2009年1月22日木曜日
菊池九郎3
菊池九郎が創立した東奥義塾の初代の英語教師に、C.H.ウオルフというひとがいる。わずか1年ほど滞在し、明治7年1月に宣教師の仕事に従事するため、弘前を去る事になった。当時、海路での大きな事故にあったので、ウオルフ夫妻はどうしても陸路で東京に行きたいと言い出した。ところがウオルフ婦人は歩くのが苦手で、菊池が考えたことは津軽の殿様のお姫様用の駕篭を使うことだった。何とか殿様に願い出て借り出すことができ、この駕篭に人夫三名をつけて菊池と後世日本貝類学の創始者となる岩川友太郎が随伴した。誠に東北人らしい義理堅さである。
外人にとって日本式の駕篭による旅行は大変だったのであろう。弘前から東京まで26日という非常にゆっくりした速度で進んだ。道中、菊池は一人の少年と出会い、一緒に旅行した。後の後藤新平である。後藤は当時18歳で、医学校のある須賀川(福島)に行くところであった。
秋永芳郎著「菊池九郎伝」(東奥日報社)では、菊池と後藤との出会いを次のように書いている。
「どこまで旅するのか」と菊池が尋ねると、きびきびした口調で後藤は「須賀川まで行きます」と答えた。菊池が「旅は道連れ、世は情けということもある。我らと一緒に行こう」と誘うと、はいと言って同行することになった。
こんな経緯で、菊池と後藤は数日一緒に旅することになったが、よほど後藤は気に入ったのか、将来この若者は立派な人物になるとその才能を深く愛した。当時、菊池も27歳でまだ若者だが、幕末には大変苦労したひとで、年の割には老成円熟している。後藤もわずか数日の同行だったが、菊池との遭遇に深い感銘を受けた。
それからちょうど30年後、弘前出身の山田純三郎は、陸羯南から満鉄総裁後藤新平宛の紹介状をもって、満鉄の入社試験に臨んだ。陸からは「おまえが菊池の親戚だと言うと後藤はかえって気を悪くするだろうから、そのことはだまっておけ」と言われていたので、そのことはだまって面接を受けていると、後藤から「ところで弘前と言えば菊池九郎を知っているか。」と問われ、「私のおじさんです」と答えると、「なんだ、お前は菊池の親戚か。早く言えよ。昔、本当に世話になった」と言われ、即刻採用になった(総裁秘書)。その後、山田は満鉄から給料をもらいながら、孫文の革命運動に協力する。満鉄の仕事は全くしていない。ただ革命運動をしているだけである。ある時、山田があまりに申し訳なくて、後藤に尋ねると「おまえの仕事は孫文を助けることだ」と諭される。よほど後藤も胆力がある。
わずか2.3日の同行した相手に対して30年後もこれだけ、強い恩義を感じさせる菊池の人格もすばらしい。菊池と同行した岩川友太郎は、いずれくわしく紹介したいが、この時21歳で、藩の英学寮で英語を学び、東奥義塾では二等教授として生徒に英語を教えながら、ウオルフから本場の英語を学んでいた。つまりウオルフ夫妻の通訳として同行したのであろう。後に岩川はこの卓越した英語力のおかげて日本動物学の父と呼ばれるモース、ホイットマンの弟子となり、貝類の研究に没頭する。
満州鉄道と言えば軍の傀儡会社のように思われているが、山田や満鉄理事犬塚信太郎を通じて、相当額孫文の革命に資金提供をしており、後藤といい、犬塚といい、相当胆力のある人物がいたのであろう。今の会社では、出身高校や成績で採用を決めるようだが、本当の有能な新人を発掘するには、採用者も人の能力を見極める人物である必要があろう。後藤の最後の言葉「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」。山田純三郎も後藤の残したひとであった。
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