2025年12月1日月曜日

鈴木雅の父親 わからない

 



Wikipediaによれば鈴木雅の父親は、静岡県士族加藤信盛、鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後も日本各地を転戦し、最後に五稜郭に立てこもり生き残ったとある。つまり、幕末戦争、箱館戦争に参加した加藤という士族を探せばいいわけで、調べるのは簡単だと思っていた。ところがどこを探しても加藤信盛という名は出てこない。武士は通常、多くの名前を持っており、号、諱、字、通名などあるため、信盛の他の名前で出ている可能性が高い。さらに難しいのは、明治維新後に通名も変える人が多く、過去の調査でも、別人と考えていた人物は実は同じ人物で、明治以降に名前を変えたという例があった。そこで該当する人物を国会図書館デジタルアーカイブで検索していくことにする。

 

まず、幕府崩壊に伴い静岡藩に移った幕臣、2500名について記された「駿府表召連候家来姓名」というものがある。これには27名の加藤姓が記載されているが、そこには加藤信盛の名前はない。ただこれは慶応4年に静岡に移住した人で、明治2、3年に移住した者の名前はない。箱館戦争に参戦した幕臣の名前はおそらくないであろう。

 

次に箱誰戦争に参戦し、脱走した幕臣の氏名を記載した「箱館戦役徳川脱走軍人名簿」が北大の北方資料関係の資料に中にあり、WEB上で公開されている。それを見ると、加藤新次郎、加藤春之助、加藤精一郎(折戸死?)、加藤光蔵、加藤作太郎(宮古死)、加藤一、加藤金二郎(江良町官手_?)、加藤喜十郎(松前?傷)、加藤覚之氶(箱館丸)、加藤長太郎、加藤國三、加藤昇太郎、加藤幸造、の13名の名前がある。これらは「駿府表召連候家来姓名」の27名の加藤姓とは一致せず、やはり箱誰戦争の参加者は「駿府表召連候家来姓名」には記載されていないようである。そのため戦死者を除いた11名が加藤信盛の可能性がある。

 

信盛は日本各地を転戦したとあるが、鳥羽伏見の戦いと箱館戦争に参戦し、彰義隊に参戦しないわけはないと考え、彰義隊のメンバーの中から加藤姓を探った。彰義隊のメンバーの中で、加藤姓を持つものは、加藤順四郎、加藤光逸、加藤新太郎、加藤重吉、加藤金次郎(戦死)、加藤今吉、加藤作太郎(宮古にて戦死)、加藤勇太郎、加藤大五郎、加藤光造、加藤真太郎、加藤誠一郎(戦死)、加藤正太郎、加藤栄之進、加藤帰之郎、加藤昌三郎、加藤八郎がいる。彰義隊、箱館戦争の両方に名前があるのは、加藤光蔵と加藤帰之郎である。加藤光造は埼玉県幸手市のホームページ(市指定文化財「伝彰義隊士横山光造所用陣笠」の説明文で、安戸村二本木生まれの剣士、横山光造が彰義隊では加藤と名乗り、その後、箱館戦争にも参戦し、戸島に戻り、そこで剣道を教えながら、明治32年に81歳の生涯を閉じるとしている。名前も元の横山光造(蔵)に戻すので、鈴木まさの父親、静岡藩士、加藤信盛ではない。加藤帰之郎は彰義隊、箱館戦争にも参加する800石の旗本で、本家は3600石の高官、加藤光泰、光直であるが、年齢的には合わない。

 

結局、加藤雅の父親、加藤信盛については、同定できなかった。ただ東京大学の鈴木博之先生が「下級武士の暮らし 彰義隊組頭加藤大五郎の背景」という論文で、彰義隊の第二白隊の隊長、加藤大五郎について取り上げている。加藤大五郎の兄は鈴木源五郎重固という旗本で、そして次男で家を継げなかった大五郎は加藤清正に憧れて加藤姓の家に養子にいき、彰義隊に参戦し、明治維新後は横浜に逃れ、商売をしたという。兄の源五郎は測量の技術を持っていたので、新政府に出仕し、キリスト教に入信し、明治20年に亡くなった。箱館戦争に参戦したかは不明であるが、履歴は加藤雅の父親に似ているが、大五郎=信盛かは全くわからない。ただ加藤雅の嫁ぎ先は鈴木良光、父、信盛の生家、鈴木と同姓であるのも不思議である。


鈴木源五郎重固の名は、静岡学問所、沼津兵学校関係者によるキリスト者、静岡バンドの中にその名前が見える(宇野美恵子、西周の教育思想における東西思想の出会い 沼津兵学校時代を中心に、北東アジア研究、14/15,2008).中村正直は横浜共立女学校の創立に関係した人物で、強引に辻褄を合わせると、中村正直と鈴木源五郎は友人で、弟の娘、マサの進路を相談したところ、共立女学校を紹介されたと。何しろ中村正直は明治四年亜米利加婦人教授所告示という生徒募集広告を書いた人物である。妻、娘3名をここに行かせた。