2009年1月4日日曜日

六甲学院 2




 授業が終わると、掃除当番は教室と便所の掃除をする。これもかなり徹底したもので、教室の机(ヒルケルさんという大工さんが作った木製のものでかなり重い)をすべて後ろに移動し、ほうきで掃いてから、ぞうきんで床をみがく。それらの様子を訓育生がチェックしてOKならいいが、駄目なら何度もやり直される。便所当番は、二人一組で、どういう訳が上半身裸、短パンのみの格好で、たわしとぞうきんで便器の中まで洗わされる。訓育生は小便用の便器の管の中まで指をつっこみ汚れていないかチェックする。こういったことを6年間もやると、そうじに対してうんざりして、私などは未だに掃除が苦手である。

 放課後は、各種の部活を行うのだが、校長がいわゆる競技スポーツには否定的で、練習は週に3回に制限されていた。サッカー部の場合は例えば中学生が月、水、土、高校生は火、木、土といった割り振りであった。土曜日のみが中学高校の合同練習であった。それ以外の日は家に帰って勉強するのもいやだったので、自習室にいって勉強のできた同級生に宿題を教えてもらっていた。

 こんな調子であまり練習時間も少なかったが、サッカー部は結構強く、神戸市や兵庫県の大会でも上位であった。6年間一緒で、同じ指導者から教えられ、チームワークがよかったからかもしれない。ドイツでは青年のスポーツはあくまで体を鍛えるものとの認識からか、大会と試験が重なるとどんな大会でも試験を優先させたし、ましては学校で試合を応援することなどなかった。高校総体の兵庫県決勝でも神戸高校はスタンドを埋める多くの生徒が集まっていたのに対し、我が校では応援はひとりもなし、同様に近畿大会も決勝も含めた全試合にも応援はなかった。ややさびしい気もするが、昨今の小学生のサッカー大会で父兄がみんな集まり応援する風景よりはましかとも思ったりする。プロであるまいし、あまり試合の勝敗にこだわる必要もなかろう。

 学校の帰りの電車ではいくら席が空いているからといって座るなと言われていた。サッカー部の監督からは「運動部の連中が体力があるのに席に座るのはみっともない」、校長からは「混んできたら席を譲ればよいと思うかもしれないが、席をゆずるといいことをしたという驕りの精神がでる。それくらいなら空いていても座るな」といわれ、どうも座っていると腰がむずむずして罪悪感を長い間抱いていた。ようやくその束縛が解かれたのは40過ぎだが、未だに電車に乗るとドア横のところが定位置になっている。

 この学校の面白いのは、カトリックなので賛美歌を歌うのはわかるが、それ以外にもやたらに多くの歌があり、学校の歌集にも賛美歌とともに山岳部の歌や確かサッカー部の歌など学校の歌と呼べるようなものたくさんあった。校歌のほかにも第二校歌として「六甲讃歌」と呼ばれる曲もみんなが歌える。これは音楽教師の本田先生が作曲が好きで、いっぱい曲を作ったからではと思っている。この本田先生は本当にユニークで、いわゆる変人と呼べるひとで、とてもじゃないが公立学校では勤務できなかったであろう。作曲の宿題があった時、私が音楽を専攻していた姉の協力で時間をかけて作った曲は評価されず、友人がどんな曲もわからず16音符をめちゃめちゃに並べた曲に「これはすごい曲だ。おまえは天才かもしれない」と何度もわけのわからないこの曲を「すごい。すごい」と言って、ピアノで弾いていたこともあった。今で言う「イントロクイズ」みたいな試験があり、古今の名曲といってもかなりこの本田先生の好みが反映されているが、100曲の出だしから、曲名を当てる試験があった。その当時、ソニーレコードから同様な趣旨でクラシックの名曲のさわりを集めたレコードや連想から100曲すべて覚え、100点とった記憶がある。例えば左卜全の「やめてけれ!」は、プッチーニの「セビリアの理髪師 序曲」といった連想。今でもプロコフィエフ「キージェ中尉」などすぐに思い出し、後年音大の女の子とつきあっても何とか話題についていくことができた。

 また美術の上沼先生は、ほとんど仙人にような世俗を離れた人柄で、運動靴の後ろ半分をカットしたサンダルを常用していた。学校の付属の庭園で写生をしていると、「ここはこうやって。この色はこの方が。やっぱりここにはこの木を描こう」といって一人で私の絵に手を加えていき、結局はほとんど完成させて「これでいいか」といって去って行く。あとで点数は98点つけてもらった。

 文化祭は他校に門戸を開く機会であり、入場券がなければ入れなかった。そのため好きなこがいると、この券を渡して文化祭にきてもらうわけだが、私の場合、6年間全く同世代の女の子と話すこともなくさびしい青春だった。そのかわり友人と焼き芋屋をやり、随分大もうけできた。黒字がでると収入は回収されるため生まれて初めて粉飾決算を行った。当時、自主映画が流行っていて、私の学年では空手映画を作り、結構おもしろかったが(後年30周年の集まりではこの映画を久しぶりに見ることができた)、前の学年では一人の少女を使った前衛的な作品が上映され、本格的な映画を作るひとがいるのだなあと思った。いまの黒沢清監督であった。その数年前には大森一樹監督もいるし、私の学年にも宝塚のプロデューサーをしていたものもおり、案外こんなことも影響しているかもしれない。

 六甲学院の通知簿を見ると、中間、期末試験とも点数のみ記載されており、学年で何番だったかいまだにわからない。全教科の平均点が90点以上が金賞、85点以上が銀賞、80点以上は銅賞という賞状を学年末に該当者がもらったが、5点評価や学年で何番かといった評価はない。これじゃ親に見せても子供の成績がどうかはわからない。ドイツ人の校長は常日頃「克己心」を唱えており、人との競争ではなく、自分に打ち勝つこと大事だと言っていたが、成績表でも比較ではなく、自分で判断しろということか。英語の授業も、スペイン人が担当だったので、和訳、英訳とも何とか意味がなされていれば点数をくれたし、「プログレスイングリュシュ」という独自の教科書には付属のカセットテープがついており、毎日それを聞き、勉強するように言われたが、持ちかえるとダンボールにぽいと捨ててほとんど聞かなかった。この教科書は今や多くの学校で採用され、有名だが、もう少しまじめに勉強すればと悔やまれる。

 六甲高校も最近では進学率も悪くなり、他の私立校に押されているが、私のいたころは進学率も高く、中くらいにいれば大阪大か神戸大には進学できた。サッカー部に最後までいた私以外の6名についても1人は東京大、1人は京都大、2人は大阪大、2名は神戸大と有名校に進学しており、OBも各界で活躍している。そういった意味では青春の6年間をこの学校で過ごせたことに大変感謝している。今でも子弟の進学には、どうしてこの学校をというOBも多い。

 まだまだ語りたいことがあるが、これでしまいとする。高校の同級生に年1回会うが、汲めども思い出は出て来て楽しい。

2 件のコメント:

giyachan さんのコメント...

広瀬さん
いやー、貴ブログを見て驚きました。
多分六中のOBだと思います。
わたしは17期の福田信三と申します。
突然のメールを失礼いたします。
たまたま今夜山岳会の総会があり、ある方の消息を知るためネットサーフしていた時に貴方を知りました。
お顔もお名前も何も未知ですが、ガイドの六甲1,2を見るとすぐそれとわかります。随分離れたところにおられますね。
メル友でいきましょうか?
17期 福田信三

広瀬寿秀 さんのコメント...

私は32期で、山岳部というと、坂上先生のことを思い出します。中学3年の頃でしたが、追分小屋から立山、薬師岳縦走を何組かに分けて修学旅行がわりに行きましたが、今考えるとよくあんな危険なことを学校行事でしていたものです。雷被害を防ぎため、数メートルずつ離れて歩かされました。また在校時に確か、六甲学院山岳部OBによるパトゴニア探検の話を聞きました。