2024年4月17日水曜日

津軽そば


ある集まりで、津軽そばの生産メーカーの方と同席し、その由来について議論した。昔、弘前城西堀近くにあるそば屋「野の庵」の女将の説を私のブログに載せたので、そのあらましを話すと、それはうそだと指摘された。何でも「野の庵」の方が生産メーカーに由来を聞きにきた時も、彼はこの説を否定したという。実際、ブログにはもう載っていない。一応、その説を紹介する。

 

西洋砲術を江戸に学んだ弘前藩士、岩田平吉にまつわる話でおもしろいのは、西堀近くの割烹「野の庵」の女将佐藤貞子さんの口伝で、創業者佐藤与七はこの岩田平吉(恵則 よしのり)の従者であったが、与七は東京で暮らすうちにそばの味を知り、明治維新後そばも出す小料理を開いた。知り合いの寺院からお布施でもらうそば粉、大豆の活用を依頼され、それで作ったのが津軽そばと言われている。これをみる限り、津軽そばの歴史は意外に新しく、せいぜい明治以降のものであることがわかる。また岩田平吉が津軽そばの誕生に関わったようだ。

 

津軽そばの特徴は、熱湯にそば粉を入れて練った「タネ」を作り、小分けして水に一晩つける。次の日に、まず大豆を茹でてすった「呉」とそば粉をこのタネに加えて練り上げ、打って、そのまま一晩放置する。そして茹でて、一食ずつに小分けしてさらに一晩放置してから、翌日、食べる前に熱湯にくぐらせ、熱いダシをかけて出す。もりそばはなく、すべてかけそばとなる。そばを作るに3日間かかり、非常に手間のかかるものである。

 

市販のスーパーで売っている津軽そばには、大豆は入っていないようだが、製法は同じであり、同じような食感である。小麦のかわりに大豆をつなぎとして入れるのが津軽そばの特徴とされるが、大豆自体はそれほどつなぎの働きはなく、仮に普通のそばのように小麦を使ったとしても、湯でおきのそばであれば津軽そばと言ってもいいであろう。実際の食感はあまり変わらない。

 

通常、小麦の栽培は、米の裏作として作られることが多いが、雪の多い、津軽では裏作で小麦が作られることはなく、またうどんを中心とした小麦需要も少ないため、もっぱら農業の主役は米栽培であった。もちろん蕎麦は米栽培に向かない荒れ地や山間部で栽培され、津軽でも目屋などで作られた。大豆は貴重な植物性タンパク質として豆腐や醤油の原材料で、多くの農地で作られてきた。あくまで仮説であるが、江戸時代、津軽ではそば粉、大豆に比べて小麦が入手難であったのだろう。さらに言うと、ボリュームとしてそば粉でソバを作るより、それに大豆を加えた方が安上がりだったのだろう。江戸時代における津軽のそば事情は、店舗中心のやや高級な「生そば」と、屋台の「夜鷹そば」に分かれており、庶民が愛したのは寒い夜の「夜鷹そば」である。昭和40年頃まで市役所や盛り場、街角に屋台のそば屋が店を出し、客は安い値段で、短時間で食べた。

 

逆につい最近まで、弘前で蕎麦というと津軽そばのことをいい、出雲蕎麦や信州蕎麦のような蕎麦粉(+小麦)を使った喉越しの良いそばは一般的でなかった。おそらく弘前で通常のそばを出すようになったのは、弘前の人気店「高砂」からではなかろうか。このお店は大正2年に現在の弘前大学医学部近くにあったが、昭和48年に現在の親方町に引っ越した。その頃に東京の“藪や”で修行をしていた店主が帰り、今のような一般的な蕎麦となった。その後、新寺町の「會」などもできて、逆に従来の津軽そばの店が減ってきている。

 

私自身、津軽そばも信州そばも、どちらも好きだが、両者はそれぞれ違う麺類と考えた方がよく、基本的には冷たい津軽蕎麦はなく、この麺類は啜る食べ物で、喉越しなどを楽しむものではない。柔らかく、ほとんど腰のない津軽そばは、優しい味で、これはこれで食べ慣れるとクセになる。蕎麦と名がついているが、通常の蕎麦とは違ったものと考えてよい。津軽そばは麺自体がぶつぶつと切れてしまうので、少しぬるくなった汁と共に麺をどんぶりの縁から口に流し込むという少し下品な食べ方もうまい。

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