2017年9月10日日曜日

ニューバランス990 V4 その2



 ニューバランス990V4を買って1か月になる。晴れた日はほとんど、この靴を履いているので、10kmは歩いていると思う。感想を言うと最高である。60年間、色々な靴を履いてきたが、これほど歩きやすい靴はない。

 これまでの靴、多分、百足以上は履いていると思うが、小指のところにまめができたり、踵の部分が痛くなったり、膝、あるいは下肢の前の部分の筋肉が痛くなったり、何らかの問題点があった。ウルバリン1000マイルブーツやダナーのブーツもいいのだが、いかんせん重くて、長距離の走行には向いていない。

 スニーカーについても、アディダ、アシックス、プーマなど多くの靴を履いてきたが、本当によい靴には恵まれず、唯一、ニューバランスの996の評判がよいので買ったものの、地面の硬さを直接ひろうため、膝が痛くなる。その点、ニューバランス990は、軽い上に、膝、あるいは下肢部筋肉の痛みが全くなく、長距離の走行をしても疲れが少ない。特に4Eという幅広のサイズがあるため、年配者にも優しい。

 以前、パタゴニアのR-2とR-3を93歳になるお袋にあげたところ、非常に気に入り、寒くなると毎日使っている。軽くて、フォルムが立体的になっていて、肩こりがしない、疲れないなどの利点を持つ。パタゴニアというと若い人のブランドと思われがちだが、その機能性の高さは十分のシニア世代にも通用する。
同じように、ニューバランスも若者向けのメーカーと思われがちだが、例えばこの990などはシニア世代にもっとつかってほしいものだ。自分も若いうちは、やれ格好だ、流行だと追いかけていたが、この歳、61歳になると、機能的なものを追い求める。とりわけ靴、衣料は毎日、着るものだけにできるだけ楽なものを着たい。軽くて、動きやすい、来ていて楽、靴では疲れにくい、あるいは少しの段差でつまずきにくいなどを重視する。

 ニューバランス社でも会社としてシニア世代に売るべく、色々な対応をしているが、どうも値段の比較的安くて、履きやすい靴を勧めている。2万円以上の高価な靴は若い人を対象にしているようで、年配向けとしては紹介されていない。実は若い人より、老人を方が金は持っていて、本当にいいものであれば、金をだす。ただこうした若者向けで高価な品は老人には紹介されていないため、知らないだけである。一方、メーカーもこうした老人向けの需要には無関心なのか、全く広告もしていないし、製品開発も考慮していない。パタゴニアに例で言えば、昔のR2はゆったりしたシルエットで老人のも着やすいものであったが、最近のものは若者に合わせて細めのものとなっている。老人の場合は、気に入ってもフェイスブックやツイッターで言わないので、そのまま廃番となってしまう。また老人向けの雑誌も、こうした若者向けの製品は扱わない。

 若者に人気のあるもので、定番になっているものは、単にかっこがよいというだけでなく、機能的に優れているものがある。パタゴニアのR2もそうだし、ニューバランスの990もそうであるし、最近ではグラミチのクライミングパンツも履いていて楽である。アメリカの老人向けのHPや雑誌では、かなり広い範囲の製品が扱われているが、どうも日本の広告媒体は未だに若者—老人のラインを引いているようだが、もっと機能的な面からの分析、評価が必要と思われる。

 ニューバランス990は日本ではD、2Eのサイズしかないが、アメリカの店では2A、B、D、2E、4E、6Eの幅のサイズと長さは7から16(24.5cmから34cm)までサイズがある。他の靴はこれほどサイズの種類はなく、おそらく若い人から年配の人までの需要に答えたもので、そうした意味でもアメリカでも990はシニア向けの靴として売れているのだろう。あるいはこの下のランクとなる928も幅のサイズがBから6Eのサイズがある。できれば日本のニューバランス直販店では6Eサイズまでは用意し、客のあらゆるサイズに対応してほしい。靴の履きやすさも年配の方では重要であるが、最近はできるだけ靴べらを使用するようにしている。靴の傷みも減る。

2017年9月6日水曜日

津軽女性とエドウィン・ダン

 海外の男性からすると日本女性は理想的で、あこがれである。小柄な体つき、かわいい顔、すべてが女性らしく好かれる理由であるが、夫に尽くす、ひかえめで、家庭的であるなど内面的なところにも惹かれる。実際、外国人男性と日本人女性のカップルは多い。 

 外国人の方に聞くと、日本の女性は、これは中国や韓国の女性に比べても、自己主張が強くなく、料理、洗濯、掃除など古典的な女性の仕事をしてくれ、旦那にとっては、結婚して本当にありがたいようだ。例えば、アメリカでは、主婦はもはや料理はほとんどせず、各自が冷蔵庫から食べたいものを出してきて勝手に食べる。今日は、ラザリアを食べたいと思えば、それをレンジでチンして食べる。そのため、家を建てる時、きれいなキッチンを作るがいくら経っても汚れない。それに比べて日本の女性は、朝早く起きて、朝食は作ってくれるは、弁当は作ってくれるは、感動ものである。

 さらにいうと、日本の女性の中でも津軽の女性は、昔から人気が高く、北海道では、嫁をもらうなら津軽の女性をもらえというほどであった。働き者で、辛抱強く、情が深いいため、過酷な土地である北海道の暮らしにも耐えてくれるからである。今でこそ、北海道は飛行機などで東京とダイレクトに繋がっているが、昔は隣県として青森県の存在は大きく、明治時代、多くの青森商人が函館などで活動した。

 こうした日本女性、津軽女性の魅力に最初にノックアウトされ、ついには日本に永住した人物がいる。北海道開拓史、とくに酪農業において、大きな功績を残したお雇い外国人のエドウィン・ダンである。アメリカ、オハイオ州出身のダンは、ちょっとした好奇心で、明治六年に来日し、東京、北海道の農園で働くが、そこで青森県南津軽郡尾上村出身の松田ツルと出会う。後のダンはツルのことを、「私は自分の取った道を、一瞬といえども後悔したことはないということをここでいっておきたい。私は彼女を通じて日本の最も美しい一面、すなわち日本の立派な女性達を知る機会を得たのである。私の見方は多少偏っているかもしれない。しかし、日本の婦人ほど、非利己的で、自己犠牲的で、愛すべきものは世界中どこにもありように思われる」、さらに「皇后陛下が私の妻の訪問を非常に喜んで迎えられ、そのお蔭で私の妻は、宮中の淑女たちや東京の上層階級の間に社交的な地位を確立することができた。東京の貴婦人たちと私の妻が親しければ、そういう足場を作るのは難しいことであったであろう。彼女がいなければさぞ寂しかったろ思われる北海道での長い生活に、よく連れ添ってくれた私の妻は、宮中でのエチケットや東京の社交界の空気にいともたやすく慣れてしまったようである」と最大限の賛辞を送っている。


 この松田ツルの写真が残っていないのでわからないが、きれいな人でダンも惚れたであろう。こうしたことは「エドウィン・ダンの妻ツルとその時代(阿部三恵著、道新選書、1995)に詳しい。ツルについては、「南津軽郡尾上村87 番地 平民松田亀吉の妹」、「明治27年、日清戦争当時、旧尾上村松田平吉の長女、鶴子が、米国の日本駐留公使エドウィン・ダン氏の侍妾となり、ダン氏の帰国と共に渡米し、アメリカ人になった」、「猿賀代官所の前に家があり、津軽藩の御用達もした商人」、「生まれたのは万延元年(1860)であり、小学校教育は受けていない」と記され、さらにダンとの出会いは、函館郊外の開拓使御用の「峠下ホテル」で女中をしていたツルと出会った。ツルとは幸せな家庭を作り、娘ヘレンも授かったが、明治21年(1888)に慢性胃炎のため28歳で亡くなる。ダンはその後、日本人女性と再婚し、84歳で日本にて亡くなる。

2017年9月4日月曜日

昔の津軽の冬 2


新潟、十日町


 前回の続きです。「新ひょうたんなまず」からです。

ベンジャ
 ベンジャは日本式スケートで底が三角な下駄に鉄を打ち付けたもの。この鉄はスケート同様なまのだった。ベンジャの乗りかたは、いまのスケートと同じで、速さを競うばかりでなく、「いっぽ」といって片足ですべるものもあった。また「がに」といって横すべりもした。腰をおろし。股をひろげ、ベンジャを横に一直線にするのである。映画でみるとスケートの妙技には驚嘆するが、下駄すけ^ともなかなか見事な芸をやったものである。ベンジャの鉄の高さは、はじめは一分か二分のをはくが、大きな子供は八分だの一寸だのをはいた。(略)ソリすべりは、一人のりから五・六人のりまであったが、なるべく小さいのを用いた。先の一人はベンジャでカジをとる。そのうしろの乗り手もベンジャをはいて両足をひらいている。一番うしろに乗る人は、はじめ押して走り、勢いのついたところで飛び乗り立ったまま滑行する。

ベンジャとは下駄スケートのことで、下駄の底に鉄製の刃をつけたもので、明治39年に長野県下諏訪町の河西準乃助が発明したという。足袋の上からヒモで縛って下駄と固定した。今のスケート靴、フィギア〜ホッケー〜スピードのように、刃の長さがいろいろあった。

雪なだれ
「十日午後一時ころ中郡岩木村宮地の岳陽保育所で屋根雪が落ち、下で遊んでいたこどもが下敷きとなり、二名は直ちに救出されたが、残りの二名は死亡するという事件が起こった」(東奥日報)主任保母さんは「暖かくなったので、軒下で遊ばないように、こどもに注意し、きょうも屋外にでたこどもを、つれもどししていたのに」とくやんでいた。この場所には雪のカマコが作られてあったので、四人のこどもはそこに入って遊んだらしい。この日の屋根雪は五、六寸しかなかったが、ぬれ雪が二丈五尺の高さからおちたのでこどもの力でぬけだせなかった。

かまくらと言えば、秋田が有名であるが、青森県も雪が多いところで、子供達の冬の楽しみとしてカマコ(かまくら)を作ったのだろう。冬でも子供達は遊ぶことが好きで、坂やカマコ、雪だるまを作ったり、雪ぶつけ(雪合戦)、ソリ、ベンジャで遊んだ。

アマゲン
アマゲンは「雨返し」で、冬、雨が降るとそのあと嵐になって吹雪くのをいう。きょうの吹雪はそのアマゲンであった。フギドリは「吹雪倒れ」、吹雪に人命をうばわれるのをいう。きょう私らが自動車がフギドリして、あやうく助かったのであった。アマゲンやフキドリは、関東から南のほうの人には口で説明したくらいではとてもわかってもらえない。

雨返しとは“冬の寒さが緩んで雨が降った後、吹雪となることをいいます。寒さが緩んで雨となるのは、低気圧が接近して暖気が入ってくるからで、この低気圧が通過すると、冬型の気圧配置となって吹雪となります。日本海を進んだ低気圧が発達しながら北海道付近を通過するときに雨返しが顕著に現れます”となっている。

おば雪
「オバゆきふれば、猿のケツ、まっかだ」灰のような粉雪が、目もあけられぬほど、吹きすさみときは、大人も子供も家の中に閉じこもるほかにない。兎も猿もふるえながら、木の洞穴かなにかにじっとひそんでいるにちがいない。(略)オバ雪はノソノソと降るのは、雪遊びを楽しむ子供にとっては、とてもうれしい.山のお猿さんも、オバ雪が降ると、だまっていられなくなって、おシリをまっかにして、とびまわることだろう。綿をちぎったようなオバ雪が、すぐ先もみえないほどふりしきるのを、窓ガラス越しに、じっと見つめていると、自分の体が天にのぼってゆくような錯覚をおこす。

 オバ雪とはぼたん雪、結晶の大きな雪のことで、粉雪は硬く、細かな雪のため傘をさいていても音がなるほど強く降るが、オバ雪となると、やさしく降る。一気に積もってしまうが、柔らかくて軽いので、子供達にとっては、扱いやすい雪なのであろう。


2017年9月3日日曜日

昔の冬の津軽




 ブラタモリ弘前の撮影前にディレクターから、江戸時代の冬の暮らしはどうなんですかという質問を受けた。明治二年弘前絵図には坂マークがあるが、なぜわざわざ絵図に坂のマークをつけたのか。冬の間、道に雪が積もると、荷車運行に難儀するためにつけたのではと答えたが、荷車の配送人からすれば、絵図の坂のマークがなくてもかまわない。屋根雪は、地震の際に家屋の倒壊に繋がるので、藩法で雪下ろしが奨励されていた。その雪はというと、家の前庭、後ろの畑に捨てられたと思うが、さらには道にも積まれただろう。雪が両隣の家から捨てられると次第に道は狭くなり、通行は難しくなる。そのため、往来の多い道では、整地が必要となる。道に積まれた雪は除雪、排雪、あるいは踏み固め、荷馬車が通れるようにする。今では市のシャベルカーやラッセルカーなどで除排雪がされているが、当時でも往来の多い主要な坂では人が入って整地しなければいけない。その箇所として絵図の坂マークを記したのかもしれない。ただ江戸時代の庶民の雪の始末の具体的な方法はほとんどわからない。あまり当たり前すぎて、書物にほとんど書かれていないからである。それでも戦前までは、まだ江戸時代の習慣が残っていた。というのは戦前まで農家の冬の靴と言えば、各種のワラで作った靴であり、ゴム長靴が普及するのは昭和も30年以降のことである。そこで江戸、明治時代の冬の弘前の暮らしを調べるため、少し文献をみてみたい。
 
 「新ひょうたんなまず」(甘茶勘平著、みなみ新報社、昭和33年)

雪囲い
ひろい屋敷のぐるりが、丈余のワラ垣で黄色に色どられるのは、いかにもぬくぬくとして、豊かで福福しい。庭木にまでも、ワラ帽子をかむせると、ひとしお平和で、その家の人たちの人情があついようにおもわれる。子供のころの冬の夜、雪囲いをあさって、雀をとった。農家のワラの分厚い雪囲いは、雀にとって、暖かいお宿でもあった。ふりしきる雪がやんで、寒月がこうこうよ照っている。雪囲いを棒でたたくと、眠りをさまされた雀が、あわててバタバタと飛びだすが、目がみえないので、すぐに目の前にとまる。それを手づかみするおもしろみは、わすれがたい。

明治頃の想い出と思われるが、家中、雀が中にいるほど、かなり厚いワラで覆ったことがわかる。

ゴム靴
むかしの農民は、夏冬をとおして、足にはくものはワラでつくったものに限られていたといってもよい。いまの人は、ゴンベ、クヅ、ツマゴといっても、それをなんのことか知らないだろうが、これは津軽の百姓が、冬の雪みちに履く、ワラでつくったハキモノの名である。ときおり、農産物品評会にでるのをみた人は知ってのとおり、すぐれた民芸品であるが、つくる手間がたいへんなわりに耐久力がないので、経済的にひきあわない。ゴム靴なら1年も2年も履けるから、そのほうが徳用なのである。子供の冬の履物には、ゴム靴はかけがえのない必要品、である。このゴム靴も、日本にはじめて輸入されたときは、すこぶるゼイタク品であったそうだ。明治何年かに百円もしたというのだから、今なら三万円も、五万円もの値段である。いくら水がもらない、ドロによごれても洗えばキレイになる、といってもこんな値段では。エライ役人や大金持ちでなければ買えるわけがない。それがだんだん安くはなったが、大正のころはまだ高かった。たしか、大正七八年だが、仲町の葛西という小間物やで、ゴムの短靴を売り出した。それはウラのつかないものだったが、値段は三円いくらであった。いまの金にすると千円以上である。

 この本の書かれた昭和30年代の物価は今の1/10なので、明治で三十万円、大正時代で一万円以上となる。年配の方が冬になると、デパートにも黒いゴム長靴を履いてくるが、昔は高級品で、贅沢品であったからであろう。ゴンベ、クヅ、ツマゴは、ワラで作った長靴であろうが、その種類についてはわからない。江戸時代も冬の靴はこうしたワラでできた長靴なのであろう。