今泉潤太郎愛知大学名誉教授の山田純三郎の年譜が同文書院記念報の4
巻にくわしく載っているため転写する。
1876年 明治9年 5月18日 (山田家の三男として出生)
父山田浩蔵、母きせ
原籍地:青森県弘前市蔵主町14番地 出生地:青森県弘前市在府町
1888年 明治21年 朝陽小学校卒業?
明治?年 東奥義塾中等部入学
1896年 明治29年 東奥義塾中学校卒業
*札幌農学校入試失敗
*機関車掃除夫となる(北海道)
*東京にでる
(東海勇蔵氏の激励の書状が上京をうながす)
1899年 明治32年 夏
兄良政と孫文は神田三崎町の仮寓にて会見、純三郎、盗み見る
8月9日 東亜同文会留学生として(南京同文書院)上海に
渡る。
*要調査 *井出三郎氏に関連あり*場内復成倉の劉公館に勤める佐
々木四方志宅に収容、中国語の研修
1900年 明治33年 1月 南京に移る
春 上海旭館にて良政に紹介されて孫文に会う
5月 開校式
*北極閣下の支那寺院妙相庵を借用開校?
7月 上海に移る
*「対支回顧録下巻」佐々木春尾女史 974-976頁
1901年 明治34年 4月上海東亜同文書院事務員兼助教授に委嘱せらる
1904年 明治37年 5月16日陸軍通訳第9師団附を命じられる
(高等官七等待遇月俸70円)
1905年 明治38年 7月27日 月俸75円に給せられる
10月12日 関東州民政署より満州各地へ出張を命ぜ
られ、同時に満州利源調査委員附を命ぜらる
1906年 明治39年 1月12日満州利源調査委員附を免ぜらる
1月22日讃岐丸にて第9師団司令部と共に神戸に凱旋
する
4月 明治37年戦役の功により勲六等単光旭日章?
及び金150円を賜る。同時に27,8年戦役従軍章を授与
1907年 明治40年 1月 上海東亜同文書院教授に委嘱される
4月 上海東亜同文書院教授を辞す
(南満州鉄道株式会社入社のため)
5月 南満州鉄道株式会社に入社、総裁秘書
同社地質課勤務(課長 木戸孝太郎氏)
1909年 明治42年 2月 同社奉天鉱業課出張所長に任ぜらる
1910年 明治43年 5月 同社上海出張員となる
*革命当初の経緯「対支回顧録」1270頁、藤瀬政五郎
1911年 明治44年 12月 宮崎滔天と孫文を迎えるべく上海より香港
に行く
12月21日 孫文と香港より同船
12月25日 孫文と上海に帰る
1913年 大正2年 大連「東亜先覚志士記伝?」520-23頁
1915年 大正4年 9月 民国日報(漢字新聞)を組織し社長となる
11月 大礼紀念章を授与せらる
*上海機器局砲撃「東亜先覚志士記伝」
598-611頁
肇和、広瑞二艦奪取計画?
1916年 大正5年 5月18日 陳其美、袁世凱の刺客に襲われ、フランス
租界で殺され、長女民子は、このため生涯の不具となる
6月 湖南の鉱山調査に向かう
* 「藤瀬政五郎伝」1275頁
7月 南満州鉄道株式会社を辞す
11月30日 湖南と広州の境、?州で黄輿の病死の悲報を
受ける
1918年 大正7年 *大正七年 住所 上海法界環龍路四号
*広東省茂名県オイルセール開発に奔走する
1923年 大正12年 11月 孫文より犬養宛書、携行する?
1925年 大正14年 3月12日 孫文死す
5月 広東日報社長になる(在広東日文新聞)
8月 広東に於ける水兵事件処理に尽力する?
大正14年以降、外務省より月手当支給さる
1926年 大正15年 9月 民国日報社長を辞す
1927年 昭和2年 3月 広東日報社長を辞す
満州鉄道株式会社上海事務所嘱託となる
7月 上海毎日新聞社長となる
1928年 昭和3年 11月16日 大礼紀念章を授与さる
1929年 昭和4年 4月 上海毎日新聞社長を辞す
9月 昭和二、三年支那騒乱事件、昭和三年
支那事変に関して勤労不勘にて?海軍大臣杯(銀杯)一組を贈与さる
1930年 昭和5年 6月 江南晩報 都合により停刊する
10月 純三郎 北京(写真)
1931年 昭和6年 6月20日 国民政府外交部顧問
(外交部長陳友仁?広東)
6月24日 国民政府顧問
1932年 昭和7年 4月 江南晩報を江南正報に改題、再刊、社長
となる
1933年 昭和8年 4月30日 停刊
9月1日 再刊
1935年 昭和10年 6月 江南正報廃刊する
南満州鉄道株式会社総裁室嘱託となる
7月 上海駐在海軍武官室より月手当支給さる
1936年 昭和11年 4月 上海日語専修学校校長となる(北四川路)
4月 雑誌「上海」の上海雑誌社社長となる
昭和六年及同九年事変に於ける功により、銀杯一個
贈られ,並びに従軍記念章令?の旨により従軍記章を授与せらる
1937年 昭和12年 8月 上海駐在海軍武官室手当を辞す
1938年 昭和13年 大同市政府?関連陸軍により王子恵?擁立に
○○コノミ某?(後の東京温泉社長)拳銃によるおどしにも
拘らず自説曲げす
9月 土肥原機関嘱託となる
1939年 昭和14年 12年 土肥原機関解散と同時に辞す
1940年 昭和15年 4月3日 近衛公に講ずる進言
*近衛公に講じる進言草稿 全面和平之私見
11月 紀元二千六百年記念祝典に海外功労者として
菊池豊吉氏、福田(居留民)?と共に参列する
二千六百年祝典記念章授与さる
1943年 昭和18年10月 支那事変の功により木杯?一組下賜せられ同時
に従軍記念章授与さる
1944年 昭和19年 2月11日 大陸新聞社より大陸賞を贈らる
3月6日 上海日本語専門学校校長に命ぜられる
(日本大使館)
3月8日 在華谷特命全権大使より在華優良邦人と
して表彰状を授与さる
10月 上海日語専修学校と上海日本語専門学校を
合併し、上海大東学院に改組、その院長を命ぜらる
12月 雑誌「上海」を雑誌「大陸」と合併し、
その顧問となる
1946年 8月 残留日僑互助会会長となる
1948年 12月7日 上海引き揚げと同時に会長を辞任する
1960年 2月18日 (東京の自宅で死去)
タブ設定うまくいかず、編集では順序よく並べましたが、公開文章では読みにくいと思いますが、ご勘弁を。転写だけで疲れました。今泉先生はさすが学者だけあり、不明なところは?となっていますが、一番正しい、山田純三郎の年譜と思いますので、紹介します。一部省略、改変しています。
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