2022年3月8日火曜日

邦楽のおける不思議なところ、津軽


 


白川軍八郎



神如道

三味線というと、今は津軽三味線が最も知られているが、三味線の本流でいえば長唄や浄瑠璃の三味線となる。津軽三味線は、三味線の傍流である盲者のよる瞽女などの巡業、門付の音楽と直接につながる。瞽女は盲目の女旅芸人であり、男子は平曲を演奏する琵琶法師として生計を立てた。おそらく男性が瞽女のように三味線で門付芸人となったのは、青森の金木生まれの仁太坊(にたぼう 1857-1928)が最初かもしれない。江戸時代、男性盲人は弘前藩では座頭として、按摩、鍼、琵琶法師、金融などが許され、保護されていたが、明治新政府となると、こうしたある意味、特権となる権利が全てなくなり、自力で生計を立てなくてはいけなくなった。仁太坊が生まれたのはまさに盲人にとっては最も厳しい時代であり、その中で、生活のために人の興味を引く、あるいは金になる音楽として生まれたのが、津軽三味線であり、そしてそれを発展させたのが弟子の白川軍八郎、さらに戦後のブームを作ったのが高橋竹山である。その後、若者たちにも津軽三味線の強いビートは受け入れられ、今は日本のみならず、世界的に人気がある。従来の長唄、浄瑠璃の三味線だけであれば、もはた絶滅寸前の楽器となった可能性が高い。

 

 同様に琵琶演奏の平曲も、盲人の座頭が生計を立てるために発展したもので、幕府でも職屋敷の音楽として検校が流派として音楽を継続した。ところが弘前藩では、どういう訳か、家老職などを務める高位の藩士、楠美家が平曲を家の音楽として引き継いた。どちらかと言うと低俗な音楽である平曲が弘前藩では目が見える藩士、士族の音楽として尊重された。こうした例は薩摩琵琶として士族音楽として広まった薩摩藩を除き、一般的には平曲は盲人の音楽で、晴眼者の士族の音楽ではなかった。明治以降、検校などの盲人保護政策が打ち切られると、その音楽である平曲も没落した。それを救ったのが、平曲を家の音楽として伝えた楠美家であり、弘前藩最後の家老、楠美太素、そしてその息子で館山家の養子に行った館山漸之進が平曲の伝承、普及に努めた。もしこの両人がいなければ、平曲もはや音楽としては消滅していたかもしれない。

 

 尺八についても、弘前藩と熊本藩以外では、普化宗の虚無僧あるいは乞食の楽器として定着した。明治になると普化宗は廃止され、その存亡が危惧されたが、わずかに弘前藩では士族の楽器として継承され、明治期には乳井月影、あるいは神如道が各派に伝わる尺八の曲を集大成し、今日の尺八の礎となった。彼らは尺八を士族の楽器として誇りを持って演奏した。

 

こうしてみると三味線、平曲、尺八など、今日の邦楽を代表する楽器の継承に弘前は大きく関わっていることがわかる。江戸時代、文化、ことに士族の文化は江戸の規範に則り、能を頂点とする士族の音楽と、歌舞伎音楽や盲人音楽とに、大きく二分され、後者を庶民の低俗な音楽とみなしてきたが、辺境の地にある青森では、後者のような音楽もそれほどタブー化されることなく、実際、歌舞伎俳優も弘前藩は扶持を与えて雇ったほどである。ただ今日となると、津軽三味線については津軽という冠名があるので津軽が発祥とわかるが、他の平曲、尺八などでは青森の貢献はそれほど知られていない。


他にも津軽では、手踊り、津軽笛、民謡なども盛んであり、寒くて暗い冬を過ごすためには音楽のような娯楽が皆必要だったのだろう。ただこうした江戸時代では低俗だった音楽も、弘前の人々により衰退を逃れ、盛んになるにつれ、東京、京都などで組織化され、その代表者が人間国宝となったが、津軽出身者で音楽の人間国宝になった人は確かいないはずである。残念なことである。

 

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