2009年1月4日日曜日
六甲学院 1
高校を卒業してはや35年、月日は経ったが、この頃のことが今では随分なつかしい。学校にいたころは、校則による締め付けには腹を立て、いきがったりもしたが、今ではここでの経験に感謝している。学校の不良に限って校歌の3番まで覚えているようだが、それだけ愛着があったのあろう。
六甲学院は、イエズス会によって日本で初めて作られた中学校で、姉妹校の神奈川の栄光学院や広島の広島学院より歴史は古い。初代校長の武宮隼人校長は武士的キリスト教徒で、その教えは今でも学校の基盤となっている。上智大学が関東の教育機関の中心として創立された後、関西にも教育機関をもといった主意で1938年に創立された。この学年を一期生として今でも何期生といった言い方をする。ちなみに私は32期である。
阪急の六甲駅が一番近い駅で、ここから山の方に、商店街を抜け、住宅地の細い道を通り、橋を渡り、ここから長い坂が続く。学生のころは15分くらいで行けたが、一昨年歩いてみると50分もかかった。相当きつい坂で、最近では父兄から通学バスの要請が出ているようだ。当時でも多くの高校生は髪をのばしていたが、ここでは中学、高校生とも丸刈りのぼうず頭であった。また学校にもバリカンが何個か用意されていて、私も散髪の上手な同級生に何度か刈ってもらった(といってもいわゆる3まい刈りではなく、指でつまめない2まい、あるいは1まい刈りだが)。頭がぼうずで寒いためか、みんな制帽を被っており、関西圏で最後まで制帽を被っていた学校のひとつであったであろう。上級生を追い越す時には必ず「おはようございます」と声をかけなくてはいけなく、急いでいるときはそれこそ何十人にもあいさつをし、実に面倒であった。制服のカラーは上まできちんと止めないと先生や先輩などから注意を受けたが、それでも隠れては外していた。
学校につくと、すぐに制服を椅子にかけ、上下白の体操服に着替える。制服を汚さないというものらしい(ちなみに卒業すると使っていた制服、とくにズボンを学校に寄付する習慣があり、希望者は買わずにそれをもらえた)。朝には、父兄会のひとが各教室をまわり、パンの注文をとる。この当番は全父兄が年に2回ほどあたることになり、午後から担任による父兄との個別面談がある。授業が始まる前には、学級委員が「めいもく」とかけ声をかけると、皆机の前に手を揃えて30秒ほど黙祷する。その後、授業が始まる。宿題などを忘れると授業中机の横の床に正座で座らされる。私も1時間くらいは軽く正座できるようになり、その後の人生でもとくに葬式ではじつに役に立った。
一学年は40名ほどで4学年、確か170名くらいが6年間一緒のため、大抵の同級生とは一度は同じクラスになっている。担任も英語、国語、数学、理科の4人の先生については基本的には同じ先生が6年間受け持つ。また訓育生という制度もあり、中学一年生には高校3年生の勉強、人格もすぐれた4人の学生が訓育生として掃除当番や各種の相談、注意を行う。
朝は毎日朝礼があり、私のころはシュバイツアーというドイツ人の校長で、日本語があまりうまくなかったためか、朝礼もそれほど長くはなかったが、初代の武宮校長のころは延々と2、3時間も続くこともあり、夏などは暑さで生徒がばたばた倒れたようだ。10時半ころには中間体操というものがあり、上半身はだかで全校生が校庭を走り回る。寒い日には上着を脱ぐのは勇気がいり、便所に隠れてさぼるものもいるため、隠れた生徒を捜しだし、参加させる係まであった。これも昔は「最近は気合いが足りない」といって、校長の気のすむまで走らせたようだ(戦前の話ではありません。昭和40年ころまでの話です)。
このようにカトリックの学校の割にはかなり右翼的というか、軍人ぽい教育がなされていた。というのも、創立が戦前で、当然当時はこういった教育が普通であったが、ほかの学校では戦後はすべてが否定されたのに対して、ここではなぜ変える必要があるのかという強い意志があったのであろう。正しいと思ったことをどうして戦争に負けたために変えなくてはいけないのかという極めてまともな考えと、もうひとつはイエズス会という世界的な宗教団体に所属しており、GHQに対しても強い態度に出られたこともあっただろう。
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