2009年9月2日水曜日

忠霊塔



 禅林街にある長勝寺に母と家内と一緒に行ってきました。20年ほど前に一度行ったことがありますが、本堂が改築されていて前の印象とは違うようです。以前はもっと雑然とした印象でしたが、今回はすっきりした、いかにも禅寺といった感じになっていました。

 団体さんに紛れ込んで、ガイドさんの説明を聞いていましたが、あまりに熱心に色々なところを案内してもらい、無料で案内してもらうのもばつが悪く、途中拝観料を払ってきました。

 出口の山門の右手に高い塔が立っています。忠霊塔といって太平洋戦争で亡くなった人々を慰霊するためのものです。戦前、多くの県で忠霊塔や忠魂碑が作られましたが、戦後GHQの命令でこういった戦争を思い出す施設はほとんど取り壊され、日本でもこれだけ立派な忠霊塔が残っているところは少ないと思います。何でも仏舎利塔ということにして、GHQの命令を無視したようです。せっかく浄財を集めて作ったのに壊すのをおしかったのか、あるいはなんで戦争に負けたからといってすぐに壊さなくてはいけないのかと思ったのかもしれません。いかにも反骨の津軽らしいところです。

 案内板は大分さびが出て、読みにくいのですが、ノモンハンやニューギニアなどの激戦地の土や石を持ち帰り、それを壁の材料に使ったようです。一階はかぎがかかって公開されていませんが、以前行ったことのある人によれば部屋になっていて、写真などを展示しているようです。

 弘前城内の護国神社内にも多くの碑が立っており、英霊の御霊を重んじるつがるの人々のけなげな気持ちが偲ばれます。母親の兄、私のおじは下士官で、インパール戦で戦死しました。二等兵からの叩き上げで、中国戦線の後、インパールに転戦して、そこで亡くなりました。出征にあたり祖母はおじに「これでチャンコロを切ってはいけませんよ。チャンコロでもおとうさんもおかあさんもいるのだから」と言って、軍刀を渡したようです。また戦中、おじの戦友が祖母のところに来て、おじが戦死したと一旦報告したようですが、途中人違いに気づいて、再び祖母にさっき言ったのは間違いだったと訂正したようです。祖母は喜びのあまり、近所の八幡神社に飛んで行って、お礼に行ったようですが、帰るとうなだれて、戦死したひともいるのに私だけ、こんなに喜び、本当に恥ずかしい、とぽつりともらしたようです。結局は戦死し、ぬか喜びだったわけですが。

 私の父も東京歯科専門学校(現東京歯科大学)から学徒で出陣し、昭和16年に中国戦線、敗戦時は黒龍江のソ連国境付近におり、そのまま捕虜になり、モスクワ南方の捕虜収容所に2年間いました。都合6年間出征したことになります。戦争経験者の多くは口がかたく、この当時のことはめったに語りませんが、酔ったときなどに昔の話しがでてきます。本当に濃い記憶があるようで、細部にわたって記憶しています。戦争という生死がかかった状況は、何十年たっても鮮明な記憶としてあるのでしょう。

 忠霊塔の奥には、岩木山を眺める絶好のスポットがあるようです。今回は行きませんでしたが、天気のいい日に一度行ってみようと思います。

7 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

忠霊塔、実に不思議な存在になってしまいました。最近改めて、今、ここは誰が所有者で、だれが管理しているのだろうかと思っています。この二十年のうちに、一度だけ、建物が公開された記憶があります。青森県出身の特攻隊員を紹介する、という展示でした。20名くらいは陸海軍にいたのでしょうか、各位の写真や遺品が並べられた展示会でした。正面入り口を入って、左側に地下へ降りる階段があるのですが、その階段を降りると展示スペースが設けられていました。昔は仏像や戦地からの記念品などを飾っていた場所なのかと推察されるスペースでした。ぐるりと回って地下部分展示スペースを抜けると正面にもどり、そこにはらせん階段が上へと続きます。かすかな記憶、四十年以上前の小学校か幼稚園児時代に祖父に伴われて、お盆にお参りに来たことが思い出されました。当時はらせん階段の脇に小さな白い骨壺が沢山並び、その前に一つずつろうそくが灯されて、なんとも言えない雰囲気だったのを幼心に覚えています。それがこの特攻展に際して昇ってみると、骨壺はあらかた消えておりました。皆無ではありませんが、数えるばかりでしょうか。そして、いろいろな行事に使われた看板類が無造作に置かれた物置と化していました。今思えば、戦後七十四年を経て、参拝されることもない骨壺はむしろ気の毒なものです。ちゃんと公開して供養出来ないなら、しかるべき寺院の無縁仏として供養して差し上げるのが良いのではないかとも思います。しかし、誰が鍵をもっている建物なのかも判らず、手の施しようがない状態ですかね。実は良く判っているようで判らない、いや、むしろ現代に入ってから判らなくなってしまったのがこの忠霊塔でしょう。かつては保守の論客だった原子昭三氏が主体となって護持活動をしていたと思いますが、原子氏も世を去って長くなり、いよいよ経緯も現状も不明の度を増しているようですね。
隊友会がお盆前に草刈りをしていますが、それ以上の手入れもなく、なんとも気の毒な状態であるのは間違いありません。福眞睦城

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。仰るように一階部分には、白い骨壷があるようです。内部の状態はあまり写真にありませんが、下記ブログで”忠霊塔”でブログ内検索すれば、写真が見れます。
https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

こうした戦争遺産については、以前ほど拒否感がなくなってきましたが、それでも内部に、遺骨があるとなると、プライバシーの観点からなかなか、公開もしにくく、さらに保存活動にも繋がらないないのでしょう。すくなくとも東奥日報くらいが、終戦特集などで取り上げて、保斬、整備に繋げて欲しいところです。また終戦記念日くらいは一般公開し、禅林街の僧侶が抱擁してもいいかと思います。

hidemi.kon さんのコメント...

 毎年8月第二土曜日に、現役自衛官と隊友会等で草刈りと塔の中の清掃をして、塔の右側にある墓に献花しています。私も現役から参加して今年で10回目になります。

 塔の中に入ると、正面に祭壇があり、左右には展示室があります。展示されている中には20歳前後の県内出身特攻隊員の名簿等、いくつかの資料が展示されています。螺旋階段を昇ると小さな部屋には100個位の骨壺があり写真が置かれているものもあります。今年は一人のご老人が整備中に訪れ展示室などを見て手を合わせていました。

 もっと多くの人にここを知ってもらえたらいいと思います。今年から個人的に2ヶ月に一回個人的に草刈りなどの整備をしてここを訪れる人が増えること願っています。塔の中も年に何回かでも解放できるようにしたいと思って働きかけています。

広瀬寿秀 さんのコメント...

戦後75年、周囲にも戦争経験者はほとんどおりません。戦争の知らない子供たちが年配になり、もはや大東亜戦争も歴史になってきました。
こうした時代こそ、私も含めて多くの方に見てもらいたい施設だと思います。
年に何度かは、市民にも公開し、さらには浄財を集めて保存整備も行なっていかなくてはなりません。

hidemi.kon さんのコメント...

 今の平和が多くの若者の犠牲の上にあることを知り、二度と戦争を起こさない誓いの場所。
靖国神社や護国神社だけではなく、
 ここ弘前忠霊塔にも多くの青森県人がねむっていることを知ってほしい。

春から整備したいと思っていますボランティア活動として。
塔の西側には岩木山がきれいに見えます。

中の解放は今のところ難しいと思いますが、開放できるように頑張りたいと思っています。
訪れた際には手を合わせていただければ嬉しいです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

忠霊塔のボランティア活動、本当にご苦労様です。もはや戦後、76年。周囲にも戦争経験者はほとんどいなくなりました。子供の頃、周囲の大人は全て戦争経験者で、大人の会話の中にも自然と戦争の話もありました。終戦の日は毎年、マスコミで、戦時中の体験を取り上げられ、ドラマやノンフィクション番組が作られていましたが、もはやインタビューする人もおらず、ここ十年ほどで大東亜戦争も完全に歴史の一部となった感があります。こうした中、忠霊塔のような戦争遺産をどのように保存し、維持するかは、もっぱら次世代の若者の関心にかかっているように思えます。何らかの対応が必要かと思います。

hidemi.kon さんのコメント...

私が忠霊塔を知ったのは10年位前現役自衛官の時にボランティア活動として始めたのがきっかけで定年後も何度か言ってるうちに8月の第二土曜の年一回だけではなく、ここはきれいであるべきだとの思いから、個人的にやっています。管理している長勝寺の住職さんの許可も得ています。いろいろ事情はあったみたいですが、もっと多くの青森県人に知ってもらいたいと思っています。忠霊塔の中を開放できることになった時に説明できるように少しずつ勉強中です。