2022年4月14日木曜日

残念!旧千葉酒造店が壊され、更地になりました。






「弘前歴史街歩き」でも保存、活用を願っていた本町にある唯一の明治時代の商家である「旧千葉酒造店」が完全に壊され更地になっていました。これまでの私や他の人のコメントを載せます。

 

 

唯一、当時の商店の繁盛ぶりを示す建物は、明治41年(1908)に竣工された旧千葉酒造店で、二階建て、瓦葺きの屋根の店舗住宅は、漆喰の白い壁が美しく、堂々とした家屋である。昭和初期までは、「金露」の金看板が揚げられていた。創業者の千葉千代三が神戸、灘の日本酒「金露」を大阪より仕入れ、売っていた。最近まで、ここを買った吉井酒造の吉井千代子社長の住居だったが、今後、保存してほしい建物のひとつである。  (「弘前歴史街歩き」より)

 

 

 

弘前版「文創」運動に期待 
 台湾では近年、「文創」という取り組みが活発である。「文化創意」を略した言葉で、台湾の文化や伝統を取り入れた創作を奨励し、産業として発展させようとする運動である。政府が音頭を取って国の経済成長産業の一つとして位置づけている。その一環として、古い日本統治時代の建物を再利用して、国の支援のもと、喫茶店、民宿、レストランが次々とでき、若者、観光客にも人気がある。
 弘前には戦前の古い建物が数多く残っているが、それがうまく利用されているとは言い難く、近年、建物の劣化により次々と壊され、姿を消している。最近も禅林街にあった明治時代の旧連隊将校集会所(正進会館)や弘前大学裏の旧福島醸造変電所が突然なくなり、行くたびに寂しい思いをする。
 一方、旧第八師団長官舎を使ったコーヒーショップや弘前れんが倉庫美術館のような古い建物をリノベーションした成功例もあり、国、県、市が協力し合って、何とか弘前版「文創」運動ができないであろうか。弘前駅前の吉井酒造事務所、倉庫、本町の旧千葉酒店、禅林街の忠霊塔など、市民からすると気になる古い建物があり、その存続が懸念される。

(弘前市・広瀬寿秀・65歳)
              (2021.12.20 東奥日報 明鏡欄)

 

 

 

広瀬矯正歯科クリニックの広瀬です。ご無沙汰しております。実は、来年早々に「弘前歴史街歩き」という本を出すことになっており、その中でも少しだけ、茶太楼新聞のことも触れています。弘前駅から代官町、土手町、お城など、散歩コース途中に見かける風景と建物の解説をした本となっています。

 この執筆中に感じた問題点としては、コロナ下ということもありますが、古い建物、お店が知らぬ間に次々となくなっている事実です。執筆途中にお店がなくなって、文章の削除をする箇所も多く、非常に寂しく思っています。そうしたこともあり、最近、12/20付けの明鏡欄に投稿しました。実際のポイントは昨年、亡くなった吉井酒造、吉井千代子社長の不動産遺産に関することです。お子様がいなかったこともあり、その相続権は親類にあると思いますが、弘前大学裏にあった桜林で有名だった変電所跡も更地になり、今は住宅地となっています。他の遺産、駅前の吉井酒造の事務所、倉庫や本町の自宅も、早晩同じ運命になると思います。ただこうした私有地に関しては、市の方でも何もできず、また我々市民にとっても、全く内容がわからないもので興味を持ちようもありません。そこでお願いしたいのは、何らかの形、東奥小中学生新聞の子供の取材でも結構ですが、建物内部の取材をしていただけないでしょうか。私が知る限り、上記建物、吉井酒造事務所、倉庫、本町の旧千葉酒造店の内部の写真はありません。最終的に壊されるにしても、かってこういう建物があったという記録は必要と思われますし、それが保存の機運につながる可能性もあります。

             (知り合いの東奥日報記者へのメール、2021.12.24

 

 

こんばんは。コメントを失礼いたします。

ちょうど一昨日、吉井酒造の近くを通りかかり、ぼんやりと、この建物はどうなるのかな?と思いました。私は30年ほど前に、吉井倉庫を見下ろすマンションに住んでいたので、赤煉瓦の煙突からたなびく煙や、倉庫内の大きな樽を確認しておりました。その頃、実際に醸造をしていたかどうかはわかりませんが。

吉井酒造は吉井千代子社長の実妹の方が秋田の小玉醸造に嫁がれていた関係で、醸造を委託していたようです。それでも、近年までスーパーで吉井酒造の酒がすが販売されていたことも記憶しております。

私は、ブランド酒の吉野桜を一昨年春に購入したいと問い合わせたところ、運良く2本入手でき、その時駅前の事務所を片付け中の中、事務室や居室、また奥の庭や倉庫などを見せていただきました。倉庫は外見だけですが。事務所の扉やガラスなど凝った設えであり、先代の勇様、そして千代子社長の美意識の高さに感動いたしました。やはり何とか残して、活用の道はないものかと思います。立地条件もいいし、広さがありますからね。

弘前れんが倉庫美術館はコロナ禍の影響もあり苦戦しているようにみえますが、これから巻き返してくれることを祈っております。駐車場がないことは致命的のような気がします。更に西目屋か相馬方面の、吉井酒造発電所も現役ですが、今後どうなるのかな?と思っております。福島藤助氏がつくり、吉井氏が引き継いできたもの、弘前の偉人たちが残した遺産をうまく活用して、保存して欲しいと願っております。

       (「広瀬院長の弘前ブログ」2021.12.23匿名さんからのコメント)

 

 

吉井酒造の社長、千代子さんとは、昔からの知り合いで、本町のお住まいには何度か行ったことがある。中はいろんな調度品が飾られていて、綺麗な室内だった。古い建物だが、うまく利用しているようで、あれを壊すのはもったいない。

           (古書店「成田書店」のご主人との会話から)

 

 

 

 何とかせめて喫茶店でも活用できなかったか残念である。もちろん改装するにも金がかかり、維持するのも大変であり、全く関心のない遺族からすれば、更地にして現金化して分割してもらった方が良かろう。ただこうした明治時代の立派な商店は、もはや弘前でもここくらいしかないし、亡くなった吉井社長も愛して建物だっただけに、こうして跡形もなくなると実に寂しい。

 


旧千葉酒造店の横にあった岩田唯四郎宅(映画「石中先生行状記」(昭和25年)





本町坂、上の鉄柱から



こんばんは。コメントを失礼いたします。

昨日、解体された更地を確認して唖然といたしました。
つい先日、通りかかった際には通り面した一部が残されていたので、このまま中庭にあっただろう蔵(窪島誠一郎著『「無言館への旅」』に吉井邸の記載あり)と玄関は残されるのだろうと勝手に思っておりました。
残念です。驚きです。無念です。

こちらは、元々は吉井千代子さんのお母様のご実家、旧千葉酒造の店舗兼住宅であり、千葉家の娘婿であった吉井勇氏の家族の住んでたそうです。もちろん千代子さんも。

私がこちらのお家に興味を持ち調べましたのは、「弘前れんが倉庫美術館」が発端でした。
福島藤助ー吉井勇ー吉井千代子とつながり、吉井勇という型破りで謎めいた人物を知りたいと思ったわけです。
そこで知り得たことのひとつに、こちら本町の千葉家との関係でした。

千葉酒造創業者の千代三氏には二人の息子さんと、7人の娘さんがいらしたのですが、長男は函館の商業高校在学中に病死し、次男の四郎さんは戦死し帰らぬ人となりました。
東京で美術を学んでいた千葉四郎さんの絵画と彫刻が長野の無言館に残されております。そして、無言館の館長、窪島氏が千葉四郎さんの作品を本町の千葉家の家族から受け取るシーンが描かれておりました。さらに、地方の演劇グループがそちらの本を題材にした演劇を上演していたことも知りました。
酒造店の跡取り息子の生還を、長く長く待ち望んだ悲劇がひしひしと伝わりました。我が家も同然でしたので余計に感じ入るところがございました。

長々と、書き連ねてしまいました。明治期に作られた引き締まった風格のある土蔵の商家が消失したこと、そして付随する思い出、人々の息づかいのようなものが消えてしまったような気がしてなりません。
残念です。

2022/04/15 18:13

 削除



コメントありがとうございます。壊されてしまった旧千葉酒造店の内部も、吉井千代子さんの趣味で、素晴らしい空間だったようです。故人も愛していた建物だったのでしょう。私もせめて蔵の部分は残るだろうと期待していたのですが、見事に期待を裏切られ、残念です。仲町にある旧笹森順造生家の保存にも以前、動いたことがあります。子供のいない婦人が住んでいたのですが、亡くなり、弘前市に寄贈するように親類代表者に助言しました。ところが、登記移転をしていなかったので、関西を中心に遠い親戚も含めて10名以上の遺産相続人が現れました。ほとんどの親戚には寄付の同意を得られましたが、少しでも金が欲しいという親戚もいて、結局は取り壊されました。
古い建物の保存は本当に難しく、行政がタッチしないとどうにもなりません。残るは駅前の吉井酒造倉庫と事務所になりました。倉庫は全長100mくらいあり、全天候のマルシェや屋内運動場などにも使えそうですが、結局は早晩、潰され、更地になるでしょう。市長が音頭をとって台湾の文化創意のような運動をしてくれればいいのですが、当選した市長には期待できそうにもありません。

2022/04/16 8:21

 削除







 

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんばんは。コメントを失礼いたします。
昨日、解体された更地を確認して唖然といたしました。
つい先日、通りかかった際には通り面した一部が残されていたので、このまま中庭にあっただろう蔵(窪島誠一郎著『「無言館への旅」』に吉井邸の記載あり)と玄関は残されるのだろうと勝手に思っておりました。
残念です。驚きです。無念です。

こちらは、元々は吉井千代子さんのお母様のご実家、旧千葉酒造の店舗兼住宅であり、千葉家の娘婿であった吉井勇氏の家族の住んでたそうです。もちろん千代子さんも。

私がこちらのお家に興味を持ち調べましたのは、「弘前れんが倉庫美術館」が発端でした。
福島藤助ー吉井勇ー吉井千代子とつながり、吉井勇という型破りで謎めいた人物を知りたいと思ったわけです。
そこで知り得たことのひとつに、こちら本町の千葉家との関係でした。

千葉酒造創業者の千代三氏には二人の息子さんと、7人の娘さんがいらしたのですが、長男は函館の商業高校在学中に病死し、次男の四郎さんは戦死し帰らぬ人となりました。
東京で美術を学んでいた千葉四郎さんの絵画と彫刻が長野の無言館に残されております。そして、無言館の館長、窪島氏が千葉四郎さんの作品を本町の千葉家の家族から受け取るシーンが描かれておりました。さらに、地方の演劇グループがそちらの本を題材にした演劇を上演していたことも知りました。
酒造店の跡取り息子の生還を、長く長く待ち望んだ悲劇がひしひしと伝わりました。我が家も同然でしたので余計に感じ入るところがございました。

長々と、書き連ねてしまいました。明治期に作られた引き締まった風格のある土蔵の商家が消失したこと、そして付随する思い出、人々の息づかいのようなものが消えてしまったような気がしてなりません。
残念です。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。壊されてしまった旧千葉酒造店の内部も、吉井千代子さんの趣味で、素晴らしい空間だったようです。故人も愛していた建物だったのでしょう。私もせめて蔵の部分は残るだろうと期待していたのですが、見事に期待を裏切られ、残念です。仲町にある旧笹森順造生家の保存にも以前、動いたことがあります。子供のいない婦人が住んでいたのですが、亡くなり、弘前市に寄贈するように親類代表者に助言しました。ところが、登記移転をしていなかったので、関西を中心に遠い親戚も含めて10名以上の遺産相続人が現れました。ほとんどの親戚には寄付の同意を得られましたが、少しでも金が欲しいという親戚もいて、結局は取り壊されました。
古い建物の保存は本当に難しく、行政がタッチしないとどうにもなりません。残るは駅前の吉井酒造倉庫と事務所になりました。倉庫は全長100mくらいあり、全天候のマルシェや屋内運動場などにも使えそうですが、結局は早晩、潰され、更地になるでしょう。市長が音頭をとって台湾の文化創意のような運動をしてくれればいいのですが、当選した市長には期待できそうにもありません。

匿名 さんのコメント...

ご返信に感謝いたします。
吉井さんが所有していた物件として、紙漉沢の発電所もごさいました。
千代子社長がお亡くなりになったあたりに、そちらの水力発電所を訪問してみたのですが、従業員の方から、今後のことはわかりませんというお返事と、SNSなどにのせないでという約束で撮影をし、私の資料として残しました。

大正時代に福島酒造の煉瓦倉庫を造るために、自前で開拓し、発電所をつくり、今も変わらず稼働しております。
建物には歴史があります。それに携わった先人たちの歴史も含みます。
是非こちらも、保存の方向に進んでくださればと願います。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。あそこは確か、東北電力も関係している施設では。そちらの方でも保存を考えてくれれば幸いです。
弘前大学裏の桜林も綺麗だったのですが、ここも住宅地になり残念です。まあレンガ倉庫が美術館として残ったのが何よりでした。
駅前の倉庫もそうですが、私の周囲の人もほとんど内部も見たことがなく、保存に動こうにも、情報が少なすぎます。弘前市も観光都市を目指すなら、何らかの対策をしなければ、同様なことがこれからも次々と起こります。