近のサッカー日本代表はひと昔に比べて圧倒的に強くなっており、ひょっとしたらW杯の目標、ベスト8に入るのも可能と思わせるほどである。選手のほとんどが海外の、それも有名クラブに所属して活躍している。三笘、久保のような海外のビッグクラブからも注目されるような選手が複数いて本当に楽しみである。ひとえにサッカー人口の増加と裾野の広がりのよるものだろう。

 

ところがスポーツ人口そのものは、少子化に伴い減少しており、サッカー以外のスポーツ、例えば野球では、もはや各小学校、中学校にあった野球部が9名集めることができず、何校か集まって合同チームを作るという有様である。一方、サッカーについては、小学生から地域のスポーツ団でサッカーを始め、優秀な子はJリーグの下部組織の入団を狙う。これに入れない場合は、地域でサッカーが強い中学校に越境入学する。さらに高校生になると、県下でも強豪校に入ろうと頑張る。ただ青森県の場合は青森山田高校が圧倒的に強いために、青森の子供達はほとんど全国大会に出場する機会は少ない。

 

そしてJリーグの選手の半分は下部組織出身者で、残りが全国高校大会で注目される選手からスカウトされる。最近では大学出身の選手も多くはなっているが、それでもまずJリーグの下部組織や大学からスカウトがなければ、プロは無理ということになる。ただ野球と違い、Jリーグは1、2、3の3つのリーグがあり、J1192名、J2335名、J3334名の58チーム、計1833名が一応、プロである。野球の2倍の選手数であるが、J3くらいになると収入は300万円程度である。さらにJ3の下のなるとJFL(日本フットボールリーグ)16チームで320人くらい、さらに地域リーグ、都道府県リーグがある。地域リーグは北海道、東北など9ブロックで、さらに都道府県リーグがあり、全部で130チームが参加している。1チームが20名の選手がいるとしても2600名、これらのチームは競争して、上位リーグに昇進する可能性がある。以上が本格的にサッカーをしている選手でおよそ5000人となる。他のスポーツに比べて桁違いに多い人数である。

 

私がサッカーをしていたのは50年以上前だが、その頃はプロサッカーがなく、あくまでアマチュアの競技であった。アマチュア競技の極みが実業団で、普通は高校卒業で部活動は終了となる。私がいた頃は六甲高校も兵庫県ではサッカー強豪校で、高校総体の兵庫県代表、近畿大会も優勝した。それでも練習は週に3回、学校の方針でスポーツより勉強を優先させた。近畿大会の優勝メンバー、私の学年7名の卒業後の進路を見ても、東京大学が1名、京都大学が1名、大阪大学が1名、神戸大学が2名、早稲田大政経が1名、東北大が1名であった。またゴールキーパー仲間の一級上の先輩は神戸大学医学部、一級下の後輩は京都大学工学部建築学科と偏差値の高い大学に現役で合格している。早稲田大政経学部に進学した同級生は、元、日本代表監督、岡田武史さんと同じサッカー同好会で親しかったという。岡田さんは大阪選抜、ユース代表となり、アジアユースにも出場したが、早稲田大に一浪して一般入試で合格した。もう本格的にサッカーはしない、同好会くらいで楽しむと言っていたという。友人も同様だったが、結局、岡田さんはユース代表にも選ばれたため、日本サッカー協会から本部のサッカー部に行けと命じられ、今に至る。さすがにユース代表くらいになるとサッカーから逃げられないが、県の選抜くらいであれば、高校でサッカーは卒業となる。東北大学歯学部のサッカー同好会でも、国体県代表が5名いた。サッカーでは食っていけないとリアルな考えによる。

 

今年の近畿大会に優勝した京都橘高校サッカー部のメンバーの進学先を調べると、J1の選手になる生徒はいないが、ほとんどは大学に入ってもサッカーをやるようで、京都橘大学、京都産業大学などの大学サッカーで進学している。そして彼らは大学卒業後も地域リーグと、サッカー生活は続く。なまじサッカーの裾野が広くて下部リーグもあるため、諦められず、ずるずるとサッカーに引きずられことになる。本人、家族、コーチのこうしたサッカーの蟻地獄生活をよく知るべきで、残酷な言い方であるが、サッカー日本代表のU-12U-15U-18など年齢別のカテゴリーに選ばれなかった時点で、J1のプロサッカー選手は諦めるべきであろう。さらに京都橘高校のような強豪高校の部員でもプロになる選手は少なく、それでもレギュラー選手のほとんどは中学校時代にはJ1チームの下部チームに属している。つまり強豪高校のレギュラーにもなれない、あるいはその前の段階、J1下部組織の試験に落ちた時点で、すでにプロのサッカー選手は無理である。

 

結論を言うと、サッカーが好きでやる分には全く問題ないが、サッカーをやるのはせいぜい中学生までで、子供にはこの段階で目が出ないのであればサッカーで食っていくのは難しく、もし高校生になってもサッカーを続けるなら文武両道で勉強も頑張るように説得すべきであろう。東大に入学するよりサッカーのプロになる方がよほど難しいが、普通の成績の中学生が“東大に入りたい”といえば親は笑うが、“プロのサッカー選手になりたい”といえば、親は本気になり遠く離れた強豪高校に入れたりする。親も子も現実を知るべきであろう。他のスポーツはそう考えるのだが。東大、京大、早稲田などの難関大学の入学者数はほぼ10万人、対してサッカーJ1,2,3に毎年入る選手は150名、1:600の比率で、どちらが簡単かははっきりしている。

2025年7月11日金曜日

一番いい時代は?

 



私が生まれたのは昭和31年(1956年)で、今は令和7年(2025年)だから、このほぼ七十年の間で一番いい時代と言われると、おそらく1975 年くらいから1985年くらいの10年間だと思う

 

子供の頃は、まだまだ戦争の影響を引きずっており、阪神梅田駅にも傷痍軍人が座っていた時代で、自家用車もほとんどなく、スーパーやコンビニもなかった。既製服もなく、服を作ろうとすると仕立て屋に注文した時代で、服も靴もよほど高価なもので、親父は歯医者をしていて、決して貧乏ではなかったが、それでも革靴や2足、スーツも2つしかなかった。子供は年がら年中同じ服を着ていたし、家に風呂がなかったので近所の銭湯に行った。夏場は2日に一回くらいだが、冬場は3、4日に一回くらいのものであった。決して日本も裕福な国ではなく、欧米諸国に比べてとむしろ貧乏な国であった。

 

日本が豊かな国と実感したのは、昭和55年(1970)の大阪万博で、当時の雰囲気は山田洋次郎監督の「家族」という映画によく表されている。日本中がいわばお登り状況で、沸き立っていた。私など初めてここで外国人を見て、今考えるとアホで、サインをもらったりした。さぞかしびっくりしたことであろう。景気もこの頃から良くなり、周囲にも大学生が多くなり、グループサウンドやフォークをする若者も少しずつ増え、また長髪の若者も多くなった。ただ1970年の初めはまだ一部の若者で、学生帽を被った大学生がまだいた。中学三年生の時に初めて東京に行き、新宿にフーテンと呼ばれる若者集団を見て、さすがに東京都だとえらく感激した。

 

月刊ポパイが創刊されたのが1976年、そこにはアメリカ西海岸の空気が満載され、夢中になった。この頃からジーンズに、Tシャツなど今につながる若者ファッションが定着し、ディスコもあり、音楽は1978年にはサザンオールスターズの勝手にシンドバット、ユーミンの飛行機雲が1973年。ユーミンは天才で、とりわけ70年代の曲は際立っている。

 

私が一浪して仙台の大学に来たのが1975年で、最高に楽しい時代であった。仕送りは他の学生より多くもらっていたので(10万円)、バイトもせずに、アパート代や食費を払ってもまだまだ遊べる金があった。映画も名画座であれば1000円くらい、学生向けの飲み屋やディスコも2000円くらいで楽しめた。また友人の家で飲めば、もっと安く酔えた。個人的には全くモテなかったが、東北大学歯学部は仙台の女子大には人気があり、かなり合コンをした。小遣いを貯めては、ポパイで紹介された靴や洋服を買い、仙台の一番町の喫茶店モーツアルトに行くのが何よりの楽しみであった。よく休日にはロードレーサタイプの自転車に乗り松島に行った。また軽音楽部の友人が多かったので、ロックからジャズ、ゴズペルなどいろんなジャンルを聞いたが、当時の日本のヒット曲はあまり知らない。インドと中国に行ったのもこの時代だった。結局、1983年まで仙台にいて、その後、1994年までは鹿児島にいた。もちろん鹿児島にいた時も楽しかったが、バブル崩壊後は、昔ほどの活気もなくなり、私自身も1984年に結婚し、子供もできたため、そんなに遊んでいるわけにもいかなくなった。

 

1975-1985年の10年間は、ちょうど私にとって大学および卒業後の独身時代に一致し、そのこともあってこの時代が一番いい時代と思っているのかもしれない。任天堂のファミコンが登場したのが1983年だが、これは子供向けで、私たちの世代は、2000年に登場したソニーのプレイステーションもあまり夢中になっていない。またインターネットが普及したのは1995年頃からで、今のようなスマホが登場したのが2007年なので、完全に別の時代のものだ。ただ感覚としてはゲーム、インターネットやスマホのなかった1970-1980年代の方が実感としてよほど面白かったのは私だけであろうか。シティーポップが世界的に流行っているというが、今の若者にもこの時代への憧れがあるのかもしれない。


2025年7月6日日曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について

 







来年度、NHKの朝ドラは日本の看護師の創始者の大関和と鈴木雅のダブルキャストの物語です。内容については現時点では不明ですが、大関和役には見上愛さんが鈴木雅さん役には上坂樹里さんがキャストに選ばれました。

 

原作は、田中ひかるさんの「明治のナイチンゲール 大関和物語」、脚本は吉澤智子さんということです。鈴木雅さんについては以前、私のブログでも取りあげましたが、今回、もう一度、検索して調べると、横浜フェリス卒業となっています。横浜フェリスは、明治3年、日本で最初にできた女子学校で、当初はフェリス・セミナリーと呼ばれ、明治22年から横浜フェリス和英学校となりました。ただ私が調べる限り鈴木雅さんは横浜共立女学校の最初の入学生であることは間違いなく、最近発刊された「横浜共立学園150年史」でも以下のようになっています。

 

鈴木雅(加藤まさ)

1857(安政四)年生まれ。1872(明治五)年ごろ入学、1876(明治九)年バラより受洗、1881(明治十四)年ごろ修了か、その後、陸軍中佐鈴木良光と結婚するが死別し、看護の知識があったらと痛感して1886(明治十九)年、桜井女学校の看護婦養成所の一期生として入所し、1888(明治二十一)年卒業。東京帝国大学医科大学付属病院の内科看護婦長となった。1891(明治二十四)年慈恵看護婦会を設立して派遣看護事業を始め、1896(明治二十九)年東京看護婦講習所を開き、後進の指導に努めた。1940(昭和十五)6月11日に逝去。83歳、

 

また横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められています。少し引用すると

 

 「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」

 

一期生には他に青森出身でペンシルベニア女子医学校行った西田圭(岡見京)がいます、文中の菱川お安とは、シカゴ女子医学校に進学した菱川安、お角さんはシンシナティー女子医大に進学した須藤かく、そして桜井おちかとは桜井ちかのことで桜井看護婦養成所の開設者です。また宣教医として明治18年に共立女学校に派遣されたアデリン・ケルシーは学校医として働く一方、医療伝道として校外の患者の治療にもあたり、その時の同行したのが須藤かくと阿部はなです。その後、この医療助手に正式な医療を学んでほしいと思い、自分の故郷のアメリカに連れて行き、シンシナティ女子医学校に入れます。

 

鈴木雅は同級生が開設した桜井女学校で、イギリス出身のナイチンゲール看護学校を卒業したアグネス・ビッチの通訳をしたことから看護婦養成所に入所して看護師となります。鈴木雅が入所したのは明治19年で、すでに桜井女学校は矢島楫子が校長になっていましたが、母校である共立女学校のケルシーとは面識があり、同級生の須藤かくから医療助手、看護師のことを聞いていたに違いないと思います。また岡見京がペンシルベニア女子医学校を卒業して帰国したのが明治22年(1889,菱川安がシカゴ女子医学校を卒業し、帰国したのが明治22(1889),須藤かくがシンシナティー女子医学校を卒業して帰国したのが、明治30年(1897)で、それぞれ看護師になった鈴木雅とは交流があったと思います。

 

NHKの朝ドラでは、もちろんフィクションで構成されますが、鈴木雅についてはフェリス卒業というのは間違いで、横浜共立女学校の修了が合っていると思います。それなら同級生のうち3人が海外留学して医者になったというすごい状況を考えると、鈴木雅が通訳、看護師への道が無理なく説明できると思います。できれば番組でも須藤かく、岡見京、菱川やす、ケルシーなどの登場してくれると嬉しいことです。








2025年7月3日木曜日

朝ドラ、あんぱんを見て

 

親父の写真 階級章から少尉時代


朝ドラのあんぱんでは、主人公の柳井が軍隊に入隊するが、毎日の上官からのしごきに先は思いやられると思っていたが、幹部候補生試験に合格して立場は変わった。戦争中、旧制の中学校卒業の若者は、上官の推薦があれば、幹部候補生試験を受けることができる。試験は甲と乙の2種類があり、甲の試験に通ると士官学校に入学して、将校となる。乙の試験合格者は下士官になるため、主人公の柳井も軍曹の階級となる。この昇進スピードが速い。

 

うちの父親の場合、東京歯科専門学校(現:東京歯科大学)を卒業し、昭和1721日に入隊する。41日に幹部候補生試験を受け、一等兵に、そして420日に上等兵に進み、同日、甲種幹部候補生に、その後、豊橋の陸軍教導学校に進み、61日は伍長、91日に軍曹になり、1017日に曹長、見習い士官となる。その後、1027日に少尉となり、満州の輸送、測量部に所属した。昭和18年の1130日に現役満期となり、121日に予備役となるが、同日に招集されて関東軍の測量部に所属する。そのまま勤務して、終戦後に、新京の収容所に入り、昭和2012月にモスクワ南部のマルシャンスク収容所に入る。少尉から中尉になるのは通常2、3年かかるので、もう少しすれば中尉になったであろう。結局はポツダム昇進で、軍人年金などでは中尉扱いとなっている。収容所から日本に着いたのが昭和236月で、収容所は戦地扱いになるため、軍隊生活は昭和172月から昭和236月の6年4ヶ月なので、軍人恩給は結構多かった。

 

ただ日本では長男の存在は特別で、長男が戦死すると一家が消滅するため、激戦地には次男、三男などから配属された。親父の場合も長男ということで、輸送部隊、測量部隊と全く実際の戦闘に加わらない部隊にいた。徳島から招集された兵士の多くは、中国大陸から南方戦線に転出されたが、親父だけは中国に残った。こうした配慮は旧軍でも確かにあった。

 

戦争というのは残酷で、家族構成が時代に合ってしまうと、多くの犠牲者を出す。昭和10年くらいから20から40歳の世代が戦争に駆り出された。明治40年から大正10年、もう少し幅をとって昭和元年生まれくらいまでが参戦した世代である。親が明治10年から20年生まれの家では、5人の男の子がいれば、全て戦争で戦死したということが起こり得るし、少なくとも子供の一人くらいが戦死したであろう。一方、家内の父親の場合、7人兄弟で、男が4人、女が3人だが、一番上が昭和5年生まれなので、兄弟誰一人として参戦していない。また祖父が明治38年より前の生まれであれば、招集は免れた。5年か10年の年齢差で男の子全て戦士という家もあるし、出征しなくても良い家もいた。

 

また戦地によって扱いはひどく違い。ロータリークラブにいた時、お世話になった方は、召集されてからずっとタイ、バンコクに勤務して、ナイトクラブに行ったり、映画をみたりと結構楽しかったと懐かしんでいた。戦後も早い時期に日本に輸送され、日本の食生活に驚いたとようだ。逆に知人のご主人は、東京大学工学部を卒業後、第36師団として学徒出陣でニューギニアに派遣された。ニューギニア戦線はひどく、戦闘と飢餓で全兵の80%が戦死した。南方戦線は兵の消耗がひどく、中国戦線の方がまだマシだが、戦後、親父のように最初に捕虜になった兵士は、モスクワ南方、ドイツ軍捕虜などの一緒の捕虜収容所だったので生活はそれほど厳しくなかった。一方、中国大陸で捕虜になった兵士の多くはシベリアの収容所に入れられ、厳しい寒さのために多くの日本人が亡くなった。また南方戦線でアメリカ軍の捕虜になった兵士は捕虜生活もそれほど大変でなく、捕虜になるのもソ連、アメリカで違うし、ソ連でもどこの捕虜収容所に行くかでも違った。

 

実際のやなせたかしさんは、戦争中、病気になったり、食糧がなく苦しんだが、暗号係で、実戦経験はなく、捕虜生活もしていない。同じ漫画家の水木しげるの戦争経験とは雲泥の差がある。


2025年7月2日水曜日

矯正治療が高いのは技術料

amazonで売っているブラケット、メタル製で1症例用
6.99ドル、約1000円、もちろんこれでも普通に治せる。技術とはそういうものである。



矯正治療費は高いというのは皆知っているが、なぜ高いということになるとよくわかっていない。歯科医院によっては金属のブラケットと白いブラケットで値段が違うことがあるが、私にいわせれば、差をつけるほど大きなちがいはない。例えば金属製のブラケットが一つ250円くらい、強化ブラスティックの白いブラケットが500円くらい、さらにセラミックのブラケットで1200円くらい、一番高いもので2500円くらいである。抜歯症例でいうと第一、第二大臼歯、第二小臼歯の計12本でメタルのチューブは一個500円×126千円、犬歯、切歯の12本を一番高いセラミックでも2500円×123万円となり、ブラケット代だけなら、せいぜい4万円以下である。さらにワイヤー代もピンキリだが、一般的によく使うステンレススチールのもので200円くらい、超弾性ワイヤーなど使っても2年間の治療期間で3万円以下となる。つまりマルチブラケット装置に材料費はどんなにがんばっても8万円以下、私の診療所でいうならブラケットとチューブで1症例が14200円、ワイヤーはよく交換する方だが、それでも2年間で30回交換したとしてもおおよそ15000円、他のゴムや結紮線、フックなどが5000円くらいで、34200円くらいとなる。もちろんこれ以外にも、人件費、テナント料、光熱費さまざまな費用はかかったが、これは保険診療でも同じである。

 

一方、私のところの基本治療費は40万円なので、40万円マイナス34200円が材料費を除くもうけとなる。また調整料の3000円のうち、ワイヤーや結紮線、ゴムの費用など600円くらいが材料費となり、残りがもうけとなる。材料費はうちの場合、基本治療費で8.6%、調整料で20%となる。もうけはそれぞれ91.4%80%となる。これが基本治療、80万円の場合、もうけは95.3%、調整料が5000円の場合、88%となる。

 

それではこの80-90%のもうけは何の値段かというと、多くは技術料といえる。もちろん銀座で開業すれば、テナント料、人件費、あるいは広告費もかなり高いが、処置としては技術料が大きいと考えて良い。手術を例にすればよくわかるが、ブラックジャックはそのすぐれた手術技術で高い手術料を請求している。日本は極めて特殊な国で、ブラックジャックに手術してもらっても新卒のペイペイに手術しても手術点数は同じであるが、本来技術料というのは、経験、知識、技術の差によって異なるものである。であるなら若手の先生で経験、知識、技術がなければ、ベテランの専門医で同じ技術料を取るのはおかしなことになるし、本来ならそういうことはありえない。若手の外科医がブラックジャックの料金をとっても誰も手術を受けないからである。

なのに患者はどうして一般歯科医で矯正治療を受けるのだろうか。不思議なことである。私自身、それほど器用な方ではないとしても、年間100-150症例、30年間では3000-4500症例、大学で治療したケースも含めれば、優に5000症例は治療した。ところが一般歯科医であれば、普通年間に多くて10症例、30年間で300症例、このうち、マルチブラケット装置での治療と2年間の保定という症例はもっと少なく、さすがに技術的な違いがあろう。ましてやインビザラインしかしない先生など論外であり、さしずめ外科治療もしたことないのに、内視鏡手術をいきなりするようなもので、危険この上もない。

 

矯正治療の値段は、ほとんど技術代ということを述べたが、それでは何をみて判断するかである。まず日本矯正歯科学会の認定医以上の資格を持つ先生のいる歯科医院がよい。さらにいうならその上の資格、臨床矯正指導医、あるいは昨今できた日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医の資格を持つ先生がさらによい。また先生の履歴をみて、大学病院矯正歯科、あるいは矯正歯科専門医に勤務したことはない先生はまずマルチブラケット装置による治療はできないとみた方がよい。最近は、暇なのでYouTubeをよくみるが、私がよく知っているあるいは学会でも有名な先生は誰一人でていない。まず認定医の資格すら持っていない先生がほとんどで、少し情けない気もする。美容外科のチャンネルも多いが、少なくとも彼らは正式な形成外科の医局で勉強した先生が多い。それに対してYouTubeで歯科矯正を発信している先生は、私からいわせればほとんど素人で、本当に恥ずかしい。優秀な矯正歯科医のところは、患者が多くて、YouTubeなどしている暇もないし、これ以上患者が来られるときちんとした治療ができないとそもそもホームページすら作っていない先生もいる。