2016年1月11日月曜日

珍田捨巳と昭和天皇

北白川祥子(ウイキペディアより)



 昭和天皇実録 第四を購入。“珍田”をキーワードにざっと見てみたが、相変わらず、件数が多い。第四巻では摂政就任、結婚、大正天皇崩御、昭和改元などが扱われ、東宮大夫、侍従長であった珍田もなかなか休めない。大正天皇が病気がちのために、昭和天皇(この名称を用いる)も大正天皇の名代、摂政としての仕事と、皇太子としての仕事があり、両方をこなす必要があるし、さらには大正というある意味人心が乱れた時期であったため、各地に巡幸をする必要があった。北海道、台湾への巡幸は遠方であったので長期の巡幸で、東宮大夫の珍田も随行しなくてはいけないし、結婚、大正天皇の崩御についても、皇室のさまざまな儀式に出席を求められる。さらには外国人賓客が参内した折には、晩餐会が開かれるが、その度に珍田は通訳を兼ねて陪席するし、月に2、3回、優れた講師を招き、時局から古典、歴史までの幅広い講義が行われるが、その都度、昭和天皇と陪席して講義を聞いている。

 昭和元年の12月25日に大正天皇が崩御し、同日に昭和に改元したが、珍田もすぐに皇太子を補佐する東宮大夫から、皇后を補佐する皇后宮大夫に変更されるが、昭和2年2月20日の記事には“皇后宮大夫珍田捨巳病気引き籠り中につき、天皇・皇后より御見舞として果物一籠を下賜される”とある。ところが3月3日には、大正天皇の侍従長徳川達孝伯爵が免官、珍田捨巳が侍従長となる。仕事は東宮大夫とは同じであるが、普通の人が侍従長を珍しい。明治17年から大正元年まで長く侍従長をしていた徳大寺実則は、公家の出身、さらに鷹司煕通は公家で徳大寺の娘婿、次の正親町実正も公家、そして徳川達孝となる。皇室行事は公家以外にはなかなかわかりにくい制度であり、精通している公家が侍従長となったのだろう。ただ昭和天皇にとっては、渡欧巡幸の供奉長、摂政時代の東宮大夫であった珍田は最も頼りになる存在で、さらに欧州での生活を知った昭和天皇にすれば古い公家のしきたりを復活させようとは思わず、そうした点からも珍田が侍従長になってもらうのが一番よかった。

 おそらく珍田すれば、高齢で病気がちであったため、辞退したいのが本音であったが、周囲から強く勧められ、侍従長を承諾した。「ポトマックの桜 —津軽の外交官珍田捨巳夫妻物語」(外崎克久著、サイマル出版、1994)には、珍田の妻の思い出として、固辞する珍田のもとに義理の兄、佐藤愛麿が訪れ、「最近の軍首脳の動きは、じつに不可解なものがある。西園寺公も牧野内相も心配している。世界が平和軍縮に向かっているのに、軍艦は増強するわ。戦車、飛行機は増強するわで、兵隊は減っても、日本の軍備費は増える一方だ。世の中は、ますます不景気だというのに、中国とまた戦争する気でいるようだ。まじめに日本の将来を考えているのだろうかと」、「じつはそこだ。将来、偏狭で冒険的な軍国主義者を抑える人は、立憲君主の陛下でしかおられないと思っている。陸海軍を統帥する大元帥となられたいま、広い見識を持って軍を統監し、日本が世界から仲間外れにならないように指導するのが陛下である。その陛下のバランス感覚を正しく補佐して差上げられるには、珍田、お前しか居らんのだ.頼む、体を張ってでも引き受けたほしい」と説得し、「佐藤、わかった。ご仁愛篤き陛下のおそばに、できるだけ長くいて、お仕えするのが臣下の勤めだと思う。いまこそ、栄えある殉教精神が求められているのかもしれない」と答えたという。実際には宮内大臣、一木喜徳郎や内大臣、牧野伸顕から、懇願され、引き受けたようだ。

 侍従長に就任後も、月に数回の晩餐、講演の陪席などは変わらなかったが、寒い樺太行啓や愛知での陸軍大演習は珍田の体をいたわり供奉されなかったが、一方、海の好きな珍田を喜ばせようと海軍大演習には供奉した。天皇の老臣への思いやりを感じる。

 またこのブログでも以前紹介した弘前藩最後の藩主、津軽承昭の長女、津軽理喜子は、皇室の女官として勤め、大正14年7月1日に、皇太子妃内着帯の儀、昭和2年10月23日に朝子女王誕生に際して天皇・皇后より御使として五種交魚一折、白羽二重一匹を贈呈との記載が「昭和天皇実録」にある。さらに津軽理喜子の妹の寛子は、徳川義恕に嫁いだが、長男の徳川義寛は後に侍従長、次男の津軽義孝の娘は常陸妃華子さんで、長女の祥子は北白川家に嫁ぎ、女官長、皇太后宮女官長などをした。弘前と皇室との関係は深い。

2016年1月6日水曜日

パタゴニア シンチナ・スナップ・Tパンツ







 今年の正月がどこにも行かず、もっぱら家にいた。おかげで時間がなくてこれまで見られなかったオードリー・ヘップバーンの映画「戦争と平和」(3時間)とNHKの72時間の特別番組、9話一挙公開を見ることができた。「戦争と平和」はもっと長いロシア映画の方が原作に忠実であるが、何と言ってもオードリー主演の1956年の映画は、オードリが一番きれいな時のもので、「ローマの休日」、「いつも2人で」の次に好きである。

 1月3日は、近くのパタゴニアショップを訪れ、前から気になっていたシンチラ・スナップーTパンツを買った。このフリースでできたパンツは昨年販売され、気になっていたものの、値段が高くて躊躇していた。正月だから、部屋着の暖かいズボンとしてまあいいかと思い、購入した。早速履くと、ものすごく暖かく、肌ざわりもよい。ただ室内着としてはいいが、これを穿いて外出するとなると、どうもためられる。普段使っている黒のバジャマと外見は変わらず、若い人ならいざ知らず、私のようなおっさんが履くと、あの人、パジャマのまま外出しているわと言われかねない。

 パタゴニアの製品は、R2を1本、R3は1本、持っており、いつも冬場はこればっかり着ている。あまり気に入ったので、友人にも勧めたし、何より大阪にいる母親が気に入り、やはりR2とR3を送ったが、寒い季節、こればかり着ている。家内にもR2を買ったし、伯母さんにも買ったし、都合R2とR3で合わせて6本買った。高いが、これだけ毎日着続ければ十分に元はとったし、その割には、頑丈で、買った当初の毛並みはほぼ保存されている。家内の洗濯方法がいいのかもしれない。

 シンチラパンツも当初はLサイズを購入しようと考えていたが、実際に試着するとウエストがわりとゆるく、Mサイズでぴったりだった。アメリカ人の平均身長は178cm、体重87kg、ウエストは95cmくらいなので、身長175cm体重79kg、ウエスト86cmの太り気味の私でもMサイズでOKである。ただ足の短い私には丈は10cmくらい長い。ちょっとダブり気味で、家内に裾上げしてもらおう。

 家内曰く、イトーヨーカドーで買ったPrismaというメーカーの1000円の黒のスウェットパンツとどこが違うのかと。なんぼなんでも13000円のものと1000円のものは違うと言ったが、Prismaのパンツを穿いてみると、その差は微妙で、若干、パタゴニアの方が肌ざわりがいいくらいで、ほとんど差はない。まあこうしたものはブランド代がほとんどと考えればよいか。この冬、毎日穿いてみて、耐久性に問題がなければ、本当の評価ができるだろう。こうしたことは矯正歯科の分野でもあり、ある人が東京の歯科医院で矯正の相談に行ったところ、治療費が200万円という。矯正治療は材料代などしれたものなので、料金は先生の経験や臨床能力に依存するなら、それもありと思われる。ところが誰が矯正歯科を担当するのかと調べると、認定医をとったばかりの若手の先生である。我々矯正専門医からみて素晴らしい臨床技術を持っている先生がいるが、こうした先生のところでの治療費が先に述べた若手の先生のところの半分以下という逆転現象がおこる。通常考えれば、経験が豊富で、臨床技術も高く、安ければ、みんなそちらに行きそうなものだが、かえってHPなどで派手に宣伝している審美歯科のところで矯正治療を受ける患者さんは多い。

 このことはパタゴニアとPrismaのスウェットパンツと同じように思えるが、一番の違いはパンツには定価があって、客はそれを承知で買うのに対して、矯正治療費は定価がないことである。定価がないものでも、適正価格というものがあるので、これは多くの歯科医院を廻り、十分に調べる必要があろう。それを知らないと、詐欺とは言えないにしても不当に高い治療費を払うことになる(安いのがいいとは言っていませんので)。アメリカでは有名美容師のカットの料金は1000ドルを越えることがあるが、これだけ高くても予約は一杯という。ただ日本では、いくら有名な美容師でもこうした高額な料金は取らないし、著名な矯正歯科医もそうである。非常識な料金を設定する歯科医は、非常識な先生が多く、そうした治療を受ける患者も悪いが、これだけ情報が多い社会で、何も調べないで治療を受けるのは、ある意味、非常識で、自業自得と言ってもいいかもしれない。

*実際に外で履くと、フリースは風を通すため、冷たい風が入ってくる。寒冷地用のパンツはLLビーンやエディーバウアーのフランネル裏地付きのチノの方が暖かいようだ。

2016年1月2日土曜日

明治九年 東奥義塾天覧授業 2


 青森での天覧授業について、ドナルドキーンさんはその著書の「明治天皇」(新潮文庫)の中で「予定されていた課業がすべて終わらぬ内に、天皇の退出の刻限が来た。退出の際、生徒たちは英語で頌歌を唱えた。天皇は生徒一人一人に金5円を与えた。ウェブスター中辞典を買う代金としてだった。しかし天皇は、極端に西洋を重視する傾向を喜ばなかった。それは、生徒たちの演説の主題の選び方にも表れていた。
 (中略)日本人である生徒が、日本の伝統に無知なままハンニバルやアンドリュー・ジャクソンについて器用に英語で演説するのを聞き、天皇は明らかに不機嫌になっていた。」としているが、明治九年の東北巡幸に日程を見ると、7月14日に小湊より青森に移動し、午後1時半ころに在所の蓮心寺に着き、翌日の15日は朝6時から青森第五連隊で体操、行進などをみて、青森小学校に向かい、午後十時ころから小学生による体操、授業参観、そして東奥義塾の英語学生十名の課業をご覧になった。暑さが厳しく八十八度(摂氏31度)の高温であったという。その後、12時前に蓮心寺に戻り、昼食後の午後1時から青森県庁、裁判所を訪れ、さらに伊東善五郎自宅前に作られた馬場で競馬を見学した。次の日の明治九年7月16日の午前6時ころに青森市濱町の桟橋から小舟で明治丸に乗り移られ、函館に向かわれた。かなりタイトなスケジュールで、若い明治天皇にしても相当に疲れ、不機嫌な態度となったのだろう。実際に珍田にしても英語学生の多くは、きちんとした漢学、士道の基礎を学んでおり、決して日本の伝統に無知だったわけではない。

 さらに前回のブログでも紹介した今官一著「津軽ぶし」には著者が東奥義塾在校時に聞いた話として
「東奥義塾には、明治天皇東北御巡幸のみぎりに、これを迎えて、英語の歓迎歌を捧げ、天皇をいたく感動させ、御褒美をいただいたという先輩が、まだ数人生き残っていて、年々の開校記念日には必ず顔をみせて、後輩の私たちに、その歌をうたって聞かせた。そうして、もう私たちには、いつも耳なれてしまった、当時のエピソードを、年々愚痴のように繰返して聞かせた。天皇は、かかる本州の北端の雪国に、外国の言葉で歓迎した少年たちの居ることに感激され、少年たちを御前にお召しになられた上で、一人一人に、なんでも好きなものを褒美に取らそうと、仰せられたという話である。「その方は、なにが好きか」と問われて、「はい、私は凧のブンブが好きであります。」と一人の少年が答えた。凧のブンブをいうのは少年たちが、凧の弦に張る「うなり」のことである。彼は、あの大空にぶうんとなるブンブの壮快なひびきを愛したのだ。天皇はブンブの意味が判らなかった。しかし側近の誰かには判るはずである。「ブンブだな。よしよしーー」と仰せられ「それで、そちは、なにが好きかね」と次の少年に下問された。すると次の少年は、直立不動の姿勢で、「はい----私は、豆漬けが好きであります」といった。これは、工藤儀助先生という青森県教育界の長老の直話である。儀助先生は東奥義塾では理事をして居られたので、私達は、在学中、一日として先生のことを「豆漬け」先生とお呼びしない日はなかった。天皇の前をはばからず、断固として津軽少年の嗜好を、公言された勇気に、少年たちは感動したのである」

 ここでの豆漬とは、枝豆をサヤごと、さっとゆでて、そのまま塩漬けにしたもので、最初食った時は、普通の枝豆で食べれば思ったほど、柔らかくて気持ちの悪いしろものである。このエピソードは、かなり眉唾もので、天皇自らが、子供達に声をかけることはあり得ないし、上記のスケジュールからも時間的な余裕はなかったろう。おそらく天皇に一緒に来た供奉官の誰かから声を掛けられたのだろう。それでも少年達にとっては、この天覧授業は一生の誉れ高い思い出であったことであろう。


 10人の少年達のうち、珍田捨巳は後に昭和天皇の侍従長に、佐藤愛麿は外務省を退任すると宮内省に入り、宮家別当、宮中顧問官を勤めたが、不思議な縁である。

2016年1月1日金曜日

明治九年 東奥義塾天覧授業 1


 明治九年七月の明治天皇の東北巡幸では、東奥義塾の学生十名が七月十五日に青森に招かれ、その学業を天皇が視察されることになった。菊池九郎、本多庸一、外国人教師ジョン・イングに引率された学生達は、青森市の蓮心寺で英語唱歌、英語講演、英語作文の三科目を明治天皇の前で行った。唱歌はイングが聖歌五十番を天皇頌徳に翻意したもので、全員でこれを合唱した。時間の関係から講演は珍田捨巳、伊東重、森可次の三人、他の七人は英文を綴って奉納した。

 明治天皇はいたく感激し、生徒一人一人に英語辞典代として五圓を下賜し、イングは特に拝謁の光栄を得た。この時の学生と演題は次のようなものだった。

珍田捨巳  「英語演説ハンニバル士卒を励ます辞」
伊東重   「シセロカテソンを語る 題、教育」
森可次   「合衆国に上陸しての演説、題、開化進歩」
佐藤愛麿   文章朗読  題「愛」
川村敬三   文章朗読
藤林良司   文章朗読  題「剛気」
工藤儀助   文章朗読  題「文明」
乳井吉之助  文章朗読  題「明治皇帝の北巡を祝す」
田中五郎   文章朗読  題「外国交際の要」
武田邦雄   文章朗読  題「自給」

 同行した内閣顧問木戸孝允は、こうした僻地で外国人教師を雇い、しっかりした英語教育をおこなっているのに感動し、東京に帰ってからも話題にしたので、一躍、東奥義塾の名が上がった。(以上 「東奥義塾再興十年史」昭和六年)

 これについて「洋学受容の地方の近代 —津軽東奥義塾を中心にー」(北原かな子)では岸田吟香の「東北巡幸記」(東京日々新聞、明治9年)から引用し、

「演説 ハンニバル士卒ヲ励スノ辞」
「文題 青森へ御着輩ヲ祝スル文」頌歌      珍田捨己
「演説 アンドロ、ジャクソン氏合衆国上院ニテノ演説」
「文題 開化進歩」頌歌             森可次
「演説 シセロカテリンヲ詰ル辞」
「文題 教育」頌歌               伊藤舜山
「文題 一種奇怪の引力」頌歌          川村敬三
「文題朗読」「文題 愛」頌歌          佐藤次郎
「文題 外国交際ノ要用」頌歌          田中五郎
「文題 剛気」頌歌               成田亘司
「文題 明治皇帝ノ北巡ヲ祝スル文」頌歌     佐田吉之丞
「文章朗読」「文題 時」頌歌          工藤儀助
「文章朗読」「文題 自給」頌歌         武田邦雄

 名誉ある天覧授業の発表者が本によって異なるが、伊藤舜山は伊東重(舜山)の間違い、佐藤次郎は佐藤愛麿の幼名である。「シセロカテソンを語る」より「シセルカテリンヲ詰(なじ)ル辞」が正しいと思われる。これはローマの哲学者、マルクス・トゥッリウス・キケロ(Cicero)が元老院でルキウス・セルギウス・カティリナー(Catilina)の国家転覆未遂事件を追求した演説であり、後者が正しい。また「合衆国に上陸しての演説」よりは「アンドレ、ジャクソン氏合衆国上院ニテノ演説」の方が意味をなす。これは第七代アメリカ合衆国大統領のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)の演説であろう。また珍田捨巳と珍田捨己は同じ、本人は最初、己であったが、ステッキ(杖)に間違えられるため“巳”にしたが、天覧当時は“己”でよかった。また成田亘司は、成田良司の書き間違いで、藤林竜岬(良司)のことである。成田基三の子で、藤林昌知のところに養子にいき、藤林姓となった。東奥義塾卒業後、明治12年9月の東京師範学校に入学したが、卒業間近の明治16年に肺疾患で亡くなった。将来期待されていただけに残念な早世であった。義塾の英語の教師には明治5年から10年までは佐田吉之丞という人物が、明治11年以降は乳井吉之丞という人物がいて、これも佐田家から乳井家に養子にいったため、名が変わったのだろうか。後に“魁新聞”などの編集長などをした。戊辰戦争で弘前藩の銃隊頭を勤めた相良町の佐田大之丞、その息子で自由民権運動のリーダーで県会議員、弘前市助役を勤めた佐田正之丞(1854-1922)の弟のように思える。