2020年8月7日金曜日

ナヌカビ 弘前ねぷた





 青森ネブタ、弘前ネプタとも重要な日は、最終日のナヌカビで、元々は旧暦の七月七日、新暦でいうと今年は八月二十五日であるが、祭りの一環として八月七日がナヌカビとされ、この日は町内を昼間、回り、金銭をねだったり、扮装などをして騒ぎ、最後は、川あるいは海にネブタ、ネプタを流す。実際は水で本体から紙を剥がし取るのであるが、近年は川の汚染のためにこうした川、海での剥がし取りは禁止されている。

 「弘前ではナルカビにはねぶたの最後の日であり、ねぷた流しといって朝早くからねぷたを出し、岩木川に持って行って流した。流すと言っても、実際にはねぷたを水につけて紙を剥がし取ったのである。」(弘前ねぷた本)「ねぷたとは眠り流しなどの水に睡魔や悪いものを流してやる禊としての要素、中国伝来の乞巧奠や二星伝説の星祭りの要素、そして同時期の盆灯籠や迎え火、送り火などの灯火を用いる盆行事の要素が習合したもの」というのは松木明知先生の見解である。また子供達は「ナヌカビは集落全体が仕事休みで、ねぷたは朝早くから鼻白つけて練り歩き、「ねぷた流し」と言って川の深い所にねぷたを沈め、紙を剥がして骨の一部を解体した。その後、「七回ママ食べて、七回水浴びする」と言った。」(弘前ねぷた本)。祭りが終われば、厄災ごと水に流して清めるのである。

 日本人の民俗信仰とも言える神道では、禊という概念が重要で、祝詞にも「祓戸の大神等 諸々の曲事罪穢を 祓ひたまえ清め給へと申す事の由をーー」とあり、神社に入る前に、手水舎で清めることはよく知られている。こうした要素は確実にネブタ、ネプタにもあり、基本的には祭りに用いられたものは、祭りが終わると焼かれたり、壊されたりして、一年毎のものであり、それが再生という祭りの根本的な意義であった。それ故、過去のねぶた師の作品がほとんど現在に残っていないのは、当たり前にことで、いくら手間をかけ、名人の作品でも祭りが終われば、躊躇なく壊された。

 五所川原の大型ねぷたも、最初の年、平成十年の作品は、古式に則り、最後は火が放たれ、完全に昇天させた。ところが、その後は、製作されたねぷたは立佞武多の館に保管され、次の年の祭りにも使われるようになった。また今年の青森ねぶたはコロナウイルスのために中止となり、代わりにワラッセにあるねぶたをナヌカビに外に出し、市民と楽しもうということになった。

 確かに全国からの観光客にとって、立佞武多の館やワラッセのような観光設備があり、年中、そこで実際のねぶた、ねぷたを楽しめることはいいだろう。ただこれはあくまで観光目的の例外であり、日本の禊の概念からすれば、祭りに使われたねぶた、ねぷたは一回限りのもので、そうすることで、初めて厄災、邪悪退散の意味がある。数年前、弘前ねぷた参加団体協議会の参加団体が、「“よさこい津軽”によって汚れた土手町を清める」という発言をし、他の参加者からの暗黙の賛同があったという(よさこい津軽の関係者、ごめんなさい)。またねぷたは一回限りであるから、潔く、意味がある、と考える人も多い。昔、神奈川歯科大学の学園祭があり、青森出身の学生が、ねぷたを出そう、できれば棟方志功にねぷた絵を描いてもらおうと画伯に頼むと、快諾し、絵を描いてくれたという。ただ学生たちはもったいないといえ、ねぷたは燃やすか川に捨てるかすると思っていたので、学園祭が終わると盛大に燃やしたという。私が最初に弘前に来た時も、ねぷた絵を祭りが終わったら切り取って、くれないかというと、ねぷたは祭りが終了次第、綺麗さっぱりと捨てるので、あげられないと言われたことを思い出す。

 診療所の前に金魚ねぷたを8月1日より飾っているが、夜はやっぱり光ってほしい。そこで百円ショップで電池式のランタンを買い、それを内部に吊り下げることにした。単四電池3本で14時間だが、充電式乾電池にして、昼間充電、夜照明することにした。8月25日まで飾り、水で紙を剥ぎ取ることにする。

2020年8月6日木曜日

3歳児歯科健診 反対咬合



 昨日、久しぶりに3歳児歯科健診に行ってきた。コロナ騒ぎのため健診は厳重で、まず体温が測られ、熱がないか調べ、さらに問診があってからスタートする。歯科でももちろんグローブ着用、デンタルミラーもディスポを使用、子供の頭を置くところには、これもディスポの敷布を使い、さらに一人検診するたびに清掃が行われる。

 相変わらず、虫歯は少なく、ざっと30人くらいみて、虫歯のある子どもは三人くらいであったが、反対咬合は3人、将来、凸凹になる可能性の高い、乳歯の閉鎖歯列、叢生の子どもが10名ほど、かみ合わせが深い、出っ歯になる可能性が高い子どもが10名ほどいた。乳歯歯列での理想的、すなわち隙間が十分にあり、かみ合わせも切端に近い、浅い子どもはそれこそ、数名もいなかった。それ以外の子どもたちも大きくなると何らかの不正咬合になるのだなあと思った。

 反対咬合のお子さんは、近医でムーシールドや他の矯正装置を使っているとのことだが、あまり使ってくれず、一向に治らないと言っていた。日本矯正歯科学会の反対咬合のガイドラインは出ていないが、おそらく3歳児への矯正治療は、長期的にはムーシールドを含めて効果がない、あるいは証明できないという結論になりそうである。当院でも以前、ムーシールドは10例ほど使い、いずれも乳歯の被蓋は改善したが、永久前歯が萌出する時期になると反対咬合となり、今度は上顎骨前方牽引装置、さらには叢生に対する治療も必要となり、ムーシールドだけで、理想的な歯並びになった症例はない。つまり従来の永久歯萌出時期(6-10歳)の一期治療の前に3-6歳の乳歯期の治療が必要となり、乳歯期治療、一期治療、二期治療の3期の治療が必要になる。これは管理上大変で、反対咬合の患者は少なくとも成長終了まで見ていかないといけないので、男子の場合、18歳くらいまでの15年間の管理が必要となる。こうした長期管理のため、うちでは子供の患者は最近では断ることが多い。

 家内に言わせると、一般歯科の先生は、3歳児の反対咬合の患者がくれば、ムーシールドによる治療を行い、費用を単純に請求するだけで、18歳まで面倒をみるという気はさらさらないし、そもそもそんなことは考えないと言う。確かに日本の保険医療は全て出来高払いであり、症状があればそれを治療してその対価をもらう構成となっている。一方、矯正に費用体系は、世界中、概ね請負制度で、治すまでの費用を請求する。すなわち一期治療が20万円、二期治療が20万円とすれば、使用する全ての装置費用はこれに含まれる。よく考えれば、医療分野でこうした例はあまりなく、患者も歯科医も出来高払いの制度の方がむしろ慣れており、矯正のような請負制度には馴染みはない。

 ただ一部の一般歯科の中には、こうした請負制度を理解せず、料金だけ矯正歯科医と同じような料金体系を利用している例がある。その場合、乳歯から治療を始め、永久歯が逆に生えれば。それを治し、さらに叢生になれば、マルチブラケット装置で治す。それら全ての加味したのが請負制度であり、料金体系なのである。それゆえ、請負制度の料金体系をするなら、成長期の一期治療で治らない場合、二期治療はできないとは言えない。例えば、一期治療でうまくいかなければ、請負制なので二期治療でカバーすることになる。こうしたことを理解せず、法外な治療費を請求する歯科医院があるが、無責任といえよう。請負制度を取りながら、途中で私の技術では請け負えないと言うのは話にならず、もし請負制の料金制度にするなら最初から、例えばマルチブラケット装置による治療はできない、外科的矯正はできないなど、自分の治療の限界を十分に患者に説明すべきであろう。

 患者の方も、こうしたことも確認せずに、歯科医の言われるまま治療を行い、不満を言うのは問題で、矯正治療をするのであれば、何軒か、治療をしている歯科医院に相談し、よく説明を聞くべきである。装置ごとの費用であれば、仕方ないが、基本治療費として大金を請求されるなら、それがどこまでカバーしているのか聞くのは、当たり前のことであり、それさえしないで、後で文句を言うのもおかしい。乳歯列で反対咬合の治療行うのはエビデンスの点では問題があるが、やること自体は別に構わない。ただ最終的には永久歯のかみ合わせが正常になることが目標なので、まず1。永久前歯が逆になった場合、どうするのか、2。永久歯が全て萌出して、でこぼこ、あるいは反対咬合の場合はどうするのか、3。いつまで治療、管理をするのか、この三点については必ず質問し、その費用について尋ねておくべきである。正解は、1。永久前歯が逆になれば、その時点で再度、違う装置で治療する。2。抜歯も含めて、その時点で、もう一度検査して、マルチブラケット装置による治療を行う、3。骨格性反対咬合の場合は、下顎の成長が終了するまで、男子で18歳くらい、女子で16歳くらいまで見ていく必要がある。もし永久歯になり、マルチブラケットによる治療が必要なら、矯正専門医に紹介すると言われたなら、もちろんそこでの治療費は全くの新患扱いになり、これまでかかった費用は無駄になる。そうした場合の返金があるかも確認すべきであろう。早期治療費が30万円かかり、マルチブラケットによる治療が必要な場合は矯正専門医に紹介するなら、最初から矯正専門医に行った方が結局は安く済む。

 矯正治療は緊急性が全くないので、もし子供の歯並びが気になるなら、あちこちの歯科医院を受診し、色々な質問をして納得してから歯科医院を決めるべき、そして一旦、治療を始めたら、その先生を信頼して治療を最後までやってほしい。

2020年8月5日水曜日

口腔機能発達不全症



 私が初めて原稿料をもらったのは今から三十年前、1990年のことで、「子供と家庭」、「こどもの栄養」の二誌に“食物がかめない、かまない子供—食べる機能の発育不全”(27:38-43,1990, 423:2-7,1991)を書いた時で、同じ原稿で二雑誌分の原稿料をもらい嬉しかった。当時、咬まないで飲み込む、かめない子供のことが騒がれ始め、そうした実情と問題点をこの論文で述べた。その後も、しばらくは鹿児島のあちこちの養護の先生や栄養士から依頼されて、そうした話題について話した。

 最近の哺乳瓶は、より母乳哺育の機能に近い構造となっているが、以前の哺乳瓶はもっぱら吸う機能のみであり、哺乳瓶哺乳と母乳哺乳では、舌、口唇の使い方が全く違っていた。そのため、1990年頃に私がいた鹿児島大学やそれと関係する東京大学の先生方と開発したのが、今でもあるビーンスタークで、母乳を飲むときの口腔の機能を再現できるようになっている。最初は大塚製薬で出していたが、今では雪印でも販売しており、人気は高い。それでも哺乳から離乳への発達はなかなか難しく、おちこぼれる子供は多く、硬いものがかめずに吐き出す、あるいは丸呑みする子供がいるし、チューンガムをうまくかめない子供もいる。また不正咬合と直接関係する舌の機能異常も多い。具体的に言えば、水やつばを飲み込んだりする時に舌を歯と歯の間に入れる舌突出癖という嚥下障害がある。小さな力だが、一日に何百、何千回もこうした癖があると、歯列にも影響して、前歯が開いている開咬という不正咬合となる。

 う蝕も減ってきたせいか、こうした小児の口腔機能不全の診断、治療に対して2、3年前に保険点数がついた。とてもいいことであるし、早期に改善することは大きな意味を持つ。まず、かむ能力(咀嚼能力)、飲み込む能力(嚥下能力)に問題がないか、種々の計測装置を使って調べ、それに対する改善法を指導する。子供への指導であるので、気長で、根気強い指導が求められる。口で大まかに指導するくらいなら簡単であるが、医院全体でシステマティックに扱うとなると、かなり大変で、特にこうした機能訓練だけでは、形態の変化、具体的に言えば、前歯が開いている開咬状態がよくなることは少ない。矯正歯科の分野でも20−30年前に舌機能訓練を診療の中に取り入れるところが多かった。私のところでも、機能訓練の講習会に出たり、習った方法を色々と試したが、結局は、今はチューンガムを使った嚥下指導を時たまするくらいで、かっての熱気はなくなっている。全国の多くの矯正歯科医に聞いても同じよう状況である。そうした訳で、最近、こうした機能評価、訓練が保険で請求できるようになっても、矯正歯科医はあまり乗ってこないのは、過去の失敗から来ている。おそらく保険に導入されることなり、初めて機能評価や訓練をする先生も多いかもしれないが、ずっと根気よく続けるのは患者だけでなく、歯科医側もしんどい。

 一方、口腔機能発達不全小児ついては、その評価、診断と訓練、指導を主眼においており、必ずしも不正咬合の改善をうたっておらず、ある意味、切り離している。つまり咀嚼、嚥下機能などを訓練し、それが治癒あるいは改善がなければ中止でおしまいである。噛み合わせとは関係はない。ただ実際は、患者、歯科医ともに不正咬合とこうした機能異常を関連づけるために、自然と訓練だけでなく、矯正治療そのものに移行するし、あるいは訓練に必要な装置として、各種の既製品の矯正装置が使われる、矯正治療が必要となるとセファロ撮影などの検査も必要となる。これらは全て保険の適用されない自費治療となるため、限りなく混合診療の状況となる。厚労省が適応する新たな保険診療は、無意味なものが多いが、口腔機能発達不全小児に対する機能評価と治療に関しても、矯正治療が保険になっていないのは片手落ちであろう。開咬の治療でも、タンクリブのような補助器具や、あるいはセクショナルーアーチとゴムで前歯のかみ合わせを治してから治療するのは一般的であり、まず舌が入らないようかみ合わせを治しながら、嚥下指導を行うべきである。前歯が開いているので歯科医院に行き、保険で機能訓練を受けたが、結局、前歯は開いたままであれば、患者やその親は納得しないであろう。そもそもこうした機能的な問題による不正咬合は、種々のタイプの不正咬合の中でも最も治療が難しいもので、一般歯科での矯正治療は勧めない。それ故、最初は近くの一般歯科で保険診療による機能診断、訓練を受け、自費での矯正治療に勧められ、いろいろな治療を受けても治らないということになる。患者には期待だけさせ、治らないということもありうる。すなわち矯正専門医はこうした口腔機能訓練が保険の適用になっても自費診療をするし、一般歯科では口腔機能診断、訓練を保険でするが、矯正治療により治すことはできない。こうしたこともあり、口腔機能診断や訓練を行う場合は、形態的な改善は少ないことを最初に説明した方がよかろう。

2020年8月3日月曜日

香川芳園 2

兵庫県漁具図解 香川芳園の画風とは違う

香川芳園 イタリアのオークション


 天保十一年(1840)に京都府上京区西大路町に住む宇野助順の子として生まれる。宇野助順の名は、「勧修寺経理日記」に見られることから公家に使える人か。その後、香川行徳の養子となり、香川姓を名乗る。画は望月玉川(1794-1852)に学び、玉川の号、輝に慣い、江戸後期の画家、西山芳園と間違えられぬように芳園輝を名乗る。玉川の没後は、さらに岸岱(1782-1865)に学ぶ。明治になり、塩川文麟(1808-1877)や長谷川玉峰(1822-1879)にも習ったかもしれないが、明治四年くらいから大阪、神戸で弟子を取るようになり、さらには濱田氏(誰か不明)の依頼により外国人向けの作品を売るようになった。現在、海外の美術館にあるのは、この当時の作品であろう。近江、伊勢、尾張、紀伊などをめぐり、知見を深め、明治十六年には神戸市の依頼で兵庫県下の漁業の記録をとり、さらには京都府画学校に出仕した。養子先の香川行徳という人物であるが、略歴は全く不明であるが、京都の歌人、香川家、香川景嗣、景樹との関係もありうる。亡くなったのは明治40年(1907)だが、日本美術院など何らかの画家集団に所属することもなく、明治16年以降、何をしていたかは不明である。

 他には「蝦夷風俗絵巻」、「北海道土人風俗図」を描いた(明治30年9月)を描いた橋本芳園という画家がいる。絵巻の巻末に“明治二十六秋八月下旬、北海道根室国標津郡標津村於国支店写之 応需 芳園”とある。なかなかうまい絵を描くが、香川芳園と署名、印が全く違うので別人物と思われる。

 大英博物館にある”芳園輝“の作品は1913年にGwynne-Evans William という人がArthur  Morisonが集めた作品を購入して博物館に寄贈したとある。アーサー`・モリソンはイギリスで作家として活躍した人物で、日本美術に興味を持ち、コレクターとなった。おそらく収集し始めたのは1890年後半以降、すなわち明治30年以降と思われる。モリソン自身は日本に行ったことがなく、収集はもっぱらイギリスであった。大英博物館にある”芳園輝“の作品は、もし香川芳園であれば、明治16年以降に香川芳園が描いたのかもしれない。署名から分類すれば、1。 西山芳園の楷書の優しい署名、2。芳園輝、芳園平吉輝”など海外の美術館にある作品の署名、3. 2と非常に似ているが、やや違う香川芳園の署名、4。 それ以外の贋作、あるいは“芳園”とする画家の作品の4つに別れる。2.3が、一緒かどうかが論争の焦点となる。2と3が違うと仮定した場合、西山芳園、香川芳園とは別の第三の芳園が存在しなくてはいけないが、明治期の画家でこれまでそうした人物がいない。逆に印が2と同じで署名が3であれば、2と3は同じともいえ、中国のコレクターの絵がこれに該当するのだが、署名は2とも3とも似ているが、同じではない。同じ画家でも年代により署名は変わり、こうした方法では解明は難しい。

 ほとんど記録のない画家について、その作品だけから調べるのは非常に難しく、同じ画家であっても年代によって署名、印象はかなり違うし、また作風も異なる。まずは海外にある“芳園輝”と香川芳園との関係を立証しようと考えているが、確実な証拠がない。

2020年8月2日日曜日

香川芳園 1

香川芳園  猿田彦?

弘前昇天教会 レンガの表現がキモ


 数年前からアメリカ、シンシナティー美術館のキュレーターの方と一緒に、ある画家のことを調べている。“芳園”という号を持つ画家で、シンシナティー美術館には”芳園平吉輝“と”芳園輝“の署名のある二つの作品がある。この作品は江戸後期の西山芳園の作品ということになっていたが、どうも画風や署名、印章も違い、“芳園”という号の別の画家が描いたものと推察された。そこで“須藤かく”のことで面識のある私に調査を依頼された。もちろん私はただの歯科医で、美術史に関しては全く素人であるが、文献の調査は郷土史の研究と同じ手法なので、この調査に協力することにした。また誰かはわからないが、自分の作品が、他の作家の作品に間違えられたままでいることは、故人にとっても歯がゆいことと思われるので、何とか供養の為にも解明してみたい。

 “芳園”の海外の作品を調べると、大英博物館に多くあり、ネットでも見ることができる。それを調べると、明らかに西山芳園と画風の違う“芳園輝”の署名のある二点と“芳園平輝”の署名のある作品の計3点ある。いずれも円山・四条派の華麗な作品で、西山芳園の間の大きい作品とは全く違う。署名にも“芳園輝”とシンシナティー美術館同様に“輝”の字が入っている。また2点については“應濱田氏需”の文字が入り、濱田という人の依頼で描かれたことがわかる。さらにイギリスのヴィクトリア・アルバート博物館にも“芳園輝”、“應濱田氏”いう署名の入った鷹の絵があり、この絵のことを記載している「秘蔵日本美術大観」の解説で、東大名誉教授、河野元昭は、この絵は西山芳園とは落款、画風が違うという疑問を呈している。さらにアイルランドのチェスター・ビーティー・ライブラリーには、動物、人物を描いた絵巻があり、“芳園輝”、“應濱田氏需”の署名がある。つまりシンシナティー美術館、大英博物館、ビーティーライブラリーにある6点については、いずれもほぼ同じ時期の作品群と思われる。

 他に“芳園輝”の入った作品は、私が5年前にヤフーオークションで落札したものがあるが、印章は“淳子澣印”で、海外の美術館のものとは違い、別の作者か、贋作、あるいは同じ作家でも制作時期が違うのかもしれない。その後、中国のコレクターの方から連絡があり、その方がオークションで落札した作品は、大英博物館、シンシナティー美術館と同じ印章で、署名に“芳園”と書かれた作品であった。印が同じなら、同じ作家の可能性が高い。そうなると“芳園輝”の署名だけではなく、“芳園”の二文字の署名のものも広く調査する必要がある。明治時代の画家を調べると、ほとんど作品、経歴がわからない香川芳園という画家がいる。他には浮世絵画家の野村芳園の名も検索で出るが、これは野村芳國の間違いである。香川芳園の署名のある作品は、イタリアのオークションに出ているものと今回私が購入したものの二点である。印章は“平蟾麿”、署名は“京都府画学校出仕 香川芳園”とある。画風からほぼ同じ時期、香川芳園が京都府画学校に出仕したのが明治17年8月なので、それ以降の作品か。さらに菊池芳文へのインタビューで「十六歳位で言いましたか、それで二十歳の時まで、滋野芳園というに就いてやりました。處が其後、先生が西國へ転じられて、行衛がわからん事になりましたので。——」とあり、菊池芳文は文久二年(1862)生まれなので、彼の師匠、香川芳園は1878年から1882年まで、つまり明治11年から15年まで大阪にいて、その後、大阪より西に移ったようである。滋野芳園は雅号を蟾麿(ひきまろ)といい、香川芳園と同じ画号で、こんな変な雅号を持つ人はいないので、同一人物である。また神戸の小西辰二郎香翠という画家が“明治四年より画を香川芳園蟾麿に学び”、また小西常次郎芳秀は“明治九年より画を香川芳園蟾麿に学ぶ”との記載があり、この頃は神戸—大阪間といえどもそう簡単には往来できず。明治四年から九年頃は神戸に住んでいたのかもしれない。また大阪の画家、岡島喜三郎香園の略歴では、“明治十一年より滋野芳園に学び、同十四年八月より田能村小斎に随い、後また専ら芳園に学ぶ”とあり、十一年より十五、六年まで大阪で弟子をとっていたのだろう。菊池芳文のインタビューと一致する。さらに香川芳園の略歴では“天保十一年三月十七日生なり、画を望月玉及び川越前守岸岱に学び、近江、伊勢、尾張、紀伊、摂津などを遊歴し、明治十六年兵庫県の命により同県下川海漁労漁具及び産魚の真写二百枚を製す”とある。これを信じれば明治十六年頃からは兵庫県の名で水産関係の仕事をしていたことになる。調べると第二回水産博覧会に神戸市が提出した「兵庫県漁具図解」があり、ネット上で関西学院大学が公開しているが、作者はわからない。これらの資料から香川芳園の履歴を想像してみたい。

2020年7月22日水曜日

ヤフーオークションの闇

落札数が400以上ということは、同一業者からの落札はカウントされないルールを考えると、月に20以上は落札していることになり、通常ありえない。


 10年ほど前からヤフーオークションをよく利用している。主として掛け軸を買うことが多いが、カメラや家具、陶器など様々なものをここで買っている。これまで特に騙されたこともなく、たまには失敗もするが、それはこちらの判断違いであり、出品者のせいではない。ヤフーオークションの特徴は、どんなに安くても、例えば1000円でも落札者が一名しかいないと値段は1000円となることで、競う相手がいないと本当に安い値段で手に入る。私が集めている土屋嶺雪や近藤翠石なども随分安く手に入った。これらはあまり有名でなく、競合者も少ないからであろう。ところがここ1、2年、昔のような極めて安く手に入ることは難しくなってきた。原因はわからないが、以前なら数千円くらいで落札されたものがその数倍でも落札できなくなってきた。理由の一つに、極めて落札数の多い何らかの集団がいるようだ。個人の収集家であれば、いくら骨董好きとはいえ、落札数は300を超えることはない。ところが最近の落札者には40000や70000を超える落札者がいる。同じ出品者からの落札は一つに数えられるので、私がよく買う会社のものは10点くらい買っても落札数は1であるので、この70000を超える落札数は異常である。おそらく可能性としてはオークション代行会社のものか、出品者と結託した同業、骨董商のものと思われる。個人の入札者は落札数が少なく容易にわかるので、ネットの骨董商同士が値段をつりあげることことも可能である。昔は入札者の過去の落札品もわかったので、その傾向がわかったし、500を超える落札数はなかったが、落札者の情報が表示されなくなると同時にこうした怪しげな入札者が増えてきた。あるいは日本のヤフーオークションは海外からの参加は基本的には認めていないが、中国の代行会社から落札が増えたせいかもしれない。というのは日本の古い西洋画についてはあまり落札数の多い入札者は少ないが、中国もの、日本の掛け軸ではこうした入札者が増える。先日の伊藤若冲とされる掛け軸では、20人が落札に参加したが、このうち落札数が400を超える者は9人で、最高は76646であった。入札額が80000円まではいいのだが、そこから400以上落札数の入札者が三人200000円まで値を上げ最後は落札数74の個人が206000円で落札した。以前であれば、こうした場合も個人の入札者だけの競合であったので100000円以上になることはなかったし、この絵に関すれば2、30000円くらいであろう。こうしたこともあり、最近はヤフーオークションもプロがアマチュア個人を騙すようなところに見えてきて嫌いになってきた。

 話が変わるが、以前から調べている“謎の芳園”について少し新しい情報が入った。大英博物館やシンシナティー美術館にある“芳園輝”の署名のある西山芳園とされるコレクションの多くは、画風やサイン、印鑑より西山芳園でなく、別の芳園であることがわかったが、それでは誰かというと、はっきりしない。可能性としては江戸後期から明治にかけて作品を残して“香川芳園”という人物がいる。この人物、ひどい作品も多く、果たして香川芳園が“芳園輝”かはっきりしない。ところが最近、イタリア、ヴェネチアの東洋美術館が所蔵する3つの“芳園”署名のある作品について同館のSilvia Vescoさんが解説し、謎の芳園について論文にしている。結論ははっきししないが、私のブログも参考文献として引用してくれている。もう一つはボストンの美術商、松木文恭の日本美術のカタログ(1898)に”Kagawa Hoyen”の名が出てくる。ここでは”Kagawa Hoyen was born in Kiotoin,1820. He was to have inherited the title of Baron from his father, Baron Kagawa, but the artistic instinct in him was so strong that he renounced his heritage and became a painter. He studied first with the famous Shibukawa Bunrin and later with celebrated Giokuho. He was been the instructor of painting in the Kioto Art School for more than fifteen years. He work is highly regarded by modern painters.”となっている。Baron Kagawaに該当する人物として香川敬三男爵がいるが年齢が違う。また香川芳園の生年月日は天保11年3月(1840)で、これも20歳も違う。塩川文鱗(1808-1877)は幕末、京都を代表する絵師だが、Giokuhoは四条派の長谷川玉峰のことと思われるが、1822年生まれで、香川芳園より若く、師匠としてはふさわしくなく、むしろ“輝”の名を持つ望月玉川(1794-1852)の方がふさわしい。他の文献では香川芳園の師は、最初は望月玉川、その後は岸岱に学んだとされている。香川芳園は、海外向けの美術品カタログに取り上げられているように外国人に人気のある画家で、海外の美術館にある作品には”芳園輝“の署名があるが、これは海外向け作品に使用された署名、落款なのかもしれない。ただ日本では画題が陳腐で、また号の同じ西山芳園と混同されることも多く、日本の美術館に収蔵されている作品はない。不思議な作家である。

2020年7月17日金曜日

弘前のコロナ感染騒ぎ

旧弘前図書館

トレース水彩画もだいぶ慣れてきた



 ここ数日、青森県は新型コロナウイルス関係のニュースで持ちきりである。まず今月の9日に茨城県在住の20歳代の女性が青森市内で38度の熱が出て10日にはPCR検査で新型コロナウイルスに感染したことがわかった。この女性はいわゆる店舗を構えない派遣型の風俗店(デリヘル)に勤務しており、7月3日に東京、新宿のホストクラブで遊び、そこで感染した。問題はここからで、関東での仕事が少ないため、彼女は東京から青森市に出稼ぎにやってきて、7月4日から8日までの5日間に30名の接客をした。この接客者の多くは青森市の客であったが、中には弘前市、黒石市の客もいたようで、県や市では濃厚接触者を血眼になって探した。

 この女性の源氏名と店名は、感染発表に数時間後には早くもツイッターや掲示板で判明し、瞬く間に青森県中に広がった。保健所ではデリヘリ店から客の電話番号を入手したが、18名については連絡が取れない。この段階で県民からは誰がこのデリヘリを利用し、いつ感染するかが話題の中心となった。そしてついに、昨日、青森県警の警察官が感染したことがわかった。この20歳代の警察官は7月8日にこの女性と濃厚接触し、15日には発熱と味覚異常により、救急搬送されてPCR検査を受けた。結果は陽性。この警察官は11日から13日には休みで自宅にいたが、14日からは出張で十和田市に行き、同僚4人の警察官らと居酒屋、その後、スナックで飲んだ。居酒屋、スナックの客、すべてが濃厚接触者となった。さらに十和田署そのものを消毒し、そこの職員は自宅待機となった。こうした大騒ぎを起こした責任から、この警察官の今後の処分は相当、厳しいものだと思われる。

 この騒ぎの翌日、7月17日に起こったのが、今回の弘前市の青森銀行従業員の感染疑いである。お昼頃に弘前市にある青森銀行松森支店の従業員が昨日から体調不良で新型コロナウイルスが疑われるというニュースが報じられた。すわデリヘリ嬢から感染者か、あるいは先の警察官の恋人かと、ツイッター上で大騒ぎになった。通常、銀行の行員の体調が多少悪くなったからという理由で、まだ感染が確定しない時点で、支店を臨時休業にすることはないだろうし、またマスコミに銀行名で正式に報告することはない。銀行側では行員の話から、かなりの確率で感染していると判断したのだろう。すぐにPCR検査をしたところ、今日の6時頃には陰性という結果となった。大騒ぎした割に何もなくて拍子抜けであるが、何もなくて嬉しい。これまで一人の感染者の出ていない弘前市では、その第一号は恐ろしいほどパッシングを受ける。この行員ももし感染していたなら、もちろん銀行はやめなくてはいけないし、そうした風評は家族がいれば、そのまま付いて回る。子供がいれば幼稚園や小学校でも常にそうした噂がつく。これは恐ろしい。

 東京では感染の疑いがある人のことでこんなに大騒ぎはしないだろうが、昨日の警察官では東奥日報の一面を飾り、地元ニュースでもトップニュースであった。今回の銀行員の感染に関してもお昼のニュースのトップで、ツイッターやラインでも一斉に広まった。弘前市の人口は十七万人でそんなに小さい街ではなく、住んでみての感想としてはそれほど田舎とは思わないが、こうした事件があるとその噂の伝達速度は驚いてしまう。それこそあっという間に広がる感じである。おそらくこの銀行員も高校、中学、あるいは会社の同僚などの口コミからいずれ氏名もわかってしまうのだろう。そうした意味では田舎で住むのは怖いところがある。