2009年5月21日木曜日
山田兄弟20
かって上海に東亜同文書院というユニークな学校があった。山田良政はここの教授として勤務し、弟の純三郎は第一期生の学生として入学し、ともにこの学校との関連は深い。
近衛篤麿(近衛文麿元首相父)が中国問題を研究する目的で設立された東亜同文会を母体として1900年(明治33年)に同文書院は設立された。日清戦争後、日本では中国に対する関心は一挙の高まり、中国蔑視論や改革論などさまざまな議論がまきおこった。一方、当時の日本人の中国に対する一般的な見方は論語に代表される古典からの知識であり、時代に沿ったものではなかった。ことに中国人そのものについては理解が乏しく、生の中国、中国人を学び、将来の日中関係の架け橋になる人材育成の目的で、中国に日本人の学校を立てる構想が浮かび、現実化したのがこの同文書院である。
当初は南京に学校が建てられ、国内各府県から給付生を募る方式がとられた。すべての授業料、寮費、食費も無料、おまけに小遣いまで支給された。ただ給付生募集の時期が都道府県の予算成立後であったため、実際に給付生を派遣してきたのは広島、熊本、佐賀の3県だけで、そのため一期生はわずか20数名であった。ただ青森県では陸羯南が東亜同文会に参加していたこと、近衛家と津軽家の関係が深かったことから、山田純三郎、櫛引武四郎、宇野海作の3名の参加があった。それ以外には日本電力の実力者の内藤熊喜、古河鉱業の二代目上海支店長神津助太郎(音楽家神津善行の父、中村メイコの義父)、福岡玄洋社の平岡小太郎、西本省三などがいた。
当時、中国は義和団の騒乱があり、孫文らも清朝打倒の絶好の機会とし、東亜同文会の福本日南、宮崎滔天、平山周らも協力して革命を起こそうと計画していた。教師であった山田良政もこの革命運動にのめり込み、この風潮は東亜同文書院の一期生、大陸に志を抱く、血気盛んな若者達にも伝播し、一時は革命の巣窟のような状況に陥った。このため生徒が革命に参加するのを恐れた同校長根津は、書院を革命の嵐のまっただ中にある南京から上海移すことにし、以降上海東亜同文書院として終戦まで同地で活動した。
中国革命への強い思いと、教師としての使命の板挟みになった山田良政だが、熱情止みがたく、ついには辞職して革命に参加する。同文書院の在籍はわずか7か月であった。ただ生徒には絶対に革命には参加させたくなかったようで、「数十の日本子弟を監督しおる身分を忘れ、人の国を図り申し候ことは実に一時の思出とはもうしながら、本国各府県の主治者の向て面目無き次第に存じ申し候。幸いに数多生徒を踏陥の不幸に至らしめず申し候丈は帰朝の面目幾分存じ申し候」としている。ただ同郷の櫛引武四郎は書院を中退して良政とともに恵州起義に参加する。弟の純三郎には革命で死ぬのは自分だけで十分であるとの思いからも必死で兄の後を追うことを厳禁した。
他にも同校の青森県出身者には、気骨のある外交官で中国陶磁器の権威である七戸出身の米内山庸夫がいる。
中国関係の実にユニークな人材を輩出した東亜同文書院だが、戦後その精神は現在の愛知大学に受け継がれた。
なお本文は「上海東亜同文書院 日中を架けんとした男たち」(粟田尚弥 新人物往来社 1993)を参照した。
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