2025年9月23日火曜日

昭和天皇物語2

 

昭和天皇と珍田の関係性からはこうした会話は十分にあり得る



昭和天皇物語(能城純一、志波秀宇監修、半藤一利原作、小学館)が面白い。調べている弘前出身の外交官、珍田捨巳がどのように描かれているかを見るために購入したが、読むうちにこれはとんでもない漫画と思うようになった。

 

ここ20年ほど、なぜ日本はアメリカと無謀な戦争を起こしたのかを興味を持ち、昭和史関係の本を随分と読んだ。もちろんのこの「昭和天皇物語」の原作、「昭和史」も読んでいるし、昭和天皇関係の本、例えば、松本健一著「畏るべき昭和天皇」を始め、保坂正康著、「昭和天皇」、ハーバート・ビックス、「昭和天皇」など、かなり多くの本を読んできたが、今一つ、ピンとこなかった。また戦前日本の元凶、日本陸軍についても保坂正康著、「日本陸軍の研究」、これは名著である、はじめ、これも多くの本を読んできたが、逆になぜ、なぜという疑問が起こる。

 

昭和天皇物語が初めてビックコミックで連載されているのを知り、よく漫画で天皇を扱う勇気があるなあと呆れた記憶がある。漫画の描写は本より遥かに直接的で、昭和天皇、あるいは日本軍について意見のある人は大勢いて、かなり慎重な描写が要求される。急進的な右翼からの攻撃も予想されるし、逆に左翼からは内容の甘さを指摘されかねない。さらにいうなら、多くの資料があるだけに、間違いを指摘されることが半端ではない。あまり題材にしたくない対象の1人である。

 

結論からいうと、昭和天皇の生涯をこれほど詳細に、丁寧に描いたものはなく、多くの本を読むより、この漫画を読む方がよほど昭和史を理解しやすい。個人的に特に感心し、納得したのは、日本陸軍軍人が天皇をどう思っていたかという点である。下は少尉、中尉から上は大将まで、ほとんど昭和天皇を軽視、もっと酷い言い方をすると「若造」、「臆病者」、「引っ込んでいろ」と考えていたことである。天皇陛下というと直立して姿勢を正す軍人の姿はよく映画で目にするが、実際は日本が国民に課していた不敬という言葉そのままのことを彼ら軍人はしていた。

 

一例を挙げると、昭和八年、日中戦争を恐れた昭和天皇が、熱河作戦の中止を、40分にわたり侍従武官長の奈良武次大将に進言するが、全く相手にせず、さらに足りずに手紙でも進言するがこれも無視し、その挙句、天皇の命令で熱河作戦が中止されれば、陸軍は黙っていませんよ、あんたは殺されますよと脅すような内容のことを発言している。また二二六事件の主導者、多くは少尉、中尉クラスであるが、彼らの思想の中には、天皇の親政を行う、その場合は、臆病者の昭和天皇より、クーデターをおこしてでも積極派の秩父宮を天皇に担ごうという恐ろしい計画があった。

 

今の感覚で言うと、筑波大学に行っている悠仁親王が即位して、天皇になったようなもので、年配の軍人からすれば、若造という感覚が常にあったのだろう。それでも明治の軍人、例えば、乃木、児玉、大山、山縣などは全て士族で、藩主を中心とした長州藩、薩摩藩で育っており、年齢に関わらず、藩主には絶対服従という思想を確固として持っていた。討幕運動では天皇を玉として扱ったにしろ、乃木、大山、山縣ですら、明治天皇を脅すような言動は一切なかった。それが昭和になると奈良という大将ではあるが、大山や山形とは比較にならない凡庸な軍人から脅される時代になった。天皇という絶対的な存在がほぼない無政府状態で、誰にも軍部の独走を止めることができず、結果的に何をやっても許されるという状況が日本の敗北まで続いた。それでは昭和天皇が、ドイツ帝国カイザーのような親政をしていたなら、日中戦争、太平洋戦争は避けられたかというと、日本陸軍軍人の言動を考えれば、お飾りに追いやったのは確実で、やはり戦争に突入したと思う。

 

昭和天皇物語は、もちろんこうした評伝では、お決まりの昭和天皇、いい人という観点から描かれているが、それにしてもかなり史実を細かく研究しており、昭和を天皇の立場から見つめるという点では、下手な歴史学者の本よりはよほど面白く、勉強になる。私もそうだったが、たかが漫画という偏見は捨てなくてはいけない。ネットフリックでドラマ化してほしい物語である。

 

それでは、日本陸軍の暴走をどうして抑えられるか。大正天皇が有能で長生きしたなら、あるいは大元帥の力を誇示できたら、多少、陸軍は抑えられたか。これも難しそうで、日露戦争に負けて、今の自衛隊のようなシビリアンコントロール下にならないと無理なのかもしれない。軍人にとって命令は絶対的なもので、これを平気で破るような軍隊はありえないが、旧軍は最高統率者、天皇の命令を平気で破っている。明治11年の近衛兵による武装反乱、竹橋事件では、55名が即日処刑、関係者の多くは厳しい処分を受けた。少なくとも五一五事件、二二六事件は重臣殺害というもっと大きな事件であり、本来、竹橋事件に倣うなら、事件当事者、関係者ももっと大きな処分を受けるべきであった。さらに好きな軍人ではあるが石原莞爾や板垣征四郎も独断で満州事変を起こした罪は処刑に値する。これも以後に模倣者を多くだした要因である。軍人に対する処罰が曖昧になった時代でもある。

2025年9月21日日曜日

大学病院の教授

 



大学教授というと、世間からは名前は知っていてもそれほど実態は知らない存在だと思う。とりわけ医学部、あるいは歯学部の教授は、それ以外の理学部、工学部、文学部などの教授とは全く違っている。高校の同級生にも、多くの大学教授がいるが、友人の理学部教授Nくんについて言えば、教室は確か教授1名、助手2名、そして大学院生が5名くらい、留学生が2名くらいであった。ゆるい上下関係はあったが、年齢差からくるくらいのもので、助手以上になると同じ研究者という関係であった。それに比べて、医学部、歯学部では、教授とぺいぺいの助手では立場が全く異なり、ほぼほぼ絶対服従の関係であった。基本的には教授に楯突くことはない。

 

私が直接、働いたことのある、研究指導してもらった教授は、小児歯科1名、生化学1名、矯正歯科1名、口腔外科2名であるが、同級生や後輩、友人も含めると、20名以上の教授についてはよく知っている。ほとんどは歯学部の教授である。

 

医学部、歯学部の教授の仕事というと、研究、臨床、教育と言われているが、それ以外の重要な仕事は管理能力、つまり研究費をとり、学会などで重要なポジションをとる能力も求められる。これら4つを完璧にこなす教授はおらず、2つあれば合格、3つあれば優れた教授といえよう。

 

ある教授は、臨床はあまりできなかったが、研究、管理能力が優れており、研究費を取ってくるのがうまかった。研究費が多いと研究成果も上がり、結果的には学会でも有名となってくる。大学の研究費は、科研費という国からに研究費で賄われるが、この仕組みを十分に知り尽くし、まず金になる研究テーマを選び、提出書類を徹底的に直す。さらに年度末になると、必ず文科省から余った予算を使い切らないといけないので、緊急の予算がつく。それに合して、大中小の予算の研究書類も即日出せるように準備していた。あるいは一般企業とのコラボ研究も盛んで、そこからも予算を取ってきたり、積極的に海外留学生を受け入れていた。最終的には学会の会長になったし、日本学術会議第7部の幹事もしていた。別の教授は、医学部の口腔外科というマイナー科でありながら副病院長になったり、各種の全国的な委員会に理事になったりした。こうした管理能力が上手であった。

 

一方、教育に長けた教授は、門下生の多くを教授にした。例えば、東北大学医学部の赤崎兼義教授は、病理学の大家で、多くの門下生が全国の医学部教授となって散らばっていた。私が鹿児島大学にいたときも、たまたま来られた東北大学歯学部口腔外科の教授が一緒に来いと、鹿児島大学の医学部に表敬訪問した。ここでも2名の教え子がいて、全国では相当いると言っていた。昔は、外科の先生は病理で学位をとる先生が多く、赤崎先生のもとで研究したのであろう。大阪大学の矯正科の作田先生も、その門下生の多くが全国の歯科大学の教授となった。人脈だけでなく、臨床、研究などバランスよく教えるのが上手な先生だったのだろう。また東京医科歯科の三浦教授などは、全国に国立大学の矯正学講座ができたときに大量の教授を送り出した。

 

最近では、教授選挙が、特に臨床教授については、教育、臨床、研究、管理のうち、臨床と管理能力を求められることが多く、あまり研究を重視されなくなった。昔は基礎研究だけして臨床は全くできない教授も多くいたが、今や大学病院も独立採算制となり、患者をたくさん呼べる先生を教授にしたい。アメリカでは、完全に基礎と臨床教授が別れていて、日本もそうした方向で進んでいる。一般病院から大学教授になるケースもあり、臨床重視の流れは主流になろう。そうした意味では、医学部、歯学部の大学院大学は、基礎で博士号を取らすという制度で、時間の無駄であり、全く意味を持たない。

 

昔であれば、医学部の外科教授になれば、薬のプロパーが出張費や飲食費を払ったり、果ては講演会を開いて多額の講演代を払ったり、患者からの謝礼、薬の治験など、税金のかからない副収入があったが、今はほとんどなくなった。国立大学の医学部教授と言っても収入はそれほど多くない。一方、アメリカでは、有名な医師になると比例して治療費が高くなり、医師本人の収入も多くなる。昔に比べて、お金の面での旨みはなくなり、下の医局員からの突き上げや、患者からのクレームなど、教授となっても苦労が多い。優秀な臨床医は、教授にならないで、開業するかもしれない。


2025年9月18日木曜日

大学病院の医局というところは(歯学部の場合)

 


テレビドラマで、大学病院の医局というと上下関係の酷い、権力構造の縮図のような描かれ方をしている。典型的な例でいうと、その頂上に教授が君臨し、その下には助教授、講師、そして助手とピラミッド構造で、教授の言うことは何でも聞く、「白い巨塔」のような世界を思い浮かべるに違いない。私が東北大学歯学部にいた頃、「白い巨塔」は東北大学医学部附属病院のことだという噂を聞いたし、実際、医局も第一外科という名称ではなく、財前外科という風に教授名を講座名に冠した。また教授と便所で一緒になると、「あれ、君はうちの医局だっけ」、「はいそうです」、「そういえば、―――村の診療所から医師を送ってくれと催促されている。君行ってもらえるかね」というような話を聞いたことがある。また教授回診と称して、教授、助教授、講師に若い先生がゾロゾロと続いて、患者を診る儀式もあった。こうした構造は医局員の多い講座では今でもそうかもしれないが、少なくとも歯学部病院では、多くても医局員は30名くらいで、もっとファミリーな感じとなる。

 

先日も、鹿児島と東京から後輩が弘前に遊びにきた。2年、4年後輩である。私がいた鹿児島大学歯学部歯科矯正学講座は、全員でだいたい20名くらい、教授1名、助教授1名、講師1名、助手が6名、大学院生が4名、医員が6名くらいであった。当時はまだたたき上げの助手がいた時代で、その後、国立大学の大学院大学構想により大学院生でなければ医局に入局できなくなった。私の場合は、かなり特殊で、東北大学歯学部小児歯科に三年いてから、助手として鹿児島大学歯学部歯科矯正学講座に入局した。同期は3名で、矯正の新人教育を受ける一方、すぐに歯学部六年生の実習の担当教官となった。三年医局にいて、宮崎医科大学の歯科口腔外科学講座に出向することになり、そこで口蓋裂と外科矯正患者を担当した。ほとんどの手術の助手としてオペ室に入った。その後、鹿児島大学に戻ってからはやめるまでは外来長として勤務した。

 

大学の医局というところは、部活にも似ているが、そうかといってそれほど上下関係は厳しくなく、あえて言えば、戦友会に近いのかもしれない。教授といってもそれほど距離はなく、結婚する場合は、ほぼ全員、教授が仲人となったので、子供ができると挨拶にいったりする仲であった。上司の鹿児島大学の伊藤教授とは、スキューバーダイビングしたり、ヨットに乗ったり、野球をしたりした。講師や助手くらいになると年齢も近いので、しょっちゅう飲みにいったり、ドライブにいったり、独身であれば、合コンに一緒にいったりした。感覚として一応は先輩であり、指導教官ではあるが、距離は近く、敬意を払いつつも、友達感覚だった。

 

朝から晩までいる点では会社組織にも似ているが、会社のような利益追求ではなく、唯一の目標が患者の病気を治すことである。教授から医員まで、大学病院のメインの目的が患者の病気の治療に尽きるので、その点ではチームとしてのまとまりがある。特に矯正歯科学講座は、専門開業する人も多く、開業後も学会のたびに同門会が開催されたり、患者紹介、治療、経営の相談など、かなり頻回にやり取りがある。高校の友達といえば、ほぼ同級生に限定されるが、医局は上下5年くらいまでは非常に仲良く、仕事も同じであることから、部活メンバーより幅広い。また矯正歯科の場合は、医局により治療システムが違うため、有名な例では、アメリカのイリノイ大学矯正歯科の出身者はイリノイ派として有名だし、オーストラリアのベッグ教授に習った先生はベッグ派と呼ばれる。

 

もちろん医局によって、雰囲気はかなり違う。私の場合は東北大学歯学部小児歯科にも3年間いたのでこの医局の雰囲気も知っているが、ここは教授との交流は少なかったし、女性が多かったため、あまり飲みに行くことは少なく、運動系というよりは文化系の雰囲気であった。また宮崎医科大学医学部歯科口腔外科にも1年間出向に行ったが、ここは完全に外様であったし、病院自体も完全に孤立し、周囲は田んぼであった。医局であまり遊んだ記憶はない。外科系の医局だが、それほど体育会系ではなかった。

 

医局というは、一般の人からはあまりわからない存在だが、中にいるとなかなか居心地がよく、他所から教授が赴任してくると、ひどいところになると医局員のほとんどがやめるということも起こりうる。それでなくとも、教授選の対抗馬の助教授、講師は間違いなくやめる。医局の新陳代謝をするためには、他大学から教授を迎えるのが一番である。


2025年9月15日月曜日

県立郷土館の後継

 


青森市にあった県立郷土館が耐震問題で休館しており、今後どうするかが議論になっている。おそらくは従来の建物を改修するのではなく新築するようだが、建築場所を従来通りに青森市にするか、弘前市、あるいは八戸市にするかで揉めている(今の場所は津波で水をかぶる恐れがある)。

 

青森市には県立美術館があり、弘前市には弘前れんが倉庫美術館と弘前市立博物館、八戸市には八戸市美術館、博物館がある。青森市は県庁所在地であるし、これまでの郷土館も青森市にあったのだから、新しく作るとしても当然、青森市以外にはあり得ないし、青森には博物館がないと考えている。一方、八戸市、弘前市からすれば、何で県立の施設が青森市ばかりにつくられるのかという不満もある。どうしても博物館が欲しいなら、弘前市、八戸市同様に青森市立博物館をつくればよい。そもそも郷土館の意義は、青森県のお宝を収集、保護して、県民に見てもらい、学んでもらおう、おおまかにはこうした内容であろう。美術品の多くは県立美術館に移管されたことから、青森県のお宝のうち、美術品を除くものといえよう。

 

美術品を除く青森県のお宝といえば、まず歴史的な資料、これは縄文から現在までの遺跡、考古品、文書、絵図、絵が挙げられる、さらに民俗的な資料としては、祭りや庶民の生活雑貨や家具など、そして自然資料としては、青森県特有の動物、植物などとなる。縄文土器については、八戸市の是川縄文館、青森市の縄文時遊館、つがる市に縄文住居展示資料館があるし、旧郷土館、弘前市立博物館、弘前大学にもある。また弘前藩の資料のほとんどは、弘前博物館と弘前図書館、高岡の森弘前藩歴史館、弘前大学が所有している。そして民具や雑貨は、旧郷土館が一番多く保有し、弘前市立博物館、八戸市立博物館、あおもり北のまほろば歴史館、山車展示館(弘前)、八戸市民俗資料収蔵館、五所川原市市浦歴史民俗資料館、十和田郷土館、十和田歴史民俗資料館などかなり数多くある。

 

一方、現在、世界的に着目されているBOROと呼ばれるつぎはぎのテキスタイルは、田中忠三郎氏のコレクションで有名になったが、青森県にはまとまった展示はないし、津軽こぎんについても、弘前市立博物館やこぎん研究所にそこそこあるが、これもまとまったコレクションとはいえない。ねぶたについては、青森市のねぷたの家、ワラッセ、弘前市のねぶた村、五所川原市の立佞武多の館などがあるが、津軽三味線、尺八、琴、民謡などの音楽資料、あるいは津軽の誇る相撲の歴史資料なども分散して各地に展示されているだけである。またこけしについては、黒石の津軽伝承工芸館、津軽こけし館や弘前市の津軽ねぷた村にあるが、これもまとまった形ではない。また津軽発祥の玩具、例えば弘前の『_弘前馬コ』、「下河原焼人形」の名品などもあまり見かけない。津軽塗り、ぶなこ、弘前木綿、津軽裂織などのコレクションもない。

 

津軽は、美術品を除いても、後世に伝えるべき、優れたお宝をいっぱい持っている。ただそれを大規模に収集して展示する場所は意外に少なく、郷土館が唯一と言ってもよかった。現在、郷土館は休館状態になっており、一刻も早く新しい資料館が必要である。

1.この資料館では、まず県民からの寄贈、寄付を第一として、調査ができる職員数、場合によっては購入できる予算が必要である。これがこれまでの博物館、美術館で最も欠けていたもので、器のみ作り、収蔵、展示までは気が回らなかった。おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなった遺品で珍しいものがあれば、ここに連絡してすぐに調査してくれる環境が望ましい。

2.もう一つは、市民による運営を目指すためには、後援会組織の充実と寄付金が必要であろう。アメリカの多くの美術館は市民による寄付で運用されており、入館料など取らないこともあり、図書館、美術館、博物館がもっと市民に活用されている。

3.さらにこれも非常に大事なことであるが、保管庫の充実が必要で、将来的に拡大も可能な広い敷地がいるだろう。弘前市立博物館や図書館でも収蔵庫が小さく、そのために市民からの寄贈、寄付を断るケースが多かった。従来の郷土館でも同様な問題が発生し、その管理が指摘されたこともある。

4.県民、あるいは県外、国外からの観光客に喜ばれる施設になってほしい。一つの例として、青森市にある三内丸山遺跡にある縄文時遊館、この施設はかなり金のかかったものであり、館内にも多くの展示室があり、それなりに展示の工夫をしているが、あまり面白くない。青森駅前のララッセについても、当初は見学のみでものの10分で見て終わりの施設であったが、いつからか案内の人がいて、説明、あるいは踊りを教えたりしたところ、人気が出てきた。同様に、弘前市のねぷた村も、中はいろんな催しがあり、それこそ10回くらい訪れているが、楽しい。つまり参加体験型の展示が望まれる。

 

弘前市長は、弘前城周辺の市保有地への誘致を表明している。城内は国の許認可が難しく、ここでの建設はない。となると旧青森銀行前の広場なのだろうか。ここは前市長が、追手門広場にあった旧市立図書館、東奥義塾外人教師館を移設するために設けた広場であるが、現市長の号令で中止となり、空いたままになっている。ただここだとすると、やや上記の文化資料を十分に収蔵、展示するには狭い。少なくともれんが倉庫美術館前の広場くらいは欲しいところである。

 

他に細かいことになるが、個人的に最も気になるのは、宙ぶらりんになっている「松野コレクション」で、これは県の方できちんと調査して、予算も組んで、新しい郷土館には展示してほしい。また旧郷土館では、青森の歴史資料の多くがコピーで、原本は弘前博物館、図書館にあるものが多かった。新しい郷土館が弘前にできたとしても、弘前博物館、図書館の協力がなく、同じようなコピー展示で、競合的な施設になるなら無意味となる。さらに小川原民俗博物館のように建物の老朽化で、資料の保管、管理ができない施設が出てきた。ここ以外にも県内に同様な事例はあるだろう。そうしたコレクションを全て引き受けられるような資料保管倉庫のような役割も求められる。

 

 

 


2025年9月12日金曜日

日本人の英語

 



私が卒業した六甲学院は、イエズス会系の学校で、在学当時は多くの外国人神父がいた。校長も含めて職員の10人ほどが外国人で、その母国もスペイン、ドイツ、アメリカと様々であった。英語については、スペイン生まれ、ミシガン大学卒業のディアス先生が6年間、担当した。基本的には国語、数学などの主要科目の先生は中高6年間、継続して担当する。さらに英語については、日本人教師による授業もあり、6年間でいえば、ディアス先生と日本人英語教師の2名が担当した。さらに1年ほど、アメリカ、ボストン生まれのハンコック先生からも英語を習った。

 

私はひどく発音が悪く、もう1人、後に埼玉大学の副学長になったN君と双璧であった。彼は、消しゴム、eraserをエラセルと堂々と発音し、それ以降、エラセルがあだ名となった。私も同様で、ある日、“go to here”をゴー ツー ヘルと発音し、カソリックの神父にお前は私に地獄へ行けというのかと激怒された経験を持つ。そんな私でも、今はひどいジャパニーズ英語であるが、何とか英語で会話できるし、エラセルくんも海外の研究者と普通に会話している。六甲学院の英語は、バスケット部の顧問であったフリン先生が作った、プログレス イン イングリシュという独特の教科書を使い、より実践的な内容になっていた。教科書に沿って、カセットテープも作られ、それを授業の度に渡され、聞くように言われた。もちろん、そんなカセットテープはほとんど聞かず、すぐにゴミ箱に。ただ身近に外国人がいたせいか、卒業後も外国人と話すのはそれほど苦ではなかった。

 

英語教育というと、話す、聞く、読む、書くの四つからなる。私の場合、受験勉強のために読む、書くはそこそこできたが、話す、聞くがあまりできなかった。その後、外国人留学生に矯正臨床を英語で教えたり、20年前からは週に1回、アメリカ人教師から英語を習っているので、少しくらいは話す、聞くはできるようになった。全く予習、復習もせず、歯科医の友人四人とアメリカ人教師1名がわいわいワインを飲みながら話しているだけである。発音はめちゃくちゃ、語彙も乏しいが、内容な濃く、トランプ政権下の移民政策などを議論している。

 

弘前の東奥義塾は、明治時代、英語教育で全国的に有名であった。特にその初期の学生は、ほとんど授業をアメリカ人から英語で習い、東京に出て物理を勉強しようにも、英語でしか習っていないので、しばらくわからなかったという。そのためアメリカに留学した生徒もすぐにアメリカの大学生活に溶け込み、弁論部に入り、優勝したり、いずれも優秀な成績で卒業している。一方、もう少し後になるが、弘前中学校から早稲田に進学し、その後、アメリカに留学した笹森順造の場合、当初、ほとんだ何を言っているか理解できず、小学校の授業を受けていた。今の日本人は中高校と英語を6年間も習ってもアメリカに留学するとわからない、これと同じ状況である。つまり読む、書く、を学んでいても、聞く、話すには、外国人教師による直接的な指導、それもかなり濃い指導が必要と言える。

 

横浜の共立女学校の場合、明治5年には早くも寄宿制をとり、生活の全てを英語づけにした。寄宿生同士の会話は日本語であるが、朝から晩までアメリカ人宣教師と同居して英語を学んだ。ここからは岡見京、菱川やす、須藤かく、阿部はななどがアメリカの女子医科大学に留学し、優秀な成績で卒業している。医学部はネーティブのアメリカ人女性でも卒業は難しい学部であるが、日本人留学生は特に読む、書く能力が優れており、聞く能力は外国人教師と生活する間に学んだのだろう。さすがに話す能力は幼児の時に外国語に触れていないとネーティブ並みになるのは難しいが、それでも読む、書く、聞く、の能力があれば十分に留学ができる。共立女学校を見ても、寄宿生であれば、留学しても全く問題ないレベルの英語能力はあると思うが、ただ通学生ではどうかという疑問がある。もちろん授業の多くが英語でされていれば、自然と英語は上達するであろうが。

 

 


2025年9月8日月曜日

台湾有事

 



アマゾンプライムで、中国による台湾侵攻を描いた「零日攻撃」が見られる。直接的な中国軍による台湾侵攻を描くのでなく、サイバー攻撃や、マスコミへの浸透工作など、有事の別の戦争をリアルに描いている。

 

ウクライナ戦争は、これまでも戦争概念を一変した戦争として歴史に残る。当初は、ロシア軍による電撃的な侵攻ですぐにウクライナが降伏するかと思われたが、実際の戦闘が始まると、従来の戦争様式と全く変わり、実践経験の多いロシア軍もどうしようもなくなっている。従来の戦争概念であれば、制空権を握られると、もはやどうしようのなく一方的にやられる方程式であったが、大型の防空システムだけでなく、兵士1名が持ち運べるスティンガーのような携帯型地対空ミサイルも活躍しており、コスト/パーフォマンスから高い航空機が使えなくなっている。またこれほどドローンが兵器で用いられた戦争は初めてで、全ての戦闘方法論を変えることになる。

 

個人的に、一番恐れたのは、ロシアによる核使用で、もしウクライナ戦争で、ロシアが核兵器をウクライナの首都、キエフはじめ、主要都市に使うと、これほど安上がりの兵器はない。核兵器を持たないウクライナからすれば、ロシアが核攻撃をすれば、これは降参しか方法はない。さらにこれほど簡単で、費用の安い兵器はなく、もし最初にロシアが核攻撃すれば、ロシア側のこれほど犠牲者を出さなくてもよかった。ロシアの指導者からすれば喉から手が出るほど使いかった兵器であろう。ただ流石にウクライナへの核攻撃は、北朝鮮も除く全世界からの非難をおそれ、ブーチン大統領も使えなかった。これは被爆国、日本のこれまでの核廃絶運動も影響したのだろう。

 

例えば、映画のように中国が台湾に侵攻したとしよう。現状では、中国の上陸能力ではとてもじゃないが、台湾には侵攻できない。ある研究によれば、現状の中国の渡海侵攻能力は数万人の兵士を運ぶ程度であり、非常事態の台湾は100万人の戦闘動員が可能で、3万人の中国軍の上陸はほぼ壊滅する。中国政府として中国兵の死者がもっとも少なく、費用もかからない方法と言えば、核攻撃しかない。高雄に一発、次に台中の一発、核攻撃で、次は台北いえば、ほぼ降伏するであろう。核兵器ほど安くて効果的な兵器はない。

 

台湾の面積は、ほぼ九州と同じ、人口は九州が1390万人に対して2340万人と約一千万人多い。太平洋戦争は、広島、長崎の原爆とソ連の満州侵攻で終戦となったが、もし通常兵器で降伏をさせようとするなら、日本へ上陸しなくてはいけない。九州上陸作戦はオリンピック作戦と言われた。その作戦計画では、投入戦力はおよそ200万人、航空戦力は6000機以上、艦艇は正規空母20隻、軽空母6隻、軽空母45隻、駆逐艦422隻、戦艦24隻、という途方もない規模である。こうした戦力を持ってしても、九州を全て占領するには20-50万人の戦死者とその数倍の戦傷者を出すと予想された。

 

当時に日本軍は、特攻作戦に代表されるような死をも恐れない狂信的な軍事組織であったので、これとは比較はできないにしても、ウクライナ戦争でのロシア軍の戦傷者数を見ると、台湾侵攻による中国人の死傷者も相当な人数になると予測される。さらにいうなら、イギリス、日本のような四方を海に囲まれた国を侵攻し、占領するのは、陸続きの国への侵攻に比べて数倍の労力を必要とする。特に台湾に場合、西側の海は大陸棚で浅いが、東側の深く、自衛隊の最も得意な深海底での潜水艦待ち伏せ攻撃の格好の的で、中国海軍の艦艇は一切、航行は怖くてできない。これは中国の原子力、通常動力の潜水艦でも同様で、中国の台湾侵攻が始まれば、自動的に日本、アメリカの潜水艦は台湾東海域に派遣され、中国の海中、海上船舶の破壊活動を行う。戦闘機による支援は日米の介入があからさまになるが、潜水艦の支援は見えないので、まずこの方法をとり、台湾への海上交通路を確保する。

 

いずれにしても島国に対する戦争は第二次世界大戦のおけるドイツによるイギリスの攻撃くらいしか思いつかず、これも完全に失敗した。中国人民解放軍の本格的な戦争は、朝鮮戦争と中越戦争くらいしかなく、すでに45年、いずれの戦争も勝利したとはいえず、一人っ子政策を相まって、中国軍の実力は疑問視される。一方、台湾でも、ドラマに見られるように戦争が始めれば逃げるという人も多く、頑強な抵抗があるかは不明である。ドラマのような、政治家、マスコミに対する浸透工作をして、台湾を親中国国家にし、自然に統合していくプロセスが現実的な路線であろう。かって社会党の議員で、絶対戦争反対、自衛隊がいらないという人がいた。中国から攻められたらと質問されると、その場合は、すぐに降伏すれば命ばかりは取られない。現に日本はアメリカに占領されたが、発展したと言っていた。結構、説得力のある意見で、これをマスコミ、ネットで徹底的に流し、国民を洗脳すれば、核を使わず、軍隊で大きな損害、費用も使わず、侵略が可能である。

 

さらにいうと先見の明のある安倍元首相の発案で、沖縄、南西諸島への地対艦ミサイルの配備をしてきた。これは台湾の武力侵攻を狙う中国にとっては、喉元の棘となり、大きな抑止力となる。安倍元首相の置き土産で、重要な布石である。日本の南西諸島へのミサイル基地への先制攻撃は、日米との開戦を意味し、さすがの中国も第三次世界大戦につながる戦争を起こす勇気はない。


2025年9月4日木曜日

医学はサイエンスに基礎を置いたアートである

 



著名な医学者、ウィリアム・オスラーは「医学はサイエンスに基礎を置いたアートである」と述べた。ここでいうアートとは芸術の意味ではなく、技術、経験といった意味である。むしろ今では「医学とはエビデンスに基づいた経験、技術である」と言った方がわかりやすいかもしれない。

 

ここでいうエビデンスとは医学、医療エビデンス、きちんとした統計的な手法を用いて、効果があったとする治療法のことで、教科書的な標準治療法と言っても良い。現在、ほとんどの疾患、病気は、各医学学会で、その治療法についてのガイドラインが出されており、基本的にはこのガイドラインに沿って治療がなされる。ただこれはあくまで、統計的に有意であった治療法というだけで、個々の患者に対して効果があるかはやってみないとわからない。統計といっても、医療系の研究は、二つの集団の差の検定あるいは、あるいは傾向があるかどうかを調べる相関の検定が多い。薬を飲んだ集団と飲まなかった、あるいはプラセボの薬を飲んだ集団に差があるか、タバコと肺がんの関係などである。

 

今後、AI技術の発展に伴い、このエビデンスについてはさらに強化されていくであろうし、診断、治療法については、かなりコンピューターでできるようになるであろう。ところがオスラーのいうところのアートについては、いくらA Iが発達しようが、これだけは経験して、自分で学び取っていく以外に方法はない。最初に言ったようにアートの意味には、技術的な側面と経験的な側面があり、数をこなし、経験を積むだけでなく、個人の資質が関係する。いくら頭がよくても不器用であれば手術はできないし、手先が器用で早くても失敗が多いのでは医学の面では致命的な欠陥となる。

 

矯正治療は、このようにアートの占める割合が高く、実際、治療費は高額であるが、その90%は技術料と考えて良い。最近、流行しているインビザラインは、コンピュータで治療開始前から終了までのプロセスをコンピューターで分析して、マウスピースを作り、歯を動かす。非常に科学的な方法で、患者にとって治療後のシュミレーションが見えることは安心である。これがサイエンス、エビデンスがあるかというと怪しいが、それでも簡単な症例ではこれで治るというサイエンスはある。ところがこの治療を行う先生の多くは、矯正歯科の素人で、アートの部分の能力はかなり低く、現状の日本矯正歯科学会の認定医、臨床医の症例審査に通るだけの力量を持つ歯科医はほとんどいない。また多くの友人に聞いても、インビザライン単独で治せる症例は少なく、特に抜歯症例ではほとんど、マルチブラケット装置が必要という。

 

個人的に、このアートの分野で最も難しい判断は治療を勧めない場合である。実例で言うと、精神疾患を有する患者の矯正治療では、多くの場合は問題ないが、中には治療中断や不穏な結果に終わることがあり、治療をすべきでなかったと悔やまれる症例がある。また子供の場合でも、親が熱心であっての子供がやる気がない場合、矯正治療で歯並びがきれいになってもう蝕だらけという状況になることもある。こうした症例を初診段階で、治療を拒否すれば患者からはクレームがつくが、断固として断る勇気もアートの領域である。また下顎の前歯部だけの叢生の治療については、経営的には美味しいが、後戻りのことを考えると断る症例であるし、反対咬合の二期治療についてももし手術の可能性があれば、成長が終了するまで、あるいは本人の意思決定ができるまで二期治療をすべきでない。

 

レスキューファンタジー、他の医師が治療できなくても自分なら治せると言う幻想は、若い先生が陥りやすい症状である。特に歯科医の場合は、大学病院、大規模病院に勤務する経験が少ないので、自分のアート、あるいはサイエンスの足りない部分を指摘されることがなく、独善的になりやすい。自分ではすごいと思っても、他の先生からみるととんでもない治療をしていることがままある。サイエンスの部分を高めるのは、本を読んだり、学会に出席したり、講習会に受講することで学べるが、アートの部分は他者からの評価を必要とする。優れた指導者、専門家から、自分の治療のアートの部分を評価し、正してもらう。こうした工程がアートの部分を高める。矯正歯科医の場合は、認定医、臨床医、あるいは専門医の資格を得る、更新時に自分が治療した症例を試験官によって評価される。また転医の際してもこれまでの経過も含む、すべの症例を送るため、ここでも転医先の先生から評価される。また同門会のメーリングリストで治療について相談することもある。

 

近年、歯学部学生は卒業して、大規模のチェーン店に勤務することが多くなったが、そこがサイエンスとアートの両方を学べるところか、どうかよく考えてほしい。どの分野でも、優れた医師、歯科医は世界の最高水準の治療法、治療結果を知っている。矯正歯科分野でも、専門医であれば、世界各国から転医患者が紹介されるし、こちらから海外の専門医に紹介することは普通にある。またヨーロッパやアメリカの矯正歯科専門医試験に合格している日本人の先生も多いし、海外の学会に行き、症例報告を見れば、だいたい世界トップの臨床水準は理解できる。日本矯正歯科学会の臨床医(臨床指導医)の試験は、世界でも最もむずかしい資格試験の一つであるのは間違いない。大袈裟に言えば、日本の矯正歯科医は、常に世界のトップレベルの臨床水準で治療を行っているし、実際に日本人の矯正歯科医のレベルは世界的にも高い。一方、一般歯科医が世界最高水準のレベルを知っているか、あるいは治療できるのか、ここが問題となる。医師の60%以上は専門医の資格を持っており、彼らは世界的な水準を知っているが、歯科では専門医を持っている先生は5%しかおらず、一般歯科の先生が世界的なレベルでの治療をしているだろうか。私のような田舎の矯正歯科専門医でも、これまでアメリカ、ベトナム、韓国、中国などから十数名の転医患者があったし、こちらからもアメリカ、ドイツ、中国に治療の継続を依頼したことがある。保険治療という枠組みがあるにしろ、日本の若い歯科医はサイエンス、アートともに世界最高レベルの歯科治療を目標にしてほしい。


2025年9月2日火曜日

将来的に壊す前提で歯科医院を建てる



最近では、建築費の高騰で、地方で新規に歯科医院を開業するには、1億円以上かかるらしい。近くの歯科医院は2億円かかったと聞いた。保険点数があまり上昇していないし、患者数も減っているので、経営はかなりきついだろう。歯科医の場合、35歳で開業してだいたい70歳くらいで引退するので、現役で開業するのは35年くらいとなる。そして引退すると医院は継承するか、売却することになる。売却の場合、建物は壊して、更地にしか売れないので、開業に費やした資金のうち土地代以外は無くなることを意味する。

 

コンビニは、借地に耐用年数が20年程度のローコスト、短い納期、さらには簡単に撤去できる建物を建てる。建物自体に資産価値を認めず、あくまで減価償却の要素として建物を見ている。簡単に安く作り、儲けて、客が来なくなれば、壊すという流れであり、建築費と撤去費は高くできない。2025年の相場で、建築費が坪25-40万円、内装費が坪10-30万円、といわれ、標準的な60坪のコンビニで2100-3600万円とされている。おそらく歯科医院の建築費の半分から1/3くらいである。

 

歯科医院を開業する若手の先生で、開業の時点で、閉院のことを考える先生はまずいないと思うが、経営的な視点からは35年持つ歯科医院であれば良い。さらにいうなら設備品の撤去、建物の解体期間、費用も安い方が良い。

 

アメリカのA-decの歯科用ユニットは、開業医の平均期間を40年と見て、40年間は持つように設計されている。そのため、共通部品を多く使い、パーツの在庫も徹底し、故障も少ない。日本の歯科用ユニットのメーカーは、例えばヨシダのユニットは製造より10年を過ぎれば、故障しても保証はしないとしているが、これでは困る(実際はもっと修理するが)。一度買えば、買い替えしなくても引退までもって欲しい。実際、私のところでは、このA-decのユニットを2台、20年近く使っているが、故障した場合は、部品を送ってもらい、簡単に修理できた。さらに驚いたことに、いつも世話になっている東京のノーヴランドにこちらの歯科材料屋が電話連絡すると、完全に機械を知り尽くしていて、ここのパネルを外して上から3番目のネジを外して、こうした指導で簡単に修理ができた。何とか閉院まで持ちそうである。

 

家を建てるとなると一生住みたいと思い、できるだけ頑丈な家を建てようとする。最近では中古住宅も注目されているので、途中で引越しがあっても売れるだろう。ただ歯科医院についていえば、継承がなければ壊すしかない運命で、あまり立派に作ってしまえば、かえって撤去費用がかかる。もちろん将来事務所などの他の仕事場に簡単に変更できるような設計であれば、壊さずに済むかもしれない。配管の設備などを考えるとかなり特殊な建物と言える。

 

開業の時点で、だいたい何歳ごろに閉院するという大まかなスケジュールを立てることは大事であるが、新規開業する先生は、そうしたことは考えていないようである。設備についても同様で、デジタルレントゲン、CAD/CAMなどの電子機器は、だいたい10年で、機能、性能が陳腐化するので、安い価格の物を多くの頻度で使い、予想使用率から10年間の収益を算出すべきである。開業時に揃えるのは収益予想もできず、隅に放置されることもありうる。逆に閉院10年前に購入する機器は10年何とか持てばいいので、中古機器で十分である。こうした発想をする先生は多い。

 

さらにいうなら備品については、ものすごく安くて、捨てるのに惜しくないもので揃えるか、逆にブランド品で揃えるかとなる。最近では、物を捨てるにもお金がかかる。例えば事務椅子でも、ハーマンミラーやスチールケースなどのブランドであれば、20年くらい経っても中古家具屋さんで引き取ってくれるし、アルネ・ヤコブセンのテーブルライトであれば、閉院後も家で使ってもいいし、子供にあげても良い。閉院しても、売れるもの、家に持って帰るもの、子供、友人が欲しがる物であれば、経費で落とせる額を考えても購入は勧められる。医院に飾る絵やインテリアもそうである。

 

世の中、断捨離、シンプルライフの時代であり、その点から見ると、歯科医院経営においても、閉院のことを考えて、必要最低限、無駄なく開業することが望まれる。