2009年4月30日木曜日
菊池幾久子(きくち きくこ)
津軽の男はだらしない。外では強いことを言っても、家では妻、母親には逆らえない。弘前の偉人を見てみても、この母にしてこの子ありと思わされるような偉大な母があった。その代表的な女性として初代弘前市長、東奥義塾の創始者の菊池九郎の母、幾久子(1819-1893)が挙げられる。
幾久子の人生を語る上で最も大きな試練は、藩政改革事件*である。津軽藩藩主10代信順(1800-1862)は暗愚の藩主として知られ、四年も続く天保の飢餓に関わらず、女色に溺れ、贅沢の限りを尽くした。金融引き締めと贅沢の禁止を訴えた改革派は、逆に藩主の側に立つ守旧派に藩主の交代を企む謀反人とされ、改革派は徹底的に弾圧され、幾久子の父勘定奉行の奈良荘司も無惨にも斬首刑に処される。一家の主を失い、家禄も没収された奈良家はたちまち反逆人の流浪の民となる。14歳で父を失った次女幾久子は、悲嘆にくれる母を励まし、赤貧の中、幼い姉妹の世話をしながら懸命に家を守った。六年後、信順公は隠居し、新しい藩主順承公によりお家復興がなされたが、この間の苦労は相当なものであったであろう。この過程を通じて、幾久子は父の意志、仁のため世のために死をもいとわぬ姿を尊敬し、その志を自らの子どもの教育方針にしたのではなかろうか。幾久子は菊池新太郎に嫁ぎ、三男二女をもうけるが、36歳で夫に先立たれるという不幸が襲う。これらの試練にも関わらず、幾久子は強い女で、独学で学問を習得し、東奥義塾の女子部で教鞭をとるようになり、また明治10年には婦人としては最初に洗礼を受け、キリスト教徒となった。59歳の時である。その後、津軽の女性の教育的な指導者となり、多くの婦女子の受信を促した。
さらに幾久子には不幸が続く。三男で最も優秀であった菊池軍之助がアメリカで客死する。アメリカのアズベリー大学で農学を専攻して、リンゴ栽培を通じて士族の困窮をなくそうとしていたが、わずか25歳で異郷の地で肺の病で死ぬ。この知らせを聞いた時も幾久子は毅然としていたという。
幾久子はこれらの不幸に関わらず、本当に強い女で同時に自立した女でもあった。藩主の側に立てば、勘定奉行という高位を保てたかもしてないが、敢えて正義のために異議を申し立て処刑された父の生き様が心に深く定着したのであろう。さらに父を失い失意の母に代わり早くから家父長的な存在になったことや、嫁ぎ先でも夫を早く亡くしたことから、自立した女性として菊池家、娘の嫁ぎ先の山田家に強い影響力を持ったのであろう。亡き父の意志、正義のために生きるという考えは、キリスト教の教えとともに幾久子の土台となり、その精神は子ども、孫にも大きな影響を及ぼした。菊池九郎、その長男良三、山田良政、純三郎の活動のバックボーンである存在が幾久子であった。これらの人々が後に中国革命に一身を捧げたのを幾久子の意志が反映され、喜んでいたであろう。
幾久子から菊池九郎に与えた和歌
かねてよりいひしことのはわすれめや ふかくもおもへもののふのみち
三郎、軍之助の出征(函館戦争)に際して与えた和歌
うれしさよ御国のためのかずにいりて 惜しいと思ひそ露の命を
*藩政改革事件:この事件のため明治の外交官珍田捨巳の祖父珍田有敬も謹慎押し込めの罰を受け、勘定奉行の職を解かれている。また本多庸一の祖父本多東作もまた信順公の近習小姓として勤めたが剛毅な性格が災いして藩主に楯つき左遷されている。菊池、珍田、本多家は祖父の代から同士的な結びつきがあった。子孫に反骨の精神を植え付けたという意味では暗愚信順公の功績は大きい。
参考文献
ポトマックの桜 津軽の外交官珍田夫妻物語 外崎克久 サイマル出版
津軽を拓いた人々 津軽の近代化とキリスト教 相澤文蔵 北方新社
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