2022年4月10日日曜日

知的探索の面白さ

作者不明 加藤●
 
初代、芝川又衛門(百々)


カタログの説明文



数年前に、アメリカ、オハイオ州のシンシナティー美術館のホウメイさんと偶然に知りあった。その後、自分の美術館に収められている“西山芳園”の作とされている絵は違った画家の“芳園”の作でないか、それを証明する手伝いをしてくれないかと頼まれた。何十回のやり取りの後に、西山芳園とは別の作家の絵ということがわかった。現在、京都国立近代美術館で開催されている“サロン!雅と俗 京の大家と知られざる大阪画壇”では大英博物館から何点かの作品が貸し出され、そのうち二点は、従来なら西山芳園の作とされていたのが、カタログでは“芳園平吉輝”という画家の作品というホウメイさんの考えと、私の考え、「香川芳園」のことではないかという説も挙げ、さらにカタログの謝辞に私の名前を入れていただいた。歯科医という全く美術史とは関係ない人物がこうした美術展覧会のカタログに取り上げてもらい、光栄なことである。

 

最初は、シンシナティー美術館にある鎧と刀が、私が研究していた須藤かくと関係していたので、問い合わせがきたことから始まる。その後、須藤かくの本を出版し、さらにディスカバリー日本に英語で投稿したことで、この案件は終了した。その後、同館に所蔵されていた“芳園輝”の署名がある絵のことで調査を依頼され、二年ほど、インターネットを中心に調査を行なった。最終的にはホウメイさんが香港の美術誌「Orientations」に論文を投稿した。

 

ホウメイさんとのネットでの付き合いはその後も継続し、つい最近も、美術館に美術品を寄贈したいという人の作品についての問い合わせがあった。一つは「甲東園画誌」という画帳で、その作者についてのものであった。私自身、草書、崩し字を読むことができないので、こうした画帳の説明文の解読も苦労する。最初見ても全く理解できないが、毎日見ていると何となくわかってくる。右の達筆の文は「此の霊芝は松花堂茶室の床にあったと記録す」隣、右の「壬戌四月」大正11年(1922)となる。「加藤」は読めるが、その後の文字が解明できない。そこで、所有する「大日本書画名家大観」という画家の辞書があるので、これで加藤姓の画家を調べる。30名以上の加藤という画家がいるが生年月日や没年、住所などから該当者を4名ほどに絞られる。それでも加藤●に該当する人物はいない。次に送られてきたのは、画集でこれは、わかりやすく「明治丙午秋日写 八十四翁百々芝川貫」と読める。芝川貫と検索してもヒットせず。ここで推論したのは、送られてきた画帳と画集は共に西宮市甲東園の芝川又衛門関係のものと考え、初代の芝川又衛門の字名を調べると、百々(どど)の名が出てき、さらに詳しいブログがあったので、それを調べると、今回の絵とほぼ同じ、署名、画のものを発見した。この画集は明治の大阪で活躍した実業家、初代、芝川又衛門の手になるものと判明した。ここまで3日間を要した。そうなると最初の画帳も、必ずしも画家の作品ではなく、実業家、芝川又衛門同様にアマチュアの画家のものかもしれないと考え、現在、調査を継続している。

 

これは謎解きの一例であるが、なかなか面白い。数十年前、インターネットのなかった時は、こうした謎解きには、まず図書館に行って徹底的に本を調べなくてはいけないし、関係者に会いに行ったり、場合によっては手紙で問い合わせが必要であった。かなりの労力と金がかかった。私のような他の仕事をしている人にとっては敷居の高い領域であった。ところがインターネットの発展により、今ではネット検索でかなりのことがわかり、もちろん本による資料調べも必要であるが、敷居はよほど低くなった。

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