2022年5月14日土曜日

弘前市森町の忍者屋敷について その4





 







 久しぶりに親方町にある成田書店に寄ってきた。本日は、「弘前の町並 武家屋敷 伝統的建造物群保存地区保存調査報告書」、「弘前城西濠発掘調査報告書」、「黒石の町並 伝統的建造物群保存調査報告書」を購入した。店主と久しぶりに会話していると、そういえばお客さんから先生に聞いてほしいことがあると。店主は客のメモを探している。しばらくすると、メモを発見。それをみると先祖が弘前市仲町地区の馬喰町に住んでおり、私のブログにこの地区の地籍図があることを知った。そこで弘前図書館に相談に行ったら、そんな地籍図はないと言われたということであった。確か以前、成田書店で買った仲町伝統建造物群調査報告書にその地籍図が載っていたのを思い出し、店内の本を調べると、ちょうどその本があったので、調べると弘前図書館蔵となっていた。店主に今度、そのお客さんが来たら、この本を買ってもらい、図書館に持って行って、ここに載っている弘前図書館蔵となっている明治初期の絵図を見せてほしいと頼んだらよいと答えた。以前、下町、荒町地区の地籍図を調査したおり、他の地区の地籍図もありそうだったが、それ以上、調べていなかった。図書館倉庫のどこかで忘れられてあるのかもしれない。見つかれば弘前市の地図で初めて地番が入った地図で貴重なものとなろう。

 

 以前のブログで、弘前の忍者屋敷の隠れ部屋について、便所か掃除道具などを収めた納戸のようなものではないかとした。江戸時代とはいえ、弘前の通常の家で、そこにくる客の会話を隠し部屋で聞く必要は考えられない。それほど大きな家でもなく、来る客もたかが知れているような家で、江戸後期から幕末に、隠し部屋をわざわざ作る理由が見当たらない。特に津軽藩は他国からの人の侵入には警戒していたこともあり、そもそも他国からの人の流入も少ない。また仮に藩に対する不満があって藩内の同士が集まったとしても、その会話を誰かがわざわざ隠し部屋で聞くとは考えにくい。

 

 この隠し部屋は幅60cmくらいの狭い空間である。客間壁の半分を仏壇あるいは押入れを作り、半分を床の間にする。例えば押入れの奥行き、90cmとすると、床の間ではそれほど深い奥行きが必要ないので1/3を床の間、後ろ2/3を物入れにしたのであろうと考えた。そうした例を以前のブログでも紹介したが、今回購入した本にも2軒ほど同様な構造の家が載っていたので、紹介したい。

 

 一軒は、若党町の蒔苗家の座敷で、ここは客間となっていて、奥には棚と床の間がある。奥行きが深いと格好悪いので、便所との間にわざわざ空間を作って幅を30-40cmくらいの空間にしている。もう一つは春日町の高杉家で、この家の座敷の壁面、左半分が押入れ、そして右半分が床の間となり、床の間の裏には縁側に続き、幅50cmくらいの空間がある。座敷の右横に縁側のような廊下があり、廊下の奥に幅50cm、奥行き170cmくらいの納戸のような空間がある。森町忍者屋敷の隠れ部屋が幅60cmで奥行きが90cmなので、これよりは奥行きが深いが、構造自体は似ていて、人が入ることができよう。明治2年弘前絵図では春日町に高杉健吉の家が認められるが、この家の住所は春日町7であり、福士勝弥、須田源之烝の名がある辺りとなる。この武家屋敷は、今はないが、ここも忍者屋敷だったというのか。

 

 そもそも本物の隠し部屋を作るなら縁側から丸見えのところ、客間にいる怪しい人が、立ち上がって縁側を向かうと、そこに空間があって人が立ち聞きしているのが丸見えなのは困る。せめて外から見てみそこに人が隠れているのがすぐにわからないような工夫が必要であろう。一見、壁のように見えて、ドアのようになっているような工夫とか。

 

 私のようなアマチュアがブログでいろんなことは言っても、無意味なのかも知れない。ただ歴史、古屋敷の専門家から、これまでこの忍者屋敷に対する解説は一切なく、黙秘している。弘前観光コンベンション協会などでも紹介するのであれば、そろそろ正式な調査を行なっていただきたい。弘前教育委員会ではたくさんの江戸時代の建造物の調査を行なっている。できれば、この忍者屋敷と呼ばれる建物についても仲町の家同様に調査を行なっていただき、もし他の武家屋敷とは違う忍者屋敷と呼ばれるような特殊な構造を持つならば、全国的に紹介すればいいし、逆であれば、紹介すること自体が恥ずかしいこととなる。ただあくまで夢のある話ということで騒ぐのであれば、新郷村のキリストの墓同様にロマンのある話なので、こうして真面目に調査するのも大人気ないのかも知れない。

 

 



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