2009年5月31日日曜日

加藤三吾



 前回、弘前市の私立東奥義塾のOBについて記載したが、同校は明治の一時期まで小学科というものが存在したし、戦後も一時中学校が併設されたため、誰がOBだったか、不明な点も多く、十分に調べられたわけでない。まだまだたくさんの著名なOBがいるのであろう。

 昭和30年ころまで、弘前では教育熱心な家では、中学校の進路について、ひとつは当時できたお城にあった弘前大学附属弘前中学、それと東奥義塾中学、あるいは市立弘前第一中学などに人気があったようだ。わざわざ下宿して中学校に登校していたようである。そしてここから弘前高校への進学を目指したようで、現在60歳以上のひとではそういった進路をとったひとも割合いる。

 この場合、弘前高校のOBとしてカウントされ、どこの中学、小学校をでたかについては、ほとんどわからない場合が多い。

 その一人に、加藤三吾というひとがある。1865年(慶応元年)、津軽藩士加藤武彦の三男として、弘前市徳田町17番地に生まれた(私の家のすぐ近所である)。明治7年に東奥義塾小学科に入学、明治12年に青森県専門学校予科に入学、その後18歳で上京して東京の攻玉社で学んだ。明治32年に沖縄に渡り、県立中学校の教師をする傍ら、琉球文化の研究を行う。沖縄に関して体系的に学問的に書き上げた最初の人物として知られ、その著書「琉球の研究」は評価が高い。その後、長崎の中学に赴任し、そこでオランダ人三浦按針の墓などの調査を行う。

 琉球の研究として先に冒険家、民俗学者笹森儀助のことを紹介したが、この加藤三吾というひとも含めて、北のはずれの弘前と沖縄の関係は意外と深い。気候は全く正反対ながら、どちらもいわゆる中央から離れた僻地という感覚を共有していたからかもしれない。中央に対する激しい怒りとその土地の文化に対するやさしいまなざしをもつ。

 今でも弘前から琉球大学に進学する高校生は毎年何人かいて、弘前と沖縄、お互い何かしら引かれるのかもしれない。

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