海外の男性からすると日本女性は理想的で、あこがれである。小柄な体つき、かわいい顔、すべてが女性らしく好かれる理由であるが、夫に尽くす、ひかえめで、家庭的であるなど内面的なところにも惹かれる。実際、外国人男性と日本人女性のカップルは多い。
外国人の方に聞くと、日本の女性は、これは中国や韓国の女性に比べても、自己主張が強くなく、料理、洗濯、掃除など古典的な女性の仕事をしてくれ、旦那にとっては、結婚して本当にありがたいようだ。例えば、アメリカでは、主婦はもはや料理はほとんどせず、各自が冷蔵庫から食べたいものを出してきて勝手に食べる。今日は、ラザリアを食べたいと思えば、それをレンジでチンして食べる。そのため、家を建てる時、きれいなキッチンを作るがいくら経っても汚れない。それに比べて日本の女性は、朝早く起きて、朝食は作ってくれるは、弁当は作ってくれるは、感動ものである。
さらにいうと、日本の女性の中でも津軽の女性は、昔から人気が高く、北海道では、嫁をもらうなら津軽の女性をもらえというほどであった。働き者で、辛抱強く、情が深いいため、過酷な土地である北海道の暮らしにも耐えてくれるからである。今でこそ、北海道は飛行機などで東京とダイレクトに繋がっているが、昔は隣県として青森県の存在は大きく、明治時代、多くの青森商人が函館などで活動した。
こうした日本女性、津軽女性の魅力に最初にノックアウトされ、ついには日本に永住した人物がいる。北海道開拓史、とくに酪農業において、大きな功績を残したお雇い外国人のエドウィン・ダンである。アメリカ、オハイオ州出身のダンは、ちょっとした好奇心で、明治六年に来日し、東京、北海道の農園で働くが、そこで青森県南津軽郡尾上村出身の松田ツルと出会う。後のダンはツルのことを、「私は自分の取った道を、一瞬といえども後悔したことはないということをここでいっておきたい。私は彼女を通じて日本の最も美しい一面、すなわち日本の立派な女性達を知る機会を得たのである。私の見方は多少偏っているかもしれない。しかし、日本の婦人ほど、非利己的で、自己犠牲的で、愛すべきものは世界中どこにもありように思われる」、さらに「皇后陛下が私の妻の訪問を非常に喜んで迎えられ、そのお蔭で私の妻は、宮中の淑女たちや東京の上層階級の間に社交的な地位を確立することができた。東京の貴婦人たちと私の妻が親しければ、そういう足場を作るのは難しいことであったであろう。彼女がいなければさぞ寂しかったろ思われる北海道での長い生活に、よく連れ添ってくれた私の妻は、宮中でのエチケットや東京の社交界の空気にいともたやすく慣れてしまったようである」と最大限の賛辞を送っている。
この松田ツルの写真が残っていないのでわからないが、きれいな人でダンも惚れたであろう。こうしたことは「エドウィン・ダンの妻ツルとその時代(阿部三恵著、道新選書、1995)に詳しい。ツルについては、「南津軽郡尾上村87 番地 平民松田亀吉の妹」、「明治27年、日清戦争当時、旧尾上村松田平吉の長女、鶴子が、米国の日本駐留公使エドウィン・ダン氏の侍妾となり、ダン氏の帰国と共に渡米し、アメリカ人になった」、「猿賀代官所の前に家があり、津軽藩の御用達もした商人」、「生まれたのは万延元年(1860)であり、小学校教育は受けていない」と記され、さらにダンとの出会いは、函館郊外の開拓使御用の「峠下ホテル」で女中をしていたツルと出会った。ツルとは幸せな家庭を作り、娘ヘレンも授かったが、明治21年(1888)に慢性胃炎のため28歳で亡くなる。ダンはその後、日本人女性と再婚し、84歳で日本にて亡くなる。
2 件のコメント:
貴殿が掲載されたエドウィン・ダン夫人の写真は、鶴さんとは別人のものであることが、先年判明いたしました。
詳しくは、札幌市南区真駒内にあるエドウィン・ダン記念館に御確認ください。
情報ありがとうございました。昨年、札幌に行った折、確認すればよかったのですが、検索で2015年までは記念館にこの写真を飾っていたため、載せました。写真は削除し、一部、文章も変更いたしました。
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