2022年4月24日日曜日

本多庸一の書

 





                                      


先日のヤフーオークションで、本多庸一の書が出ていた。偽物の可能性はないとは思うが、一応、ネットで本多庸一の書についてチェックしたが、印章や落款についてはわからない。そこで本多の書、印章、落款がある本を探してみると、本多庸一の伝記のバイブルとなる気賀健生著の「本多庸一 信仰と生涯」(教文館)にたどり着く。本多については最も詳しく書かれた本である。ここに一章を設けて“本多庸一の書”が紹介されている。画像自体が小さいので、詳細ははっきりしないが、35枚の書が示されている。聖書の聖句から論語と書題は幅広い。

 

本多は、聖職者が主たる職業で、さらに教師、政治家?が副業であり、書家としてもなかなかの腕前である。おそらく書を書くのも好きで、頼まれれば揮毫するが、ただそれほど誇るところもなかったのだろう。印はほぼ同じで、「本多庸印」と号である「小静」の二つしかない。署名は「庸一」が一番多いのだが、「小静」や「小静庸一」の署名もある。書のレベルとしては、江戸時代の武士の書としては、なかなかのものであり、明治以降生まれの日本人に比べると群を抜いている。幕末に生まれた森鴎外や夏目漱石の書となると、これは侍として正式に書を習ったものではなく、我流の書となる。森鴎外の生まれたのは、文久二年(1862)で、彼は一種の天才で幼い頃から四書五経を学んでいたが、廃藩置県をきっかけに明治五年(1872)に上京して、翌年には11歳で東京医学校(東京大学医学部)に入学する。これらの経歴から、幼少期に多少は書を学んだと思われるが、本格的な書を学ぶ時期はなかったと思う。それに対して、本多庸一の生まれたのは嘉永元年(1849)で、彼も早熟の天才で藩校である稽古館で早くから漢書を学び、さらに17歳からは藩に出仕し、実務に携わり、戊辰戦争でも多くの活躍をした。これらの合間を縫って、正式に書を習ったものと思われる。師匠の名はわからないが、藩校の書額頭の小山内西山あるいは小山内暉山から指導されたかもしれない。本多家は弘前藩でも中級から上級士族であり、家の格に沿った漢学と書道を習ったのであろう。

 

落札した書には「眼到心到身到」と書かれている。「心到」についてはかなり崩しているので他の漢字を調べてみたが、「到」の大幅な崩しとみなした方が良い。これは中国、宋の朱子が唱えた読書の要諦「眼到口到心到」を変形させたものである。朱子が唱えるものは、まず眼で一字一字よく見て、それを口で唱えて、心を込めて読めば、心にしむというものだが、本多は口に出さなくてもしっかり心で読めば、次第に身につき、本の教えを実際の行動に移せるととく。本多は弘前藩の藩校、稽古館で、講師の櫛引錯斎の薫陶を受けた。櫛引は朱子学を本多に教えて、その人柄に強く惹かれた。青年になると朱子学から次第に陽明学に惹かれるようになり、それが「身到」になった理由であろう。本を読むだけでなく、しっかり心に入れて、そして身につけて行動しろと。

 

他の明治期のキリスト教指導者の書をみると、内村鑑三は正式に書を習ったことはないのか、残されている書をみると、言っては悪いがかなり稚拙である。同志社の創立者、新島襄もなかなか達筆ではある。新島は天保14年(1843)生まれで、身分はそれほど高くはないが、安中藩士の子供であり、士族としての書を習ったのであろう。ただ本多ほど自由闊達な書とはなっていない。明治の有名人の書をみると、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、福沢諭吉など1830年代前後に生まれた人は、江戸時代のしっかりした書道教育を受けて達筆であるが、幕末、1850年以降の次の世代、新渡戸稲造、原敬あたりになると書もだいぶ下手になる。そうした意味では、本多庸一は書で見ても心身ともに武士であったのだろう。

 

P S:弘前市の本販売ランキングは、土手町、中三デパートになるジュンク堂の売り上げをもとにしている、3月初めに出版し、7位—7位—10位—5位となり先週ようやく1位となった。前に出版した「新編明治二年弘前絵図」や「津軽人物グラフィティー」では出版早々に1位になったが、今回の本は少しづつ口コミで購買数が増えているようである。嬉しいことである。

 


ヤフーオークションでもう一つ、本多庸一の書が見つかりましたので、購入しました。マタイ福音書第7章18節の「善樹は悪果を結ばず」の一節。あたかも漢学のような感覚で聖書を書にしています。






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