2014年2月7日金曜日

東北コンチキツアー


 外国人観光客というと、個人旅行、夫婦による旅行を思いがちだが、実際、日本に来る外国人観光客、とくにアジア諸国からくる観光客は団体旅行を望む。ひとつには言葉が全く伝わらないという不安感と、おそらくは初めての外国旅行という心配もあるのであろう。さらに言うなら、旅行の目的として、みんなの行かないところに行きたいが、どういう風にいくか、わからない、ちょっと怖いという思いもあるだろう。

 娘が海外旅行したいというので、探していると、アメリカ、ヨーロッパではやっているコンチキツアーという団体旅行、修学旅行が見つかった。例えば、「ヨーロピアン ホライズン」というパッケージは、イギリス、ロンドン集合で、そこからパリに2泊、スイスアルプスに2泊、ベニスに1泊、オーストラリアチロル地方に1泊、ミュンヘンに1泊、ラインバレーに1泊、アムステルダムに1泊の計10日間の旅行である。費用は1145-1289ドル、日本円で約12万円、かなり安い。というのは、この旅行は飛行機など使わず、1台のバスで上記コースをひたすら回っていくのである。宿泊ホテルはユースホステルやロッジなど比較的安いところを利用する。18歳から35歳と年齢が限定されており(一部ツアーは年齢制限がないが)、一人旅でも宿泊は同性の他の旅行者と同室となり、ツアーが終わる際には、みんな友人となる案配である。旅行者は各国から集まるので、語学研修、国際交流を目的に参加する日本人学生も多い。ツアーマネジャーもいるので、旅行地での多少のトラブルは回避できる。感想を見ると、旅行よりはそこで知り合った知人との思い出が多いようだ。

 実はこのコンチキツアーのアジアコースは、タイ、インド、ベトナムがあるが、日本がないのである。是非、日本版コンチキツアーをしてほしいところである。東京、大阪、京都といったありふれたコースは面白みにかけるので、ここは思い切って東北6日間旅行はどうであろうか。東京集合、仙台、松島(泊)、浄土ヶ浜、盛岡(泊)、八甲田、十和田(泊)、弘前(泊)、角館(泊)、秋田(泊)、東京、私の高校の時の修学旅行コースであるが、なかなか外国人が行かないコースである。春夏秋冬、なかなか見応えのあるコースであるし、十分にバスで移動できるであろう。このコースで朝食付きで600ドルであれば、東京にいる海外からの留学生も参加するかもしれない。ホテルはできるだけ安い日本旅館、お寺、民宿など、外人が絶対に泊まらないところがいいだろう。バスでの移動距離が長く、その間をいかに楽しめるか、そして現地で、いかに穴場のところを案内できるか、ガイドがポイントとなる。できれば中国人観光客には中国人のガイドが、タイの観光客にはタイ人が、欧米諸国は英語でいいだろう。

 バスでの旅行なので、例えば、弘前に来ても、弘前城、ねぶたの里、禅林街などあらゆる観光地にそのまま行ける。効率がよい。みんなで大鰐のワニカムに行ってもよいし、夏だったら、禅林街のお寺に泊まってもよい。

 確かにJTBなどによる外国人向けのツアーはあるが、結構高いし、東京、京都などのお定まりのコースが中心で、若者向けの安い団体旅行はない。こういった旅行は、各地に昼食、夕食代、おみやげなどの収入をもたらすので、訪問地の市町村による協力と財政的な補助があってもいいのかもしれない。

 団体旅行というと、最近は年配の方を対象にしたものが、多いが外国人観光客も含めて若者を対象にした新しい形の団体旅行を提案してほしいものである。

2014年2月6日木曜日

弘前藩領絵図 神社仏閣からの検討








 弘前藩領絵図には、6つの神社あるいは寺の絵が描かれています。いずれも森と建物の略図が示されています。弘前藩には多くの神社仏閣がありますが、敢えてこの6つのみ絵で示したことには何らかの意味があると思われます。ここではこの6つの神社仏閣について検討します。

1.  古懸山
碇ヶ関近くの山の中に「古懸山」と読めるところがあります。難しい漢字ですが、木編に曳に近い字の村があり、「しゅうむら」(2021.2 コメント指摘、 モチノキ)と読みます。享保11年(1726)に「古懸村」から分村したとあります。この村の東の山に「古懸山」があり、横には「石部」と書かれています。「唐牛村」との間から道があり、この寺に向かっています。これは明らかに現在の碇ヶ関「古懸山不動院国上寺」です。津軽三不動のひとつで非常に古い寺です。二代藩主の信枚によって不動院国上寺と名付け、祈願所としたところです。なお碇ヶ関には□のマークがあり、出湯と書かれています。

. 妙見
青森の横内付近に「妙見」と読めるところがあります。「金澤村」と「牛館村」の間くらいです。これは「横内妙見宮」(大星神社)でまちがいありません。ここも信枚が再建した祈願所で、由緒ある寺です。

. 高岡
これは「百沢」近く、岩木山麓で、「百沢寺」か「高照神社」でしょう。高岡は享保6年(1721)には5代藩主津軽信政の廟所として作られた高照神社の門前の町割りとして作られた集落ですが、古来この地は高岡と呼ばれ、ここでは高照神社より百沢寺の方が合いそうです。百沢寺は後に岩木山神社になりますが、津軽真言五山のひとつです。これも二代信枚が焼失した伽藍を再建しています。

4.久渡寺
これは弘前郊外にある久渡寺のことです。これも津軽真言五山のひとつで、ここも二代信枚が再興した寺です。どうもここまで信枚関係の祈願所の寺が選ばれているようです。

5.雷電
「治タテ」と書かれた村の海沿いに「雷電」があります。場所からして、平内町の「雷電宮」でしょう。くわしくは調べてください。

6.廣セ
私と同じ名前の「廣セ」という地名が、現在のつがる市の館岡から屏風山の方向にあります。ここがどこかが難しいところです。グーグルマップなどで探してみると、亀ヶ岡遺跡で有名な亀ヶ岡近くは、スイカが名産で、このあたりを広瀬山というようですが、地名としては全く残っていません。近くの神社仏閣を探すと、羽黒神社、洪福寺、雷電宮、弘法寺があります。当初は藩領絵図の場所に近い、羽黒神社が候補かと思いましたが、これまでの5つの寺をみると、どうも祈願所が選ばれているようです。そうすると平内の雷電宮と同じ名の雷電宮が候補に挙ります。ところが「奥富士物語」の中に、「広瀬宮」という名がでてきます。広瀬宮(広瀬明神、長浜村(出来島付近)—木造町、明治六年館岡村)と「奥富士物語の世界」(荒井清明)とあります。深浦の龍田宮(龍田明神)、五本松の加茂宮(加茂明神)、野内の貴船神社を合わせた4つの宮を郡内四社と呼んで、風雨順調、五穀豊穣を祈願したようです。「元禄十一年九月十八日、広瀬宮と龍田宮へ御棟札仰せ付けられる。同日、外が浜妙見宮御遷宮。古懸へ御棟札仰せ付けられる。翌十九日、五本松の加茂宮御厨子御建立」となっています。
広瀬宮、妙見宮、古懸山、すべて二代藩主の津軽信枚がかかわっています。ということは、弘前藩領絵図で描かれている「廣セ」の絵は、広瀬宮のことで、現在はなくなったものと思われます。場所は長浜村となっていますが、現在の七里長浜は完全に海岸線ですが、この絵からはもっと内陸の山にあったものと思います。

 以上のことから弘前藩領絵図に描かれている神社仏閣はすべて、二代藩主津軽信枚が関わっているものです。またいずれも藩の祈願所であった寺のようです。村名を調べていると享保年間(1716-1735)に改名した村が多く、享保10年から絵図が作られたことが、本田伸先生の論文からわかります(消えた松前 —未発見の津軽領元禄国絵図に関する小考—、北方社会史の視座 二巻、清文堂出版)。この中で「郷村帳並絵図改覚書」を細かく分析していますが、国絵図に相当する大型の絵図で、村名、村高なども描かれており、また村形は肉色にすること、木形を使い、大きさを揃える、一里塚は2つ星にすることなどが決められています。弘前藩領絵図では、村形には木形が使われ、色も肉色となっていて一致しますが、村高は書かれておらず、大きさも国絵図の半分くらいの縮尺です。享保年間の絵図の完成は享保12年(1727)以降と思われますが、国絵図のような3mを越える大型の絵図は、実用的ではないので、その縮小版として1/2の図を後日、作った可能性があります。享保絵図ができて早い時期にその縮小版が作られたとも考えられます。すると1727-1780年まで下限は下がるかもしれません。

 本日、図書館で現物を確認しましたが、折り目が前のブログで示したようにありました。薄い美濃版の和紙に描かれており、きれいに裏打ちされています。250年以上前にものであれば、かなりきちんと保管してきたようで、コンデションはいいと思います。古くて価値のあるものであれば、これもデジタル化したいと思います。専門家による確認をお願いしたいところです。


2014年1月31日金曜日

弘前藩領絵図 天災からの検討


 寛政四年1228(1793.2.8)におこった寛政西津軽地震は、震源大戸崎の約13kmを震源地とした推定マグニチュード6.9から7.1の地震で、鯵ヶ沢、深浦を中心とした西津軽で大きな被害をもたらした。この地震では地形変化もおこし、今では観光名所になっている深浦の「千畳敷海岸」もこの時に隆起したものとされる。さらに鯵ヶ沢の弁天崎はこの時の地震で海中に没したという。

 これは先のブログで述べた「字鉄崎」のケースと似ている。「弁天崎」は弘前藩絵図にも記入されており、これもこの絵図の製作年代が1793年以前という証拠になろう。

 「字鉄崎」もこの寛政西津軽地震と関連して崩壊したと考えていたが、どうもこの地震の被害は深浦、鯵ヶ沢付近に限定しており、三厩近くの字鉄崎まで地形変化をおこすほど大きな影響があるとは思われない。そこでその前の明和大地震(1766)かとも思ったが、震源地が弘前、黒石あたりで、内陸地震で断層線が竜飛岬方向に続くとはいえ、それほど大きな地形変化をおこすとは考えにくい。実際に三厩での被害は少ない。

 他の天災としては、津波がある。先の東日本大震災でも沿岸部を中心とした地形変化が起こったことは目新しい。そこで竜飛岬近くで起こった大きな津波を探すと、1741年におこった寛保津波がある。これは竜飛岬の北西部にある渡島大島が大噴火し、その山体崩壊により大きな津波が発生した。長谷川の研究(1741年に蝦夷地・北部日本海沿岸地域を襲った寛保津波)によれば、北海道の石崎では20mを越える大津波があったという。大島が津波の発生源とすれば、単純に考えると、字鉄崎からみれば北西からの津波となる。おそらくは石崎同様に20mを越える津波であったろう。三厩付近の村は沿岸にあるものの津波方向とは平行にあるため、村への直接の被害は少なかったかもしれない。ただ沿岸から突き出た岬については、もろに真横からの大きな津波を受けたに違いない。それにより岬の付根が浸食され、島となった可能性はある。

 弘前藩領絵図の作製年が、1790年以前ということは確実であるが、1741年以前かとなると否定すべき要素はないものの、あまりに古すぎる感じがする。大津波である程度、浸食されていたものが、その後、さらに波による浸食を繰り返し、いつのまにか陸と切り離されたと考えた方がよさそうである。ある時期を基点として一気に崎から島になったのなら、どっかに記録があってもよさそうである。

亀ヶ岡村(現つがる市)は享保11年(1726)に瓜生村と改称し、瓜生村の枝村が独立して館岡村となったとの記載がある。文化年間(1804-1817)に新たな別のところに亀ヶ岡村ができた。絵図では「瓜生」、「館岡」の名はあるが、亀ヶ岡の名がないところから、享保11年以降のものである。なお瓜生の西には「廣セ」と呼ばれる地名があり、そこには森に囲まれた建物の絵が描かれている。場所的にはつがる市の羽黒神社のようだが、この絵図ではよほど大きな神社でないと、あえて取り上げられず、この図が何かはわからない。

この絵図のおかしな点は、岩木山神社が描かれていないのに、平内の雷電には雷電宮らしき絵が描かれていたりする。神社については、次回もう少し検討する。高照神社横には高岡の地名があるが、これは高照神社の門前にできた地区で享保6年(1721)という。これも上記、瓜生村と同様に1720年以降の話である。

2014年1月29日水曜日

弘前藩領絵図 折り目からの検討



 弘前藩領絵図について、前回のブログでは、折り目が一切ない一枚ものであると述べた。ところが、知人から江戸期に作られた大型の絵図で、一枚ものはない、巻かれて保存することはなく、必ず折り畳んで蔵や部屋にしまわれていたはずだとの意見をいただいた。もし折り目が全くなければ、明治以降のものだと考えていいそうだ。

 実際、この絵図が自宅にあった時は、明治二年弘前絵図と一緒にボール紙の芯に巻かれていたため、折り目があるとは全く考えていなかった。ただ知人の意見を参考に、もう一度、写真をじっくり見ると、何カ所かに折り目のようなものが見られる。皺を伸ばした状態で裏から和紙によって裏打ちされ、折り目がわかりにくくなっているようだ(上図)。

 美濃判と呼ばれる大きさの和紙(37cm×27cm)を横に5枚、縦に6枚、貼り合わせて、195cm×164cmの紙を作り、おそらくは下地処置をした上で、描写、彩色していっていたものと思う。

 折り目については、横は3つ、縦は3つの折り目があるようだ。横については比較的はっきりとした折り目がわかるが、縦の折り目がはっきりしない。ただ“小泊”の南、“野内”の南の折り目の交差部に修復箇所があり、こういった折り目の交差部分は破損しやすい点に一致する。これらから絵図は縦、横とも2回ずつ折られて、保管されていたと推測され、その場合の大きさは横49cm、縦41cmとなる(下図)。この大きさなら十分に折り畳んで保管できる。

 さらに折り目から推測すると、前回のブログでは四辺がカットされているのではと述べたが、完全に大きさは一致し、カットされたという推測は否定される。

 絵図上の村から推測した作製年代は1760-80年としたが、おそらく幕末、明治初期ころに裏打ちして一枚ものに仕立てたのであろう。補修箇所が何カ所見られる。裏打ちし、補修し、一枚ものとした方が机の上などで見るには都合が良かったのであろう。どういった理由で、この時期に古い絵図を裏打ちして補修したのかはわからない。ただ保有者が、楠見家に繋がる関係から廃藩置県に伴う弘前藩の政策上、必要な絵図であったのであろう。

 現物を実際に見て、確認しなければいけないが、弘前藩領絵図には折り目があるようで、絵図のタイトルがないほかは、ほぼ江戸期に作製された絵図と考えてよさそうである。オリジナルか、複写かははっきりしないが、タイトル、作製年度は絵図の裏に書かれていて裏打ちの際に見えなくなった、あるいは当初は表紙、箱書きがあったものが、裏打ちされ、一枚ものになった際に表紙、箱が紛失した可能性もある。

 幕末期、明治初期に補修し、裏打ちされたとすれば、製作あるいは模写された時代はそれより古く、“東西南北”、“南部領、秋田領”の加筆以外は、案外、オリジナルの可能性もある。というのは幕末、明治初期に補修されたものであれば、少なくともこの時代からは相当古いものであることを意味する。明治二年が1868年であるから、この50 年前とすれば1816年であり、オリジナルの推定製作年代は1760-80年とすれば、近い。明治二年弘前絵図には破れや補修箇所もないことから、保管状態は良好で、145年たっても維持できていることからも、和紙の寿命は長い。仮に250年前に作られ、150年前に一度修復補修されたといっても十分に信じられる。さらに岩木山はじめ、山や海岸線の岩の表現様式が大和絵風になっており、時代の古さを感じさせる。

ここまでわかったこととして
. この弘前藩領絵図は、これまで知られている国絵図、分間絵図とは地形が異なる。
2.天明飢饉(1784)により廃村になった7つの村のうち6つの村名が認められる。
3.寛政の新田開発(1800)に新たにできた21の新村についての記載はない。
4.三厩近くの「ミサゴ島」は「字鉄崎」、竜飛岬(龍濱崎)の小島「帯島」のアイヌ語に基づく「ヨンヘイ島」と、1800年以降見られない古い呼名が使われている。
5.縦横、それぞれ3つの折り目と、折り目に沿った数カ所の破折部があり、裏打ち、修復され、一枚ものとなっている。
6.同封されていた「明治二年弘前絵図」と一緒に、明治初期からこれまでずっと保管され、その間に修復などはなかった。
7.美濃判による和紙30枚を貼り合わせたもので、縦横2回ずつ折られ、195cm×164cmの絵図が49cm×41cmになったと推測される。四辺の切取りはなく、絵図の題、作製年月日の記載はない。
8.以上のことから弘前藩領絵図は、1780年以前、おそらくは1760-80年代のオリジナルあるいはそれ以降の写しと思われる。


時代の上限について、地名から検討しているが、今のところ大きな進展はない。弘前藩領絵図上で、新田と名付けられた地名は、「折紙新田」、「蝦名新田」(蛇石新田の間違いでした2014.3.2変更)、「堀越新田」の3つで、いずれも大鰐組に属する村である。「続つがるの夜明け 中巻」に載っている宝暦年間の「陸奥国津軽郡御検地水帳」(1754)には大鰐組にはこういった新田村の名はない。折紙川、虹貝川に沿った小さな村で、村ができた時代がわかれば、もう少し上限は絞られる。

なお、広田組、赤田組、後潟組などの組分の主要村の地名は、絵図では小判型の図が赤く縁取られている。小判型には赤色と黄色があるが、どういった意味をもつのかははっきりしない(村の大きさ?)。 

さらにこれは証拠とは言えないが、天明4年(1784)「山所書上覚」(諸山之上山通より西之浜通迄中山通より外浜通古懸山迄御山所書上之覚)に見られる西之浜地区の16の村領惣山名、中村沢目村(中村、口に巴)、赤石沢村(赤石)、大童子沢村(大童子)、関村、金井ヶ沢村(金井沢)、田野沢村(田沢)、晴山村、風合瀬村(風合セ)、轟木村、追良瀬村、広戸村、深浦村、岩崎村、森山村、松神村、黒崎村などの地名は絵図上にすべて記載されている(()は記載名)。

2014年1月21日火曜日

私のI-Mac 履歴







 ようやく新しいI-Macが軌道に乗ってきた。4年前に買ったMac Book Proからの移行にはストレスがかかったが、結局、ハードディスクに入っていたTime-machineからデーターを取り込むと2時間ほどで簡単にデーター移行した。拍子抜けするほどであった。Mac book Proのバッテリーが低下し、そのためスリープを解除してもデーター移行中にスリープするのが原因と思われる。

 新しいI-Macは処理速度も早くなり、本当にストレスなしに仕事ができる。さらに光通信を入れたことで、インターネットも楽しい。欲を言えば、立ち上がりやアプリケーションのサクサク感はソリッドステートを使ったMac Book Airには及ばない。Airは本当に早い。

 一方、新しいI-Macで驚いたのは音質が非常によい点である。当初はCP本体の内蔵スピーカーなどたかが知れていると思い、小型の卓上スピーカーを物色していたが、1万円以下のスピーカーであれば、遜色はない。確かに低音はでないし、ピアノの音質もリアル感は全くないが、それでもヴォーカルはそこそこ聞かせる。仕事しながら音楽、特に女性ヴォーカルを聞くのであれば、十分であろう。またMac Book Airは11インチのため、老眼の私には文字のズーム機能を多用するが、I-Macではそんな心配もない。

 最近はMacも一時の驚きが少なくなってきたが、それでもI-Macに附属するワイヤレスのキーボードや、マジックマウスの性能には驚いた。画期的なものである。さらに新しいOSでは音声入力もすごいが、日本語読み上げ機能が入っている。90%以上の精度で文章を読み上げてくれる。こうして打った文章を訂正するのには使いよい。

 デスクトップのコンピューターは、最初はappleLC630から始まった。開業してすぐに買ったもので、周辺機器も含めて30万円くらいかかった。開業当初の出費としては痛かった。当時は、週に患者さんも10人程度で、ほとんどの時間を、このコンピューターでゲームをしていた。「提督の艦隊」シリーズにはまり、十回くらいはアメリカ占領までいったと思う。このゲームは戦争ゲームとしてはよくできたもので、今でもたまにはやりたいと思うが、もはや動かすコンピューターがない。その後、ボンダイブルーの初代I-Macに買い替えた。この機種は美しいコンピューターで中の機械はほんのり輝く。さらに二代目のI-Macは半球体のG4でこれも美しいデザインで、おまけについている円形のスピーカーは今でも懐かしい。音も当時のコンピューターとしては際立って良かった。そして最近まで使っていたのがI-Mac G5で、ディスプレイ一体型で、コンピューター本体がないのが革新的であった。そして現行のI-Macと4台目となる。大学時代もApple Clasicを使っていたので、appleとの付き合いは30年近くなる。いつも驚きを与えてくれるメーカーであるが、スティーブ・ジョブ亡き後、やや革新的な進歩がないように思えるのは私だけであろうか。それともコンピューター産業自体がそろそろ停滞期にさしかかったのかもしれない。

 コンピューターという道具は、最新のツールであり、本来は若い人が得意で、年配は苦手というものであろうし、私自身もこれまで、そう思っていた。ところがうちの娘もそうであるが、若いからといってコンピューターに詳しいわけではなく、むしろ50歳くらいの方の方が、金がありすぐに新しい機種が買えるせいか、くわしい人が多い。ブログ、ツイッターやインターネットショッピングも主役は40歳、50歳、60歳と聞く。若いひとも含めてコンピューターの活用は、世代差より個人差の方が大きく、これをどれだけ活用するかで人生そのものも変わるかもしれない。コンピューターだけは早く始めたから、くわしいものでもなく、全く初心者でもI-Macを買えば、すぐに最新のパーフォーマンスができる。この機種は値段も含めて、すべてのコンピューターの中で、最もコストパーフォーマンスは高い。いまだにwindowを買う人もいるようだが、はっきりいって最新のOSでも機能は、マックの数世代前にもので、初心者にこれほど使いにくいものはない。

2014年1月16日木曜日

弘前藩領絵図 文字からの検討



 江戸時代の書物というと、いわゆる“崩し字”が使われ、私のような知識のないものには、ほとんどわかりません。古絵図を見ていても、こういった文字で書かれていると、すぐにギブアップしてしまいます。江戸時代の人は、こんな難しい字をよく読めるなあと思っていましたが、実は江戸時代の庶民にとっては“崩し字”、行書(含む草書)の方が楷書より、慣れ親しんだ漢字だったようです。寺子屋では“後家流”と呼ばれる行書が教えられ、今の主流の漢字である楷書は唐様と呼ばれ、儒学者など一部の人々のみに使われていたようです。

 弘前藩領絵図は、明治二年弘前絵図と一緒に巻かれて保存されていたこと、使われている漢字が楷書(含む異体字)であったことから、ほぼ同時期(明治初期)に製作されたものと推定しました。ただ弘前藩領絵図の方が、使われている和紙が厚く、日焼けもしていましたが、これは明治二年弘前絵図の外巻きに使われ、日焼けしたためか、やや製作が古いためだと考えました。「明治二年弘前絵図」でもそういった記述をして、むしろ明治国絵図との比較をしました。ところが茨城大学の小野寺教授に写真を見てもらったところ、明治国絵図とは様式が違うとの返答でした。確かに国絵図での書式の決まりには、当てはまりませんし、紙の質感、雰囲気も違うようです。

 最近、弘前藩領絵図をもう少し調べたところ、記入されている地名などから、1760-80年ころ、年号でいうと明和から安永ころの絵図の写しと考えました。1800年前後、北海道が注目され、測量、地図作りが盛んに行われました。間宮林蔵、伊能忠敬などのビックネームはこの頃の人です。そこで当時の古絵図を調べていくと、どうも国絵図では行書で書かれていたのが、この頃の多くの絵図は楷書で書かれています。伊能図もそうですし、日本で最初の本格的な日本全図、「改正日本輿地路程全図」(1779, 長久保赤水)もそうです。長久保赤水の研究(http://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/h21/uesugi.pdf)を見ると、製作過程の日記や絵図の説明文は行書で書かれていても、絵図の地名はすべて楷書で書かれています。これは測量、絵図製作という当時としては、最先端の事業において、現在の英語表記のように、唐様の楷書を使ったのかもしれません。また行書では崩しの少しの違いで読みが異なるため、地名のようなより正確な読みを必要とする場合は楷書の方が良かったのかもしれません。

 こういった考えをすれば、弘前藩領図を楷書で書かれているからと言って、幕末期の製作、模写と決めつけることはできなくなります。可能性としては明和から幕末までの模写、あるいはオリジナルである可能性もあります。最大、今から250年前まで遡れるかもしれません。ただこういった絵図には、模写にしても、どこかに製作年度、タイトルが書かれているのが普通です。表面あるいは裏にです。ところがこの弘前藩領図では一切、こういった記入はありません。

 絵図上には東西南北の記入がありますが、これは明らかに図中の字とは書体が違います。さらに西、東の字の一部が切れていますし、北、南の字についてもこんなに端に書くこともなかろうと思います。これは原図をカットしたと解釈できるのではないでしょうか。カットされたところに製作年度やタイトルが書かれていたのかもしれません。一方、弘前藩領絵図は明治二年弘前絵図とともに、折り目が一切なく、巻かれた状態で保存されていました(一枚もの)。通常、絵図は大きいため折り畳んで保存されます。弘前藩領絵図の大きさは、195cm×164cmで、厚い紙なのでくるくるっと巻いて紐で縛り、立てかければいいのですが、250年間も巻かれた状態で城内に保存していたとは、ははなはだ疑問です。

 こうなると弘前藩領図の製作年代を決定するのは、年代測定しかありませんが、それほどのものではなく、絵画でもそうですが、多くの古絵図を見てきた専門家の直感が重要だと思います。現在、弘前市立図書館に寄贈していますので、閲覧いただき、判断いただければと思っています。なお費用の関係で、弘前藩領図は印刷屋さんによるデジタルデーター化はしていませんが、私のカメラで分割撮影していますので、ご希望の方にはこのデーターでよければ、いつでもお送りいたしますので、ご連絡ください。

 下図は岩崎村周辺のものです。”崎”と”嵜”という漢字が使い分けられていますが、現在では、どちらも同じ意味です。昔は違っていたかもしれません。貝崎、森山崎、鹿渡ヶ沢崎など今はない崎があります。

*本日(1月19日)、紀伊国屋書店弘前店をのぞくと、「新編明治二年弘前絵図」の最後の1冊が売れていました。1年くらいで売り切れればと考えていましたが、少し早く売れてしまった感じです。今回は多くの本屋にも卸していますので、まだ他の本屋さんで売っているかもしれません。増刷はおこないません。