2009年4月24日金曜日

新寺構えの土塁





 前回、長勝寺構えの土塁について紹介しましたが、今回は新寺構えの土塁を紹介します。新寺町は禅宗以外の寺が23軒ほど続くところですが、どこの寺も新しく、敷地もひろく、禅林街よりは町家も混在しています。ひとつにこれまで何度も火事にあい、その都度再建された過程でこうなったのかもしれません。

 新寺構えの土塁は、医学部から最勝寺にいく道にあり、横の標識を見なければ、ただの道と思ってしまいます。土塁の上が道になっており、長勝寺の土塁よりはかなり大きく、幅も広いようです。今は医学部の野球場になっているところには、かって南溜池があり、藩士の水練に使われたりしていたようですが、元々は敵に攻められた時にこの土塁を壊し、決壊させる目的で作られました。

 今回、新寺町に来た理由は、ここにある貞昌寺の山田兄弟の石碑を撮影しようと思ったからです。3度ほど来ましたが、いずれも雪のある時期だったため、雪のない状態できちんと撮ろうと思ったわけです。ついでに寺の横にある墓地もざっと見てみましたが、割合古い墓も多く、由緒ある寺だと思いました。江戸期では家老クラスのひとがここに葬られたようです。山田家の墓を探して見ましたが、山田という墓はあるものの以前写真で紹介されたものと異なり、確定はできませんでした。そのかわり、江戸末期の俳人、書、絵を得意とした平尾魯仙(1806-1880)の墓を発見しました。江戸期のマルチ文化人だったのでしょう。ずいぶん立派な墓です。

 津軽のひとの信心深さは最近読んだ「子どもが大人の思惑どおりに育つものか!」(津島ぜんじん 幻冬舎ルネッサンス)にも、著者の母親の思い出として、祠や神社、寺の前を通るときは必ずお参りをするため、なかなか目的地につかないようなことが書いていました。これは津軽でも80歳以上のひとでは、割合当たり前のことのようで、こういった話しはよく聞きます。どこかの宗教に入っているわけでもなく、自然に神仏にいるところを素通りできないようになっていたのでしょう。こういった自然の宗教心は、八百万の神を尊ぶ日本人ではかってはごく自然なことであったのでしょうが、明治期以降急速に廃れていきました。今でも春秋の彼岸、お盆のお参りだけでなく、月命日などで寺を参拝するひとも多く、お盆の時期になると近所でも小さな板きれを組んで送り火をするところも多く、夜の暗闇に浮かぶ送り火の情景は本当に美しいものです。

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