2017年9月3日日曜日

昔の冬の津軽




 ブラタモリ弘前の撮影前にディレクターから、江戸時代の冬の暮らしはどうなんですかという質問を受けた。明治二年弘前絵図には坂マークがあるが、なぜわざわざ絵図に坂のマークをつけたのか。冬の間、道に雪が積もると、荷車運行に難儀するためにつけたのではと答えたが、荷車の配送人からすれば、絵図の坂のマークがなくてもかまわない。屋根雪は、地震の際に家屋の倒壊に繋がるので、藩法で雪下ろしが奨励されていた。その雪はというと、家の前庭、後ろの畑に捨てられたと思うが、さらには道にも積まれただろう。雪が両隣の家から捨てられると次第に道は狭くなり、通行は難しくなる。そのため、往来の多い道では、整地が必要となる。道に積まれた雪は除雪、排雪、あるいは踏み固め、荷馬車が通れるようにする。今では市のシャベルカーやラッセルカーなどで除排雪がされているが、当時でも往来の多い主要な坂では人が入って整地しなければいけない。その箇所として絵図の坂マークを記したのかもしれない。ただ江戸時代の庶民の雪の始末の具体的な方法はほとんどわからない。あまり当たり前すぎて、書物にほとんど書かれていないからである。それでも戦前までは、まだ江戸時代の習慣が残っていた。というのは戦前まで農家の冬の靴と言えば、各種のワラで作った靴であり、ゴム長靴が普及するのは昭和も30年以降のことである。そこで江戸、明治時代の冬の弘前の暮らしを調べるため、少し文献をみてみたい。
 
 「新ひょうたんなまず」(甘茶勘平著、みなみ新報社、昭和33年)

雪囲い
ひろい屋敷のぐるりが、丈余のワラ垣で黄色に色どられるのは、いかにもぬくぬくとして、豊かで福福しい。庭木にまでも、ワラ帽子をかむせると、ひとしお平和で、その家の人たちの人情があついようにおもわれる。子供のころの冬の夜、雪囲いをあさって、雀をとった。農家のワラの分厚い雪囲いは、雀にとって、暖かいお宿でもあった。ふりしきる雪がやんで、寒月がこうこうよ照っている。雪囲いを棒でたたくと、眠りをさまされた雀が、あわててバタバタと飛びだすが、目がみえないので、すぐに目の前にとまる。それを手づかみするおもしろみは、わすれがたい。

明治頃の想い出と思われるが、家中、雀が中にいるほど、かなり厚いワラで覆ったことがわかる。

ゴム靴
むかしの農民は、夏冬をとおして、足にはくものはワラでつくったものに限られていたといってもよい。いまの人は、ゴンベ、クヅ、ツマゴといっても、それをなんのことか知らないだろうが、これは津軽の百姓が、冬の雪みちに履く、ワラでつくったハキモノの名である。ときおり、農産物品評会にでるのをみた人は知ってのとおり、すぐれた民芸品であるが、つくる手間がたいへんなわりに耐久力がないので、経済的にひきあわない。ゴム靴なら1年も2年も履けるから、そのほうが徳用なのである。子供の冬の履物には、ゴム靴はかけがえのない必要品、である。このゴム靴も、日本にはじめて輸入されたときは、すこぶるゼイタク品であったそうだ。明治何年かに百円もしたというのだから、今なら三万円も、五万円もの値段である。いくら水がもらない、ドロによごれても洗えばキレイになる、といってもこんな値段では。エライ役人や大金持ちでなければ買えるわけがない。それがだんだん安くはなったが、大正のころはまだ高かった。たしか、大正七八年だが、仲町の葛西という小間物やで、ゴムの短靴を売り出した。それはウラのつかないものだったが、値段は三円いくらであった。いまの金にすると千円以上である。

 この本の書かれた昭和30年代の物価は今の1/10なので、明治で三十万円、大正時代で一万円以上となる。年配の方が冬になると、デパートにも黒いゴム長靴を履いてくるが、昔は高級品で、贅沢品であったからであろう。ゴンベ、クヅ、ツマゴは、ワラで作った長靴であろうが、その種類についてはわからない。江戸時代も冬の靴はこうしたワラでできた長靴なのであろう。

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