2025年5月25日日曜日

テアトル弘前シネマ

 


昨年、閉館した鍛冶町、ピンク映画館「テアトル弘前」で有志が定期的に映画を上映するという。昔からこの映画館はピンクに塗られた外観が気になった建物で、何度も写真を撮った場所である。ピンク映画自体は問題ないのだが、ここはゲイの方が友達を探すところという噂を聞いたので、躊躇されて行ったことはない。今は、昔の切符売り場が小さな喫茶店になり、その奥が50名くらい入るホール、プロジェクターで映画を上映する構成となっていた。7席8列くらいで50人くらいが収容される。

 

本日、早速行ってみた。館内に入ると、折りたたみ椅子が置かれ、小さなライブ会場のような雰囲気で、元映画館という痕跡はあまりない。上映映画は、あの懐かしの「青い山脈」、原節子版ではなく、吉永小百合版であった。観客は8名くらいで若い人が2名で、私と同じくらいの年配の方が6名くらいであった。昭和38年製作の古い作品で、若者には興味がないのか。原作者の石坂洋次郎は弘前市出身の作家で、本作の舞台も弘前市、あるいは秋田県横手市と言われるが、この映画のロケ地は彦根市で、彦根の人々は古い街並みが見られて嬉しい作品であろう。私にすれば、少し陳腐な作品で、石坂洋次郎のようにその当時の時世をよりリアルに描いた作家の作品は今、見るとかなり古臭さがより目立つ。いわゆるより最新になればなるほど、すぐに陳腐化してしまう。その点、小津安二郎も現代物を撮影しているが、今、彼の作品を見てもそれほど古臭さい感覚はない。監督の差というよりは原作の差のように思われる。ユーモア映画であるが、全く笑えない作品で、同時期のクレージーキャッツの無責任シリーズ、日本一シリーズの方がよほど笑える。青い山脈の原作は昭和22年、映画は昭和24年、昭和32年、昭和38年、昭和50年、昭和63年の5回撮影されているが、原作に一番近いのは昭和24年、原節子主演のもので、おそらく昭和38年版もすでに時代遅れの感があったろう。

 

こうした名作映画を上映するミニシアターは、個人的にはすごく好きである。中学高校生の頃は、神戸、三宮のビッグ映劇によく行った。大学生になると、仙台の一番町にあった「名画座」、ここは本当によく行った。高校生の家庭教師の教えに従って、年間100本を目標に休みの度にこの映画館に行った。結婚すると映画館に行くことはほとんどなくなったので、鹿児島、その後の弘前でもあまり映画館には行ってない。弘前では住んでいたところから100mくらいのところ、南横町に名画座があったが、入りにくいので行かないまま、閉館となった。

 

弘前市で住んでみて、いつも感心するのは、今回のように、新たな企てを試みようとする人が多いことだ。友人に弘前オリオン座の息子がいて、彼にまた映画館をやろうよというが、実際にやるとなるとかなり面倒なことである。浪岡映画祭の関係者が中三デパートでオタク映画を数年、上映していて、これはよく見に行った。中三デパートがなくなり、もうミニシアターで映画を見られないのかと思っていたところ、今回のような有志がこうした企画をしてくれた。嬉しいことである。他にはビッグジャズバンドをしている団体があったり、落語会を開いたり、古書店をしたり、中古家具屋をしたり、いろんなことにチャレンジする若者が多いところである。ただ発想は非常にいいのだが、いかんせん人口が少なくて、東京では流行ると思うことでもなかなか弘前では続けられないのが残念である。なんとか地方に住みながら、地元民だけでなく、東京あるいは世界とネットで繋がり、商売できるようなモデルケースがないだろうか。今後とも地方では人口、とりわけ若者人口は急激に減っていく。それでもここで住みたい、何かをしたいと思う若者は多い。ただそれが商売となり、生活するとなると厳しく、ネット販売、東京での販売など、販路を外に向けないと厳しい。YouTubeで「92歳バレリーナ 伝説の朝ごはん」を見ていると、毎朝、青研 葉とらずりんご100”を飲んでいるので、地元でお恥ずかしい限りだが、真似して購入して飲んでいる。経営状態は全く知らないが、この青研という会社は輸出も好調のようで、うまく行っているのだろう。青森、弘前市を一つの国と考え、他国(県外、東京、海外)に輸出を伸ばすような政策(県)が大事かもしれない。

若い人はチャレンジ精神でどんどん挑戦してほしい。


2025年5月17日土曜日

明治二年弘前絵図 複製あげます

 

75cm×79cmの複製印刷


200部

12年前に、「新編 明治二年弘前絵図」を発行した時に、付録としてそのコピーを巻末につけた。最初の「明治二年弘前絵図」は、絵図データーをCDに入れて付録にしたが、データーが読めないという苦情が数件あり、また年配の方はそもそもコンピューターがないこともあり、新編ではこのデータから75cm×79cmの小型複製を作り、それを付録にした。印刷費用は部数の多寡によりそれほど違わないので、製本用の1000部に加えて、個人的に誰かにあげようと全部で1500部の複製を作った。弘前コンベンション協会に寄贈したり、街歩きのツアーで利用したり、絵図の好きな人にあげたりしたが、まだ200部以上が残っている。今年いっぱいで当院も閉院するので、この200部の複製絵図もそのまま廃棄となる。もったいないので、弘前博物館、高岡の森 弘前藩歴史館に問い合わせたが、今のところ活用計画もないので、必要ないとのことであった。

 

もしこのブログをお読みの方で200部必要な方がおられれば、お譲りしようと思う。ただ以下の条件に該当しない場合はお断りすることもある。

1.基本的には無料配布(何かの活動費の資金にするはOK

2.発送費用は着払い

 

できれば教育目的(中学生、高校生、市民)のために活用してもらえばありがたい。郷土史や課外授業への活用も考えられる。弘前は江戸時代から街の大まかな形は変わっていないので、絵図を使って学校近くの場所を散策し、生徒に身近な歴史を感じてもらう。また観光客、宿泊客への無料配布(ホテル、旅館、レストラン)やカルチャーロードでの無料配布もいいだろう。たとえばホテルの宿泊客にギフトとしてあげれば喜ばれるかもしれない。また貸切観光タクシーのお客にあげるのもいいかも。商工会議所や青年会議所で会員に配布する。土手町のまちなか情報センターやヒロロ3階に置いてもらう。などなど

 

欲しい方は下記アドレスまで連絡してほしい。

         hiroseorth@yahoo.co.jp





2025年5月15日木曜日

ペンダントのあるダイニング



ペンダントとは上から吊るす照明全体を指す言葉だ。照明の分野では壁にかける照明をブラケット、机に乗せる照明をスタンド、さらにテーブルに置くテーブルスタンドと、地面に置くフロアスタンドに分かれる。天井照明は、ダウンライトとシーリングライトに分かれ、天井に埋め込んだ照明をダウンライト、外に出たものをシーリングライトと呼ばれる。

 

日本の照明は、長い間、シーリングライトが中心で、居間、和室に丸い蛍光灯が入った四角のシーリングライト、紐を引っ張って付けたり、消したりする照明が、蛍光灯として一般的であった。その前は、電球のソケットの横にスイッチがあり、それを回して消したり、付けたりした。私の尼崎の実家は天井に直接つけられたシーリングライトが基本であったが、その後、仙台、鹿児島のアパート、弘前の家内の実家、ずべてが紐で引っ張る式にシーリングライトであった。この時代は長く続いた。

 

欧米の住宅を見ると、部屋そのものを明るくする照明よりはスポットライトが基本であるが、明るい夜を何よりも求める日本人には長い間受け入れなかった。私の家でも、ダイニングのテーブルにはデンマーク製の2つのペンダントを吊るしているが、それまではそうしたことはしなかった。天井に照明があり、ダイニングの上にある食器や料理にスポットライトを当てるものではない。

 

今回、引越しのために早めにダイニングの2つのペンダントを片付けたが、これがなくなると途端に暗くなり、ダイニングにおけるペンダントの重要性を再認識した。もちろんペンダントがなくてもダイニングには天井のダウンライト、壁にはブラケットが4つあるが、それでもかなり暗く感じる。通常はブラケットをつけることはなく、ダウンライトとペンダント、場合によってはペンダントだけで十分に明るい。どうもペンダントがないと、食事が美味しくないのである。

 

食器、料理に直接光が当たることで、食器、料理の色がはえ、美味しく感じるし、テーブルで本を読んだり、書き物をしたり、あるいは家内はミシンで裁縫するのも明るくて便利である。一見、スポットライト照明は暗いイメージがあるが、むしろ部屋に陰影ができてくつろげるし、特にダイニングにおいて、ペンダントは料理を美味しくして、食事を楽しめる。ただダイニングにペンダントを入れるためには、電源コードをダイニングテーブルの上に置かなければいけないので、マンションや中古住宅、あるいは新築でも前もって電源の位置を決めなくてはいけない。インテリアの配置はけっこう悩む問題であり、ソファ、ダイニングテーブルをどこに置くか、また位置決めも数センチ単位で考える。基本的にはペンダントはダイニングテーブルの真ん中に置くため、テーブルの大きさも関係するし、ニ灯のペンダントを置く場合は電源は2つとなる。それゆえ、インテリアの位置が全て決まった時点で、電源の数、位置が決まり、ペンダントの取り付けとなる。おそらくこうした工事は電気屋の仕事になり、工事代などがかかるし、面倒である。何より安いダイニングテーブルやペンダントでは、こうした工事するほどの価値はないかもしれない。逆に言えば、美味しい料理を楽しむためには、ダイニングテーブル、ペンダント、チェアーはいいものを選びたい。家具というのは面白いもので、1000円のカラーボックスだって数十年は持つ。ダイニングテーブルやチェアーだってセカンドストリートなどの中古販売店にいけば、2万円くらいで全て揃えることができるし、おそらく一生持つだろう。

 

ただ逆に考えると、例えば、カールハンセン社のダイニングテーブルやチェアーで揃えると100万円くらいかかる。さすがにこれくらいになるとペンダントや取り付け工事代も気にならない。もちろんこうした家具はいい木材と技術を使っているので、百年はゆうに持つし、例えばY-チェアーなどは70年前のものでも未だに高額で取引されており、子供や友人にあげると喜ばれ、活用できる。これは考え方であるが、100万円のものでも数十年使うなら、毎年2万円くらいとなり、50年後も程度がよければ、そこそこの価格で売れる。

 

これから家を持つ人は、まずダイニングテーブルとペンダントのいいものを揃えたい。これだけで日々の食事が楽しく美味しくなるので効果は高い。椅子に関しては、ゆっくりと調達していけばいい。娘がマンションを購入した。昔は婚礼家具は親が準備したので、今回はダイニングのチェアーをプレゼントすることにした。カールハンセンのCH24(Yチェアー)のチーク材の椅子が二脚、ノルウエイのScandiaという美しいカーブを持つ二脚を用意した。テーブルとペンダントは自分で好きなものを買ったもらう。気に入ってもらえばよいが。


Scandia







 

2025年5月13日火曜日

折りたたみ自転車 BD-1C

 





リアキャリア ピアノ線で固定 怖い構造


このBD-125年ほど前、2000年頃に近所のサイクリストスペシャル タケウチで購入したものである。ドイツのダームスダット工科大学のマーカス・ライズとハイコ・ミューラーが開発した折りたたみ自転車で、現在でも人気がある。というのは折りたたみ車にしては前後のホイールベースが長く、ほぼ26インチの普通車並みに走れるからである。ただタイヤ径が18インチと小さいので直進性はやや劣るものの、車体の軽さと相まって、かなりスピードが出る。ブルータスか何かの雑誌で取り上げられて、かっこいいと思って購入した。出たばかりの頃だった。他にはイギリスのプロンプトンという折りたたみ車もかっこいいと思ったが、16インチは流石に小さすぎるとBD-1にした記憶があるが、今ではプロンプトンの方が街用の自転車としては人気がある。

 

私は持っているBD-1は、家内も乗るかと思い、ハンドルがやや内傾しているBD-1Cというタイプで、カラーはオリジナルのシルバーにした。オプションとしてはリアキャリアと輪行袋があり、これも一緒に購入した。リアキャリは今、販売しているものとは違い、ワイヤーで固定するもので、このキャリアの組み立てはネットで載っていないので、説明書を添付する。キャリアとしてはやや頼りないので、今のものは下からも支えるものになっている。これまで25年使って、タイヤは2回交換、ゴムのダンパーは一回交換した。使っていて一番怖かったのは、ハンドルとステムの継ぎ目が折れたことだった。走行中にこの部分が折れ、なんとかこけないですんだがこれは怖かった。自転車屋に持っていくと、これはやばいと言われ、そのままミズタニ自転車に送られ、現行のネジで止めるタイプになった。それまではろう着したもので、他にも同様な事故があったのだろう。

 

折りたたみ車というと、僕らの世代はブリヂストンのワンタッチピクニカが非常に売れたが、今のような折りたたみ自転車の火付け役は、このBD-1とプロンプトンであろう。今ではこのBD-1も一台、安いもので198000円、チタン製の限定モデルは60万円くらいするが、2000年頃は10万円くらいで、ほぼ2倍になっている。イギリスのプロンプトンに至っては今や30万円くらいになっており(2000年頃は確か12万円くらい)、もはや外に駐輪できない自転車になった。ロードレーサなど他の輸入自転車に比べても値上がり幅が大きい。これだったら、小型自転車で世界最速のアメリカのBIKE Fridayというメーカーの方が安いかもしれない。この自転車はオーダー車で、昔も高かったが、今は作っているのだろうか。また自転車のロールロイスと呼ばれるイギリスのアレックス・モールトンは100万円以上するモデルもあるが、これは美しい。ここまでくるととても乗れないし、近所の喫茶店に行っても、盗まれるかもしれないとコーヒーもゆっくり飲めない。

 

春になると自転車の乗る人も多くなった。中学生を見ていると、ここ数年、ママチャリからスポーツ車に変わってきており、ドロップハンドルで通学する生徒も多くなった。大歓迎であるが、いまだに自転車道の整備は不十分である。もっと自転車専用レーンを拡大することが大事である。廃止される大鰐線も全てアスファルト道路にして、バス専用レーンにするか、自転車専用レーンとして活用してほしい。










2025年5月9日金曜日

宮本輝著 「潮音」

 



宮本輝の新刊、「潮音」、全4巻読み終えた。今回は、3ヶ月くらいで一気に4巻発行のため、読むのが忙しかった。5月半ばに引っ越す予定なので、休診日の水曜、木曜、日曜とも荷造りばかりしていたので、本を読む時間が取れない。ただ流転の海の場合は、次の作品まで間が空いているので、前巻までの筋を忘れてしまうが、この「潮音」は間をおかずに発刊されたので、そういうことはない。

 

4巻読んだ感想としては、富山の薬売りという特殊な仕事なのか、幕末から明治の細かい出来事が、かなり詳しく語られる内容となった。明治については、司馬遼太郎の一つの解釈があり、そこには坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作、大村益次郎、河井継之助などのビッグネームが存在し、彼らを通じて日本の近代化が語られるが、「潮音」では、登場人物はほぼ架空の人物で、司馬遼太郎とは逆の立場からの見方となる。庶民の立場からの明治維新なのである。ただ富山の薬売りが、職業がら最新の情報を常に入手していたとはいえ、ここまで情報収集能力があったか不思議な感じがしたし、逆にいえば急激な社会変化が起こった幕末から明治初期の時代では、これくらいの能力がなければ生き残れなかったのかもしれない。過酷な時代だった。

 

江戸時代というのは、ある意味、既得権益の時代であった。武士は武士という階級の中での特権があるだけでなく、視覚障害者は座頭という仕組みがあり、あんま、はりだけでなく、金融業が認められていた。またエタ非人といった階層も、犯罪人の捜査、刑務所の看守、皮加工、など特殊な仕事を請け負い、他の人の介入はできなかった。基本的には江戸時代の職業は、士農工商という大きな枠組み以外にも、町仲間のように同じ職業のものが集まった団体があり、幕府の許可を得て独占的に営業する権利を持ち、新規のものの参入を防いだ。本書に登場する富山の薬売りもそうした枠組みを持つだけでなく、富山藩そのものが、耕作地が少なく、薬売りが藩そのものの産業で、多くの住民がそれに関連していたという特殊な事情もあった。

 

こうした江戸の制度が全てバッサリと崩壊したのが明治である。士農工商という身分制度がなくなったのは、全ての人にチャンスができたというばかりではなく、これまでの既存の仕組みが崩壊し、新たな仕組みを作らないといけないという厄介な問題が生じた。本書では、こうした時代の大きな変換に勇気を持って立ち向かった人々が描かれている。そしてこの努力は連綿と今日までも続いており、現在でも多くの製薬会社が富山県に集まっている。

 

歴史小説の難しいのは、状況の説明をどこまでするのか、読者の歴史認識をどこに置くのかであろう。私の今一番好きな高田郁の「あきない世傳 金と銀」のようなシリーズもの(ドラマが最高に面白い)では、江戸時代の呉服店の大まかな説明があれば、その後はストーリを淡々と進めていけるが、主題が江戸時代の枠組みの崩壊となれば、さらに大きな規模での説明が求められ、これだけの分量となったのだろう。それでも読者に飽きさせずに読み進められるのは筆者の力量であろう。

 

個人的には、主人公、弥一の部下、才児という人物が面白かった。子供の頃から変わった人物で、今で言うならサヴァン症候群と診断されるかもしれないが、そのやや自閉症的な行動を周りの人々が丁寧に修正していき、そして記憶力の良さなど長所を伸ばしていき、しまいには弥一の片腕となって活躍していく。清々しい。おそらく上海で中国語と英語をマスターし、ひとまわり大きな商人となって活躍していくのだろう。昔、母から聞いたが、徳島県の脇町という母の生まれ育ったところでは、ダウン症の子供がいると、みんなして簡単な仕事をさせて多少のお小遣いをあげていたという。ダウン症の子供は性格が優しく、きちんと仕事をするので、町の者は簡単な仕事を残しておいて、ダウン症の子供にさせるという風習があった。小さなコミュニティーでは、障害を持っていても皆で一緒に育てるというルールのようなものがあり、障害があるならあったでできることをさせたのであろう。

 

宮本輝さんも今年で78歳というが、この年齢でこれだけの分量の本を短期間で書くというのはたいしたものである。とりわけ初挑戦の時代物となると、多くの資料を集め、読みこなさなくてはいけないので、通常の小説の何倍も苦労したと思う。今回も広瀬屋という同姓の登場人物を出してもらいありがとうございます。


 


2025年5月5日月曜日

五百旗頭眞 先生

 



5/4NHKスペシャル「シリーズ未完のバトル 秩序なき世界 日本外交への遺言」は面白かった。昨年、亡くなった五百旗頭眞先生と歴代首相との関係、今後の日本の外交の指針を多くの画像と音声で丁寧に描いていた。番組自体は、六甲学院の同窓会フェイスブックで案内されていたが、NHKさすがという構成だった。

 

五百旗頭先生(いおきベと読む)は、六甲学院のかなりの先輩で、番組に登場していた息子さんの五百旗薫先生は確か後輩であったと思う。神戸大学教授から、小泉首相の要請で2006年から2012年まで防衛大学の学長をしていた。リベラルな学者がどうして防衛大学にいったか不思議であったが、歴代の学長を見ると旧軍時代の反省からかリベラルな学者が学長になるようだ。五百旗頭先生の次の学長はテレビにも出演していた國文良成慶應大学教授である。

 

五百旗頭先生はコンピューターがどうも苦手のようで、時の首相への提言は全て手書き文のファックス送信であった。つい最近の岸田首相の時もこうしたやり取りで、首相と連絡していたようで、同じような話は何度か聞いたことがある。安倍首相の補佐官といえば、菅官房長官であるが、実際の秘書の役割は北村滋国家安全保障局長で、この人は安倍首相の長期政権を陰から支えた。五百旗頭先生のファックスは、まずこの北村内閣情報官が見て、それを首相に持っていき、意見を交わすという段取りである。安倍首相によく手紙を出すという知人も同様な手続きで首相のもとに手紙が配達されるという。歴代の首相には、こうした最側近のブレーンがいた。ちなみに今の石破首相には北村内閣情報官のような優れたブレーンがいないのか、政策に一貫性がない。拓殖大学の佐藤慎一郎先生の逸話に中にも、こうした話がある。中国専門家の佐藤先生は、文化大革命中の現状を中国からの難民への直接の聞き取りから、新聞報道と違い、中国がひどいことになっていると警告した。月に一度、中国問題についてのレポートを首相官邸に持って行っていた。機密漏洩という点でも文書を直接持って行く方が安全だったのであろう。こうしたレポートは首相側近のブレーンがまず読み、それを首相に説明し、報告した。安岡正篤なども、面談と手紙で首相の政策決定に力を及ぼした。

 

日本は中国への侵略という負の面を常に反省するが、中国は日本の戦後の平和主義と、鄧小平の改革開放政策への日本の協力、WTO参加への協力、などを評価すべきで、こうした両国の関係の上に、日中戦略的互恵関係という提案は極めて現実的な選択肢である。日本では、大学の学者が実際の政治、あるいは政策に直接参加することは少ないが、欧米ではそうしたことが普通であり、ある時はハーバード大学の教授であったが、政権のブレーンに入り、政権が変わるとまた大学に戻るというのが普通にある。五百旗頭先生はこうした海外の政治学者とも交流が深く、政治への関与があったのだろう。

 

明治維新後の日本の外交は、欧米主義と大アジア主義に揺れた。世界の大国を目指した欧米主義が基本であり、弘前出身の外交官、珍田捨巳も国際協調、欧米中心主義を日本の外交骨格とし、昭和天皇と牧野伸顕とタッグを組んで、ロンドン海軍軍縮くらいまでは何とかその路線で進めていたが、次第に軍部の力が強くなり、日本を中心としてアジア諸国と力を合わせる大アジア主義が勝ってきた。牧野こそが昭和天皇の最側近で信頼がおけるブレーンで、彼が昭和10年内大臣を退官してからは、昭和天皇以外は、軍部が主導する大アジア主義、国粋主義となった。

 

五百旗頭先生の主張と珍田捨巳、牧野伸顕の主張は、日米安保を除いて、かなり近いもので、基軸を欧米に置きながらアジア、隣国との仲良くしていく。これで中国がベトナムに近い感じで民主化していけば理想的で、現実的には北朝鮮、中国という独裁社会主義国とは五百旗頭先生が唱える互恵関係で合わせていくのだろう。

 

五百旗頭先生は80歳でお亡くなりなったが、ロシアのウクライナ侵攻、トランプ大統領の二期目の政権、習近平の独裁中国など、多々の問題を日本は抱えており、歴代総理の中でも最低な石破首相をもう少し支えてほしかった。残念であるが、歴代首相の列席、天皇陛下からの祭祀料、儀仗隊の派遣があったのは故人にとって最高の名誉である。


2025年5月4日日曜日

行きたい国、日本

 


日本のサッパリ系のラーメンがアメリカの西海岸で人気のようである。ラーメンといえば海外ではとんこつというくらい、味のしっかりした、濃いスープのようなラーメンが人気があった。ところが、西海岸のロサンゼルスなどでは古くから日本式のラーメン店が多く、そうしたラーメンに飽きてきた客がサッパリ系のラーメンに向かったようだ。

 

私が2030歳のころでも、寿司は外国人に人気はなかった。アメリカ人の多くは生ものを食べた経験がなく、どうも寿司は生臭くて食べられない、吐き出すような食べ物であった。ところが時代が変わり、体のためにいい、カロリーが少ないと無理して寿司を食べていくうちに寿司のうまさに気付き、それまでは寿司屋に行ってもカリフォルニア巻きなどしか食べられなかったお客がマグロの握りがうまいと思うようになる。要するに欧米人にとって日本食は食べず嫌いであったが、少しずつ食べていくと病みつきになってきたというのが実際であろう。

 

うちでも15年ほど前に二人のアメリカからの留学生を3ヶ月ほど預かったことがある。二人とも初めての外国が弘前で、他の国に行ったことはない。一人はサウスダコダ出身で、周りに日本人どころかアジア人も見たことがないという。もちろん日本にくるまで日本食を食べたことはない。最初はご飯ですらあまり得意でなかったが、それは次第に食べられるようになったし、カレーライスは大好物となった。とんかつ、ハンバーグ、鳥の唐揚げなどの肉料理は好きだったが、刺身や寿司のような生魚は結局、最後まで無理だった。もう一人の留学生は、ボストン出身で、多くの日本料理店が近くにあり、ボストンにいた時によく日本料理を食べていた。そのため、こちらにきてもほとんどの食事は大丈夫であった。

 

今日、多くの外国人はインバウンドで訪日して、日本のいろんな料理を楽しんでいる。それだけ母国でも日本料理がポピュラーになってきて、刺身や寿司などの生魚も大丈夫になってきているのだろう。そうなれば、日本ほど食に恵まれた国は世界でも珍しく、例えば弘前のような地方都市でも、中国人がうまいと思う中華料理屋があり、イタリア人がうまいと思うイタリア料理屋があり、フランス人がうまいというフランス料理がある。さすがにチェネジア料理店は潰れたが、インドネパール料理店は粘っているし、アジア創作料理店ではベトナム料理やタイ料理も楽しめる。もちろんラーメン屋から天ぷら、寿司、とんかつ、カレーから本格的な日本料理までレパートリーが広い。昔、50年前にネパールに旅行に行った時、カレーばかりの食事に飽きて、どうしても日本料理が食いたくなった。首都のカトマンズでも1軒しか日本料理店?がなく、そこでウドンと親子丼を食べたがうまかった。

 

今日のようにグローバリゼーションが進み、世界の情報が同時に共用できるような社会では、好き嫌いという点でも共通化が進んでいるのかもしれない。日本で流行っても世界では通用しないものが多かったが、今は、一億人という日本の商圏で流行るものは世界でも流行るという考えになっている。You tubeを見ていると、ブラジルのある家庭では手巻き寿司が子供の頃からの母親、家族の食事になっていた。日系ブラジル人ではない。おそらく日本のカレールーなどは世界中で使われ、日本式カレーが家庭料理の定番になってくるかもしれない。

 

ここ最近の海外からのインバウンド客の急激な増加を見ていると、日本の生活、習慣に世界中が慣れてきた、近づいてきたことに尽きる。ヤマハが発明した電動アシスト自転車、トヨタが開発したハイブリット車、ニンテンドウ、ソニーのゲーム機、日本アニメは欧米では普通になっているし、玄関で靴を脱ぐ習慣も、まず北欧で一般化し、次第に南下し、フランスでも靴を脱ぐ家が多くなっているし、知人のアメリカ人に聞くとアメリカでは普通になってきているようだ。家の中が汚れないので、急速に広まっている。海苔がブラックペーパーと言われていたのは数十年前のことだし、盆栽、生花、お茶、俳句、金魚も人気が高い。逆に日本人だって、パン食を好む老人が増えているし、私など、もはや畳で寝るのは苦痛で、ベッドのない旅館には泊まらない。

 

外国の方でも、子供の頃からアニメに親しみ、“ドラえもん”、“キャプテン翼”、“となりのトトロ”などで日本人の生活を知っている人は驚くほど多く、彼らにとっては私らの世代が“ルーシショー”や“奥様は魔女”などで知ったアメリカの生活を夢見たと同じ気持ちで日本に行きたいのだろう。アジアだけで40億の人口がいて、彼らが今後、日本に来る人たちであり、インバウンドは一過性の流行ではなく、日本の大きな産業となろう。


2025年5月1日木曜日

Can I take a picture?

 


例年、弘前の桜祭りでは、外国人観光客を中心に「写真をと入りましょうか、Can I take a picture for you」と言って、写真を撮るようにしている。今回も二度ほど、弘前公園に言って5人ほどの声かけて、4人には感謝され、一人からは“NO!”と強く拒否された。あまり経験がなかったので、少しびっくりした。そういえば、先日、行った埼玉の鉄道博物館でも中国人観光客に声かけすると、「結構です、ありがとう」と丁寧に断られた。

 

 

ここ10年くらい、それこそいろんな観光地で100人以上の外国人観光客に声をかけて、写真を撮ってきたが、二人も断られたのは始めてである。家内と一緒によく旅行するが、二人で撮る場合、ほぼ自撮りなので、同じような構図となってしまう。きちんと二人で写したい時はよく他の人に頼む。そうしたことあり、アベックや家族で来ている観光客には積極的に声をかけて写真を撮るようにしているが、皆本当に喜んでくれる。ある時は、一人の中国人観光客の写真を撮ると、私も私もと5組ほど写真を撮ったこともある。

 

一方、自分が海外の観光地に行って、こちらから写真撮影を頼むのはいいとしても、向こうから写真を撮りましょうかと言われれば、かなり怪しむだろう。まずスマホを盗まれて逃げられることも多々あるだろう。海外ではこうしたリスクも十分に警戒しなくてはいかず、私が写真を撮りましょうかと言っても断るのは普通なのかもしれない。

 

このことをいつもの英会話教室で喋っていると、アメリカ人講師からすれば、なぜ人の写真を撮ってやらないといけないのか、向こうから頼まれればそうするかもしれないが、こちらからすることはないという。そして、こうした親切に外国人は経験が少ないので断ったのではという。確かに海外で道を聞いても、断れられたし、かなりいい加減な説明もあった。目的地まで案内してくれるということはまずありえない。私自身、道を聞かれて、自分の目的地からそれほど遠回りでなければよく一緒に案内することがある。先日も、外国からの観光客らしい中年の夫婦が雨に打たれて中央通りを歩いていた。道がわからないようなので声をかけると、石場旅館に行きたいという。帰り道だったので、案内することにした。イタリア、トリノからの観光客で、仙台、弘前、札幌と旅行するという。大変喜ばれた。また中年の女性が土手町で道がわからず、眼鏡屋に道を聞こうとしが、店主が英語がわからないと困っている、声をかけると、自分はイタリア、ミラノから来た観光客で日本の雑貨店を探しているという。英語の弘前マップに雑貨店に◯がついている。そこで代官町の2件の雑貨店に案内したが、休みで、最終的には私の家のすぐ近所の雑貨店まで案内したことがある。これも大変喜ばれた。

 

人に親切にすると、こちらもその日は楽しい気分になるし、おそらく相手もそう思うことが多いと思う。まして観光に来たのであれば、なおさらでいい思い出になるのではと思う。それゆえ、親切をむげに断るのも、どうかと思う。逆に私自身が旅行に行って、人から親切を受けたなら、そのまま素直に好意を受けて、感謝する。さすがに日本で、写真を撮りましょうかと言って、スマホを渡すと、そのまま奪って逃げるということはないし、そもそも身なりや会話、雰囲気から判断する。

 

Googleで調べると、写真を撮りましょうかと言われると、どう断るかという質問がたくさんあった。なかには“Back OFF”と断るといいですよと意見もある(“消え失せよ”)。他にも自分のスマホを他人に触らせたくない、必ずこちらも撮ってくれといわれ、撮るのが面倒、そもそもなぜ声かけされるかわからない、自分達の世界に入ってくるな、他人と少しでも関わりたくない、他人の汚い手で自分のスマホを触られるのがイヤ、などの意見もけっこう多い。スマホは現代人にとっては自分の分身で、それを他人に触られるのもイヤだと思う人や人に関わりたくない、おせっかいな人は大嫌いという人も多いようだ。親切とおせっかいは紙一重で、東京では親切<おせっかいと思う人は多いので他人には声をかけない一方、大阪では親切>おせっかいと思う人が多く、他人にもよく声をかける。

 

今の所、“写真を撮りましょうか”といえばほとんどが喜んでくれるので、もう少し続けたいが、1/3くらいに断られるようならやめにしよう。